ジギタリス・ガーランド

ジギタリス・ガーランド

#03

 ジギタリスはいびつな桶に汲んだ水を慎重に運んでいた。錆びを防ぐ塗装を施された鉄製の桶は、汲んだ地下水の冷たさをそのまま持つ手へと伝えてくる。少し温めたほうが良いかもしれない、とは思ったものの、悠長に火を熾している暇もなく、そのまま桶を運ぶに至った。向かう先は彼女の師の家だ。
 昨晩の出来事を思い出す。土の中から人間が出てきたことを伝えると、老婆は真摯に少女の話を聞き入れ、土中の男を休ませるために空いていた離れの小屋を貸してくれた。真っ先に伝えた相手が父だったとしたら、まずは出所を吐かせるなどといった手荒な仕打ちから始まっていたかもしれない。適切な判断だったと少女は安堵の息を洩らした。
 結局父には後ほど事情を説明し、こっぴどく叱られることとなったのだが。しかし精霊に導かれたと言う事実が少女を庇い、父からも村の者からもそれ以上責められることは無かった。
 当然ながら、ことの顛末を聞かされた大人たちは目を丸くして驚いた。既存の道が落盤で塞がった跡ならとにかく、通路でも何でもない場所から人間が掘り出されるなど前代未聞の出来事である。
 混乱を防ぐため、男の身柄は夜のうちにひっそりと運ばれた。急務を終えた男たちの口からは様々な憶測が飛び交う。どこか違う場所で閉じこめられ、出口を求めてこの村の近くまで掘り進んできたのではないか。たちの悪いいたずらなのではないか。この村を狙う魔物が化けているのではないか。
 どこから来た? いつから土の中にいた? 何を食べて生きていた? 疑問は山のように積み重なるばかりだが、彼が一切を語らぬ以上、真相は未だあの暗い土の中だ。
 どの説もまだ信じるには値しないし、嘘であるとも言い切れない。少女がこの扉を開けた途端に、本性を現した化物に飛びかかられ、喉を喰い破られる可能性だってある。
 骨の形の浮きだした背を裂いて、あのほら穴と同じ闇の色をした、耳元まで裂けた口に尖った歯を並べた化物が飛び出してくるのではないか……幼い頃の少女を何度も震え上がらせた怪談が妄想に紛れ込むが、男に手を差し伸べたときのあの表情がふと浮かび、恐ろしい空想の獣をかき消した。
 彼は泣いていたのだ。指先が真っ黒になるまで土を掻いた末、ようやく差し伸べられた救いの手を力無く握って。震える手に落とされた涙は暖かく、肌の下まで染み入り、血の流れを辿って小さな心臓まで届いたように思えた。彼女が男の身の回りの世話を買って出たのもそのためだ。
 不気味ではあるが、間違いなく彼は人間だ。そう自らに言い聞かせて、ジギタリスは扉を軽く叩いた。
 こん、こん、と小気味の良い音が静寂を柔らかく裂いてゆく。
「入るわよ」
 少し間を置いた後、少女はドアを押し開いた。ノックへの反応は返らぬままだが問題は無い。二度の合図は伺いではなく、踏み入ることを伝えるためのものだ。
 そう広くは無い部屋は、丁寧に手入れが為されていて埃臭さを感じさせない。踏み固めた土の上に直接家具を置いた、地下ではありふれた形の一室だ。
 部屋の片隅に置かれた椅子に、渦中の男は静かに腰掛けていた。魔術式の松明の光を避けて縮こまっているとでも言うような具合で。ジギタリスは改めてその異様な風貌を目の当たりにし、息を呑んだ。
 脂でぎらついたどぶねずみ色の髪は、伸ばされ放題のまま背中に届く長さでぶらりと揺れている。同じ色をした髭も同様で、手入れのされていない不格好な姿を晒していた。
 そして視界を確保するために分けられた髪の陰から、垂れた隈だらけの眼が少女を覗いていた。くすんだ色彩に包まれた男の身体と比べ、翡翠色をした両の瞳は明らかに異彩を放っている。薄明かりの元でも褪せることなく輝く一対は、どこか高貴な色をしていて、さながら汚泥に埋もれた宝玉のようだ……と、少女は心のうちで謳ってしまった。
 しかしその下に目を向ければ、僅かに見えた高貴な光もたちまちのうちに沈んでしまう。貸し与えられた衣服の下、サイズが合わず露出した手首は思わず眼を背けたくなるほどに痩せ細っていた。続く手も同様で、骸骨に皮を貼りつけて作った悪趣味な細工のようだ。伸びたぶんを噛み切ったと思しきいびつな爪と、湯で流した程度では落ちなかった頑固な垢がおぞましさを増長している。
「……生きてる、のよね?」
 失礼にも問うてしまったが、男はそれに答えることも、怒り出すことも無かった。どこか不安げにジギタリスの瞳を見つめ、時折気まずそうに眼を逸らすばかり。やはり言葉が通じていないのだろう。彼を丸洗いした男たちに聞かされた通りだ。
 しかしここで手をこまねいている訳にもいかない。ジギタリスは思い切って男に詰め寄り、運んできた桶をゆっくりと地に下ろした。
 近寄れば不快な臭いがつんと鼻を突く。長らく洗われていない犬のような、発酵させた魚のような、確かに生を感じさせる悪臭だ。少女は思わず眉をひそめながらも、桶の底に沈んだ布巾をきつく絞った。
「はい、これ。まだ洗い足りないでしょ」
 事務的に布巾を差し出せば、男は恐る恐るといった様子でそれを受け取った。そして冷たい布を握ったままの右手を自らの胸へと押し当て、席を立って深々と頭を下げて見せた。彼なりの、おそらくは彼の故郷流の畏まった礼なのだろう。
 しかし少女が異郷の文化に思いを馳せることはなかった。天井に頭が付きそうなほどの長身に圧倒され、つり上がった眼をぱちくりとさせるのみ。
「うわ」
 間の抜けた声が口をつく。肩を担がれた後ろ姿ではわからなかったが、目の前の青年は村の男たちよりも頭半分、人によっては頭一つぶんは大きい。一族の中でも特に小柄なジギタリスにとってはまさに見上げるほどの差があった。
 そんな少女の様子をよそに、男は与えられた布で豪快に顔をこすり始めた。そして首、腕……と厚布を滑らせるうちに、生成りの布地は目に見えて汚れてゆく。そして桶の水で布巾を絞り直し、溜まりに溜まった汚れを念入りに落としていった。少女は黙ってその様子を見つめていたが、水が澱む早さに慌てて声を上げた。
「あっ……もっと水持ってくるね。あとご飯も今大婆様が作ってくれてるから!」
 ジギタリスはそう言い残して部屋を取び出した。悠長に観察などしている場合ではないのだ。自分が彼と同じ状況に立たされたとしたら、まずは全力で身体の汚れを洗い落とし、腹いっぱいになるまで芋団子を貪ることだろう。彼を掘り起こした者としては、できる限り人の尊厳を取り戻す手伝いをしてやりたい。同情の念が少女を急がせた。

 水汲み場と大婆様の家を再び往復したところで、しわがれた、それでいて優しい声で呼び止められた。威勢良く返事をして母屋の台所に向かうと、テーブルの上には深皿を乗せたトレイが用意されていた。
「美味しそう……」
 思わず顔がほころぶ。器に盛られた芋粥は活き活きと湯気をあげ、胃をくすぐる魅惑的な芳香を漂わせていた。甘い芋粥はジギタリスが特に好む料理の一つだ。生唾を呑んで少女の喉が動く。
「そんな物欲しそうな顔するんじゃないよ、早く持っていっておやり。もちろんあんたのぶんも作ってあるさ。後で一緒に食べようじゃないか」
「本当!? ありがとう大婆様!!」
 甲高い声を更につり上げなら、ジギタリスは意気揚々とトレイを持ち上げた。腕利きの老婆の作る芋粥は絶品だ。あの青年にも喜んで貰えるだろうと信じ、威勢の良い世話係は部屋を取び出していった。
 老婆はその後ろ姿を静かに見つめていたが、
「あの子もかねぇ……」
 ぽつりと呟いて小さくため息を洩らした。
 視線こそ少女の背を追っていたものの、皺だらけの瞼の下、円らな瞳はここではないどこか遠い場所を見つめていた。

「……食べないの?」
 ジギタリスは背を屈め、うつむいた男の顔を覗いた。翡翠の瞳が気まずそうに動き、机の上の深皿と少女の顔を交互に見やる。
 盛られた芋粥は冷めきっていた。量は渡したときと変わらず、スプーンを使った形跡すら無い。ジギタリスが粥を渡し、自らの食事を終えて戻って来るまでの間、男はこれを全く口にしなかったのだ。
 食べないのか、と再度確認しても、男は石のように沈黙を守るばかり。やつれた身で食事を拒む理由がわからず、顔を向かい合わせても意志の疎通がならない状況が少女を苛立たせた。
「わがまま言わないの! 何か食べないと死んじゃうでしょ!? ほら、口開けて」
 華奢な手が器を掴む。ジギタリスはスプーンで粥を掬い、強引に男の口元へと運んだ。しかし男はそれを嫌がり、首を横に振る。
「あーけーてー! 子供じゃないんだから!!」
 しまいには手で口を覆ってまで食事を拒む姿に、少女の苛立ちは募る一方だった。何を理由にこのような行いをしているのかはわからないが、その結果として餓死などされては後味が悪すぎる。押しつけがましいと言う自覚はあるが、それでも少女は責任感を強く感じていた。差し伸べた手を離してしまうことだけはしたくない。
「……違うの作ってもらうから。次はちゃんと食べてよ」
 はぁ、と大きくため息をついて、ジギタリスはトレイを持ち上げた。
 彼の故郷に粥を食べる文化がなかったのかもしれない。信仰の都合上、芋が食べられないのかもしれない。実は我が一族が毒華族であると知っていて、毒の混入を警戒しているのかもしれない。いくつかの仮説を立てながら、少女はドアノブに手をかけた。その時だった。
「……□□□!」
 低く枯れた声が少女の小さな背中にすがりついた。かけられた言葉は全く聞き覚えのないものだ。
 驚いて振り向けば、そこには立ち上がり手を伸ばす男の姿がある。初めて聞いた声の弱々しさ、そして案の定操る言語が異なっていた事実に戸惑いながらも、少女は早足で男へと詰め寄った。言葉は通じずとも、声を聞かせてくれただけでも大きな進歩だ。そう信じて。
「何? 何て言ったの!?」
「……□□□□□□……□□□□」
「え? ええと……」
 首を傾げるジギタリスに、男はいつの間にやら握っていたものを差し出した。骸骨のような手に乗せられていたものは、一匹の生きた芋虫。もぞもぞと蠢いてはいるものの、男の手のひらから逃れようとはしていない。どこか不思議な光景だった。
 男は不安げに少女の顔色を伺うが、毒華族の娘が表情を曇らせる事は無かった。彼女の生活圏において、この幼虫は食料とされており、貴重な栄養源の一端を担っている。柔らかくくねる様子も見慣れたものだ。
「どこから持ってきたの? これ」
 問いは相変わらずの一方通行である。落ち着き無く眼を瞬かせる少女の前で、男は芋虫をつまみ上げ、自らの口元へと運んだ。そして何かを噛むようにもごもごと口を動かして見せた。
 その様子を見たジギタリスの表情が途端に明るくなる。
「それなら食べられるってこと!?」
 ぱん、と小気味の良い音を伴って小さな手が打ち鳴らされる。抑えきれない喜びを顔いっぱいに湛えて、少女は男の眼を真っ直ぐに覗き上げた。出会ってから半日も経っていない仲ではあるが、初めてそれらしい意志疎通ができたと言う事実は少女の胸を躍らせた。
 それを嬉しいと感じたのは男も同じだったようで、戸惑うばかりだった顔がようやく綻んだ。恐ろしげだった印象が僅かながら揺らぎ、人間らしいものへと変わってゆく。目の前の男が自分と同じように喜ぶ心を持っている、そう実感できただけでも少女にとっては大きな収穫だ。
「わかった、待っててね! 今いっぱい採ってくるから!」
 そう元気に言い残して、ジギタリスは部屋を飛び出していった。
 少女が去った後、男はぼうっと扉を見つめていた。彼女の背中の面影を、一輪の花のような残り香を追うように。
「□□□□……」
 呆けた顔でぽつりと呟いて、あたりは再び静寂に包まれた。
 その言葉の意味は彼しか知らない。

 * * *

 更に時が過ぎ、村人たちが昼餉を終えた頃。
 ジギタリスは再び例の男の顔を覗いていた。部屋に持ち込んだ椅子に浅く腰掛けて、眼で何かを語りかけるように。
「……□□?」
 寝台に腰掛けた男は、先ほどと同じように視線を落ち着き無く彷徨わせている。ジギタリスと目線の高さを合わせようとしているのか、怯える子猫のように背を丸める姿はとても滑稽だ。もしかすると女性と接する状況に照れているのかも知れない、そう思うと先ほどまで彼を恐ろしいと思っていたことが馬鹿らしくなってきた。
「別に取って食べたりしないわよ。……ね、これ美味しかった?」
 少女の指先がざるをつんと小突く。無造作に机に置かれたそれは、少女がいっぱいに生きた幼虫を入れて差し入れたものだった。事情を知る男に頼み込み、畑でかなりの数を掘り出して詰めたのだが、今ではすっかり空になってしまっている。別室で冷めた芋粥を食べている間に、男もまた夢中で食事に勤しんでいたのだろう。
 男ははっと我に返ったように目を見開き、何度も深く礼をしてからざるを少女へと返した。渡したときと同じ、過剰ではないかと思えるほどの感謝の儀式だ。
「そ、そんなに畏まらなくてもいいってば! そうだ、あんた名前は?」
 話題を変えるように問いかけるものの、男は不思議そうに首を捻るばかり。少しの間を置いて、ああ、と呟きながら少女はぽんと手を打った。
「ごめんごめん、私から先に名乗るのが礼儀よね。私はジギタリスって言うの、ジグって呼んでね」
 強気に微笑みかけ、少女は自らを指さして繰り返す。
「ジグよ、ジグ! じ、ぐ!!」
 大げさに口を動かして発音を繰り返すと、男はすぐにその意図を汲んでくれた。ひび割れた唇が開かれ、辿々しく音が繰り返される。
「じ、ぐ?」
「そう、それ! ねね、あんたは何て言うの?」
 自らに向けていた指先を相手に向けて問いかける。見つめあった目のうちに意志が通じ、男は掠れた声で一つの言葉を紡いだ。
「……えるふぃん」
「エルフィンって言うの?」
 確かめるように少女が言葉を繰り返せば、男はこくりと頷いてみせた。どうやら否定と肯定を示す首の振り方は共通のものらしい。
「そっか、じゃあ……エル。エルでいいわね、よろしくねエル!」
 何かしらの愛称で名を呼ぶのは、この辺りの住人にとっての信頼の証である。微笑んで右手を差し出すジギタリスに少したじろいだものの、エルフィンはそれを受け入れ、慌てて布巾で手を拭き直してから握手を交わした。がさがさに荒れた手は冷えていたが、確かに生きている人間の感触をもって少女の手を包み込んだ。
「□□□□、ジグ」
「う、うん、よくわかんないけど覚えてくれたならいいの」
 勢いで手を伸ばしたは良いものの、男性の手を握ったのは久しぶりだったと気づき、気恥ずかしさがこみ上げる。
 どこか落ち着かない様子になったジギタリスとは対照的に、エルフィンは柔らかい笑みを浮かべていた。つい先ほどまでと立場がそっくり入れ替わってしまった。
 二人の間に流れる時間は、とても緩やかで、優しい。
 こんな時間が長らく続けばいい。そう少女は静かに願っていた。