絶命のユーフォリア

絶命のユーフォリア

#03 1-3

 雨が降っているらしい。水と湿った土、そして埃臭さが混じり合った匂いが辺りを支配していた。
「ん……」
 寝返りを打つ。すると身を支えていた柔らかな敷物が途切れ、硬いものに手が触れた。冷たい感触をぺたぺたと確かめながら、うっすらと目を開く。それが石らしきものでできた床であること、自分が見知らぬ何かの上に寝転がっていることを認識して、モーリェは飛び起きた。
「っ!! 黙ってたな!?」
 覚醒しつつある意識に流れ込んできたのは、倒れ伏す直前の記憶。〝登録〟がすぐ終わるとは聞いていたが、その際に殺されるだなんて、案内人たちは一言も口にしていなかった。話したところで無駄に怖じけづかせるだけ、という理由を導けるほど、モーリェの頭はまだ正しく回っていなかった。
 胸に手を当て、心臓が鼓動を打っていることを確認する。手のひらに確かな生命の力を感じ、安堵の息をついた。
 心臓が突然爆ぜた瞬間のことはしっかりと覚えている。意識が消えゆく一瞬のあいだに、自分が確かに快感を得ていたことも。
 この体はすでに人ならざる者の仲間入りを果たしている、と実感する。右目がびくりと疼いた。視界は相変わらず水のヴェールを纏っている。
 自らを落ち着かせるために胸をさすりながら辺りを見回した。そこにイゾラとシエロの姿はなく、死生匣テラヴァイスもない。先ほどとは異なる場所に運ばれてきたのだと窺い知れた。
 施設の雰囲気が違うのだ。イゾラの後をついて歩き回った建物は、古びた無地の床と壁でできていた。しかしモーリェが目を覚ました部屋は、壁にも床にも幾何学的な模様がびっしりと描かれている。床にいくつか置かれた光る石が、それらを不気味に照らし出していた。
 床に転がされていたのはモーリェだけではなかった。何かが詰まった袋、箱、布きれ、謎の器具……と、様々なものが置かれている。倉庫にしては収納のしかたが雑だが、ここで誰かが暮らしているにしても生活感が足りないように思えた。
「なに、ここ……」
 ぽつりとこぼした直後、呟きに応えるかのように足音が近づいてきた。身を強張らせて音の出所を探ると、それが近くの階段から響いているということがわかる。この埃臭い建物には上階があるようだ。
 階段が描くカーブの向こうから現れたのは、眠たげな目をした小柄な青年だった。
「やっと起きたんだね、おはようー」
「お、おはよう」
 話し掛けられるだけでも緊張が走る。床に座り込んだ青年には見覚えがあった。
 忘れられるわけがない。モーリェにとって初めての〝悦ばしい死〟を見せつけた、あの若者だ。
 歳の頃は自身よりいくつか上といったところだろうか。上半身と下半身はしっかりと繋がっていた。イゾラたちが語っていた蘇生を終えたあとなのだろう。
 体から武器や化け物の脚が生えている様子はない。ただ、はだけた腹を縦に割る大きな傷痕と、頭から飛び出した針金のような何かが目を引いた。先端に小さな球体を備えたそれは飾りなのか、それとも直接生えているものなのか。あの先輩たちの仲間なら、どんな不思議なものを生やしていてもおかしくはない。
「気分はどうかな」
「えっと……意識はすっきりしてる、と思う。体も動きそう」
「それはよかった、なかなか目覚めないから心配したんだ。何か起きたくなくなるようなことでもされた?」
 問われて改めて思い出す。死生匣テラヴァイスに触れて一度殺されたこと、種子蟲グラフタを植え付けられたこと……そして激痛と未知の快楽に悶え苦しんでいた最中にされたことを。
 モーリェは無意識に自らの唇をなぞり、ぴたりと動きを止めた。血液が頭に集まってくる。
 嫌悪感より興奮を強く感じたことを思い出してしまった。自分は異性愛者であると思っていたのに。
 記憶となってなお、あの蕩けるような感覚は色褪せていない。
「驚いた、だけ……」
「そっか」
 青年は柔らかく微笑む。言葉を濁したわけを見透かされたように思えて、モーリェは俯いた。恥ずかしくて仕方がなかった。
「僕はフォグっていうんだ。よろしくね、モーリェ。モーくんでいい?」
「……ああ、うん。なんでもいい」
 自分の名を呼ばれたのだと気付くまでに少しの間を要した。
 与えられたばかりの名には、まだいまいち実感が湧かない。しかし名前を変えることでみじめな自分と決別できるのなら、かつての名など捨ててしまっても構わないと思った。虐げられ片目を潰された少年はもういないのだ。
「あ……そうだ、目……どうなってるんだろう」
「これ?」
 フォグはモーリェの右目を指差し、顔を近づけてまじまじと覗いた。それだけではよく見えなかったのか、近くの光る石を引き寄せてもう一度。眩しさに目を細めるモーリェに対し、フォグは喜びを顔に湛えて目を細めた。
「すごく綺麗だよ」
「そうなんだ、でもそうじゃなくて、自分でまだ見れてなくて」
「ああそうか、植えてすぐに有無を言わさず登録されたクチだね? 確かにそのほうが手っ取り早いしなあ……っと、ちょっと待ってて。鏡持ってくる」
 フォグは床に置かれていた箱を漁り、その中から小さな鏡を取り出した。備え付けの蓋を開けて渡せば、新入りは恐る恐るといった様子で鏡を覗く。そして驚きに目を見開いた。
「……海だ」
 海が詰まっている、としか言いようのない光景がそこにあった。
 新たに作り出された眼球は、瞳が青くきらめく水面となっている。凍っているわけでもないのにその場に留まり、瞳としての位置と機能を維持していた。その奥にあるはずの色は見えず、石の光をきらきらと反射しながら、美しく澄んだ青を湛えている。
 絵画でしか見たことのない、憧れの海の色だった。
種子蟲グラフタで手に入れたものなら、何かしらの力を持ってるはずだよ。目からビーム出たりしないかな」
「びー……む?」
 聞き慣れない言葉に怪訝な顔をするモーリェ。その様子に、フォグは「ごめんごめん」と軽く返した。
「そのうちわかるさ、今は焦らないほうがいい。隣いい?」
「あ、うん」
 フォグが柔らかな敷物へと座り、モーリェと肩を並べる。座る場所を同席者のためにずらしたとき、モーリェは自分が未知の材質でできた敷物で眠っていたことに気がついた。表面はつややかで、妙に弾力がある。辺りの荷物を漁るだけで、見たこともないものが山ほど出てくるのだろうと思えた。
「わからないことは何でも訊いて。優しーい先輩が丁寧に答えるから」
 癖のある髪をいじりながら笑顔を向けるフォグ。穏やかなその表情には、警戒を解くに値する気安さがあった。新入りは少しのあいだ考えこんでから、ひとつひとつ疑問を言葉にしていった。
「ここはどこなの」
「君が僕らと出会った場所とは違うところさ。昨日連れて来られて、探索を始めたばかり」
「探索?」
死生匣テラヴァイスに命じられたからね。このエリアの巨殲獣ヘヴ・ホイル――えーと、討伐対象って言えばわかりやすいかな。そいつを探し出して殺せば、Fフィードがたんまり手に入る」
「ここで使える通貨だっけ……じゃあどこかに街がある?」
「ううん、全然ないね。どこに飛ばされても建物は廃墟ばっかり、人っ子ひとりいない。Fフィード死生匣テラヴァイスの機能を使ったり、そこから物を買ったりするときに使うんだ」
 フォグはさくさくと説明を進めながら、辺りの物資を次々と指差してみせた。
「これもあれもそれも、全部死生匣テラヴァイスから買ったもの。僕らが購買網レプライヤって機能を使って注文すると、文明のある世界から即座に仕入れてくるんだ。くすねているのかもしれないけど」
「そう……なんだ。食べ物や雑貨には困らない?」
「ところがどっこい、僕らの主はとにかく説明がヘタクソでね。食材を買ったらどうしようもなく不味かったなんてざら。商品解説から予想できた効能とまったく違うものだったり、とんだ粗悪品だったり、動力源が別売りな上に取り扱いがなくってただのゴミになったりもする」
「ええー……」
「そうだ、何か食べるかい? ずっと眠っていたんだ、腹も減ったろう」
 モーリェは自らの腹をさする。言われてようやく腹が空いていることに気づき、素直に頷いた。しかし大きなパンや肉に齧りつきたいとは思えない。
「腹は空いてるんだけど、あまり入らないかもしれない……しばらくまともに飯を食べられなかったから、たぶん弱ってる」
「しばらくって、ここに来る前から?」
「うん……」
「それならうってつけのものがあるよ、こいつを飲むといい」
 フォグが箱から取り出したのは、銀色の小さな包みだった。キャップらしき部分をもぎ取り手渡すと、モーリェは恐る恐る匂いを嗅いでから、天井を向いて口の上で包みを逆さにした。が、何も出てこない。
「あー違う違う、ここに口つけて吸うの」
「吸う?」
 言われるままに中身を啜ると、これまた知らない味わいが口に広がった。甘酸っぱくやや薬くさいが、まずくはない。少年は驚きながらもゼリー状の食料をしっかりと味わった。その最中にむせ返り、背をさすられた。
「話でもしながらゆっくり食べよう。今は備蓄にも余裕があるし」
「ありがとう……」
 気遣いが胸に沁みる。優しく触れられる感触が心地よくて、涙が溢れそうだ。少年は左目を手でぬぐい、改めて少しずつゼリーを啜った。
「他の人、どこに行ったのかな」
「今は探索に出てるよ。さっき出発したばかりだから、しばらく帰ってこないかも」
「フォグは留守番?」
「うん、ここで荷物を守ってるんだ。野生の生物が入り込んで来る可能性もあるから。あと、購買網レプライヤの監視も兼ねて。しょっちゅう品揃えが変わるから、誰かが張り付いていないと目当てを買いのがすんだ」
「危険な生き物がうろついているの」
「ここに入ってくるかもしれない獣はそうでもないかな。ただそれとは別の、殲獣ホイルっていうやたら好戦的なやつがいてね。死生匣テラヴァイスが―ここの上の階にあるんだけど、それが選んだ場所はおおよそ安全。でも少し離れると凶悪なやつとばったり出くわしたりするよ。迷宮化しているところは特に危険で、何と言うかとにかく……ヤバい」
「ヤバい」
「怪我人死人が当たり前の環境さ」
 人間離れした姿の、見るからに戦いに長けていそうな者たちが苦戦する相手とはどんなものなのだろう。火を噴く巨大な竜、剣で斬れない亡霊、毒を持った虫の大群……モーリェは様々なおぞましい敵を想像し、身を震わせた。そんなものを相手に戦力として立ち回れるのだろうか。
「でもくたばったら勝手に蘇生されるし、意外となんとか――」
 軽い調子で続く説明を、モーリェのうめき声が遮った。
「っぐ……う、うう……」
 まだ少し中身の残るゼリー飲料を取り落とし、右目を押さえて身を屈めている。にわかに肌が汗ばみ、吐息には熱がこもった。
「……発作だね。新たに種子蟲グラフタを植えたときに起こるんだよ、何日かで治まるから……今は辛抱して」
 フォグは取り乱すことなくモーリェを抱きしめ、幼子にするように優しく背中をさすった。大丈夫、今に落ち着く、と囁きかけながら。
 ほどなくして目の痛み――およびそれに伴う暴力的なまでの性感――は去った。しかし身の内で煮えた熱はそうそう治まるものではない。
 服越しに触れられているだけで、体がそれをよこしまな刺激として受け取ってしまう。モーリェは息を荒げながら弱々しい力でフォグの胸を押しのけた。
「だい、じょうぶ、だから」
 密着していてはいけない。おかしくなってしまう。いけないことをしてしまう。
 救いを、それによって相手を汚してしまうことを、理性が必死に拒絶していた。どうにか衝動を内に抑えこむべく、相手に背を向けて、自らの膝を抱くようにひとり横たわる。
 ……が、フォグはそれを良しとしなかった。
「辛さは僕も知ってるよ。だから、頼って」
 再び身を寄せ、耳元で囁いてくる。朗々と説明をしていたときよりも低い声で、少年の耳を犯すように。
「でも、こんな……きっとぼくは、酷いことを……する……」
「ここじゃあ誰も咎めないよ。みんなしてるし、しないといつまでも辛い」
「でも……!」
 モーリェは左の目尻に涙を浮かべながら、駄々をこねる子供のように首を振る。この交わりを許してしまえば、底なしの沼にはまるような気がしていた。
 そんな気持ちを見透かしてか、同じような経験があるのか。フォグはそっとモーリェの肩を掴むと天井を向かせ、その上に覆い被さった。
「医療行為だと思ってさ。僕に全部任せて。せっかく後輩ができたんだ、頼れる先輩面をさせてよ」
 やけに白い手が後輩の首筋をゆっくりと撫であげる。それだけで少年は大きく体を跳ねさせた。
「僕が受け容れるから。……優しくする」
 囁いた言葉が理性の糸を焼き切った。
 シャツの下に手を差し込まれる感触に、モーリェはただうっとりと熱い吐息を洩らしたのだった。