セレストラのかたすみ

迷宮百貨店にて

#03 運命の日

 用事が重なり下校が遅れてしまったが、それでも家に帰る前に少しだけ……などと欲を出したのが悪かったに違いない。目当てのものは既に手に入れていたのだから、もっと良いものがないか念のためもう一度、なんて言い訳をせずにまっすぐに家に帰っていれば良かった。
 黒縁眼鏡と二つ結びの少女――名をミオと言う――は眼前の光景に驚き、硬直してしまっていた。迷宮百貨店には今までもよく足を運んできたが、こんな状況に遭遇するのは初めてのことだ。
「こっちのほうが金になりそうじゃないか?」
「細かいことは気にすんな、とにかく詰めろ! 清算は後回しだ!」
 若い男が二人、床に大きな鞄を置いて、その中に店の商品をひたすら詰め込んでいる。本、アクセサリー、鉱石……と、金になりそうなものからといった様子で。とても鞄に入りきるとは思えない量を押し込んでいたため、鞄はどこか他の空間と繋がった魔法道具であると考えられた。
「しかし本当に杜撰だな。なんでこの辺りの奴らはこの店を狙わないんだ、バカじゃねえのか」
「何か仕掛けがあるのかもしれない……終わったらすぐにずらかろう」
 閉店間際で人の少ない時間を狙っての犯行のようだった。彼らの言う通り、この店は従業員の姿がなく商品をくすねやすいように思える。しかし盗みを働いた者は出入り口の植物によって逆さ吊りにされるだとか、迷宮の番人に捕まって奥深くへと連れ去られるだとか、そんな噂がミオの周りに浸透していた。噂を知らない彼らは、きっとこの街の住人ではないに違いない。
(どうしよう……)
 まず状況を理解する為に少し時間がかかり、どう対処したらいいかをすぐに導き出せずにもう少し時間がかかった。年上の男二人を直接止めに入るのは怖い。しかし誰に言いつければ良いのかもわからない。とりあえず逃げよう、と言う答えを導き出すまでに十数秒。ミオは商品を詰めることに夢中になっている男達に気付かれぬよう、来た道をそっと戻り、曲がり角の陰に隠れようとした。
 しかし静かに後ずさる最中、その気配に気付いた一人と目が合ってしまう。体中にぞわりと悪寒が走り、嫌な汗が滲み出したような気がした。男達は顔を見合わせ、焦った様子を見せながら緊急会議を始め、
「お、おい、あれ」
「あー……」
「やっべえな、どうする」
「とりあえず捕まえておこう」
 とても不吉な結論を導き出した。
「あっ、あの、お邪魔しませんので、それじゃ……」
 ミオは後退しながら男達へ引き攣った笑顔を向けた。この状況はまずい。一刻も早く逃げなければ、何をされるかわかったものではない。
「おい待て! 逃がすな!」
 三人が走り出したのはほぼ同時だった。
 とにかく逃げなくてはならないものの、ミオは特に足が早いほうではないし、相手は年上の男二人だ。早めに見失わせなければすぐに捕まってしまう。どうにかして姿を隠さなければ。時間を稼ぐ方法でもいい。
 緊迫した状態の中でミオが取った策は、学校で教わった護身の魔術を行使するというものだった。
 走りながら唱えた術は辺りに濃い霧を産み、追っ手の視界を阻む。直接相手を攻撃する術を選ばなかったのは、彼女の臆病さがそれを邪魔したからだ。ミオは術を使う直前の記憶を頼りに、すぐ近くの角を曲がって逃走を続ける。
「どっち行った!?」
「こっちか」
 程なくして男達が駆け込んできた小部屋に少女の姿はなかった。二人は経路を誤ったと判断し、来た道へと戻り他の道へと進んでゆく。罪状を訴える相手がいないのだから、見逃したところで少女が何かをできるわけではないが、ハプニングにより興奮した男たちはそのことに気付かなかった。
 ミオは彼らが見逃した小部屋で、商品として置かれていた大きな木箱の一つに入り込み、膝を抱えて縮こまっていた。
 終業のベルが鳴り響いてなお、その中から顔を出すことができなかった。

 辺りがすっかり静まり返っても、襲撃の恐怖は箱の底でわだかまったまま消えてくれなかった。押し殺した自らの呼吸だけが頭の中でやけに響く。箱の中にまでついてきた羽虫を鞄に詰めてしまったため、視覚はほぼ機能しない。
 終業のベルが鳴ってから、気が遠くなりそうなほどの時間をここで過ごしたような気がする。人の気配は消えているように思えたものの、気配を殺して潜んでいる者がいそうでとにかく恐ろしかった。
(そうだ、時間)
 ふと思い出して、なるべく音を立てぬように鞄のポケットをまさぐった。触感だけを頼りに愛用の懐中時計を探り当てると、ゆっくりと慎重に蓋を開く。針に発光する素材が使われていたため、暗い中でもおおよその時刻を把握することができた。永遠であるかのように思われた時間は、半時にも満たないものだった。
(流石にもう居ないよね)
 もう大丈夫。あんなに騒がしかった人たちが息を潜めて待ち続けられるはずがない。自らに言い聞かせ、ミオは木箱の蓋に手をかけた。泥棒も恐ろしいが、これ以上箱に収まっていては暗闇と孤独に押しつぶされてしまう。
 慎重に蓋を持ち上げ、少しだけ開いた隙間から外を覗く。終業時間を過ぎた店は、普段彼女が見ている迷宮よりも明るかった。客を照らす仕事から解放された羽虫たちが、人気のない通路を悠々と飛び回っている。幻想的な光景に思わず目を奪われた。
 丸めたまま抱いていた鞄を開いてやると、ずっと窮屈な思いをしていたであろう羽虫が飛び出し、宙を舞う仲間達の流れに入っていった。光の球の中には群れを作って移動しているものもいる。仲間、家族、と言った言葉が脳裏をよぎった。彼らと比べ、今の少女はどうしようもなく孤独だった。
「帰らなきゃ……」
 唯一の家族である母には帰宅が遅れると伝えていたが、これ以上待たせてしまっては余計な心配をさせてしまう。急がなくてはならない。ミオは強く箱の蓋を押し上げた。
「あっ」
 がたん、と木材がぶつかり合う音が静寂を破る。蓋が蝶番を軸に逆側へと回ってしまったのだ。しかしそれに反応する者はいない。ならず者がまだ潜んでいるかもしれないと言う懸念は今払拭された。
 少女は胸を撫で下ろした。あとは外に出るだけだ。ミオは鞄を掴んで箱の外に出ると、軽快な靴音を響かせながら歩き出した。
「遅くなっちゃってごめんなさい、帰りまーす」
 建物自体に話しかけるように、辺りを見回しながら告げた。これで次の瞬間には景色が移り変わり、蔦だらけの出入り口へと辿り着ける。そのはずだった。
「あっ、あの、帰ります、お願いしまーす」
 空間移動の術が展開されない。少女の声と靴音だけが虚しく響き、それだけだった。
「ええっと……こんな時間まで居座っちゃって本当にごめんなさい、もう帰るんで、その、出口まで案内してくれませんか……」
 繰り返し乞うが、その願いが聞き入れられる様子はない。低姿勢での懇願だけに留まらず、誰もいない空間に向かって頭を下げ、更には床に膝を着いての謝罪にまで至った。しかし迷宮は変わらぬ沈黙を保ったままである。
「どうしよう……」
 血の気がさあっと引いてゆくのがわかる。寒気が身体の芯を駆け抜け、肩が震えた。
(と言うか私、どうして逃げるときにこれを言わなかったの? 混乱しすぎじゃないの!?)
 気付いた時には遅すぎた。壁に頭を叩き付けて自戒したい衝動に駆られたが、残念なことにここには手ごろな壁が無い。
 出口まで送ってもらえないのなら自力で辿り着くしかないが、その帰り道は全く覚えていなかった。覚える気が無かったのだから当然であるとも言える。現在地は三階のどこか、つまり三階層にわたる無人の迷宮をたった一人で彷徨わなければならない。加えて必死に駆け回って出口に辿り着いたとしても、あの重厚な扉が開かなかったとしたら。
 明日の朝まで待てば確実に外に出ることができるのは解っている。しかしこの迷宮は少女が心穏やかに夜を過ごすにはあまりに不向きだった。
 先ほどは美しいと思えた羽虫の群れも、現状を認識した後ではひどく不気味なものに見えて仕方がない。大勢で自分の身体に纏わりついて、無力なその存在を迷宮の奥へしまい込もうとするのではないか……そんな嫌な想像までしてしまう。ミオは恐ろしい妄想を振り払うべく自らの頬を叩いた。
(とにかく、歩かないと)
 鞄を持つ手に力を込め再び歩き出した。不安に押し潰されそうな心を抱えて、おぼろげな記憶を掘り返しながら、一歩ずつ前へ。
 新たな異変が訪れたのはその時だった。
 ぎぃぃ、と硬いものを擦るような音が聞こえた。それはフロアの様々な場所から響き、たちまちのうちに少女を取り囲んでしまった。
「なっ、何、何なの?」
 嫌な汗が肌に滲む。立ち止まって辺りを見回すと、異音の元をすぐ確認することができた。進行方向の右手に佇んでいた棚の一つが、床の上を滑るようにすっと動き出し、向きを九十度変えて立ち塞がったのだった。
 通路を封鎖されてしまい、ミオはますます焦り出した。毎日造りが変わる迷宮の秘密が、好奇心を刺激するものではなく、少女を追い詰めるものとして立ち塞がる。ぼうっとしていては棚に挟まれて悲惨な最期を迎えることになるかもしれない。
 ミオは踵を返して走り出した。他のルートを探すしかない。そう決意した少女の目の前で、今度は別の棚が動き出し、その後ろの空間へと引っ込んでゆく。新しい道が出来上がったようだ。吸い込まれるようにその道に駆け込み、角を曲がった。
 切羽詰った面持ちの少女を迎えたのは、人に近いシルエットを持ちながらも明らかに異質な何かだった。
 ゼリーのように透き通った体を持ち、腕と足が異様に長く、頭の無い大きな人型。着衣は無く、手首のくびれから胸のふくらみまで、あらゆる凹凸が存在しないのっぺりとした姿をしている。硝子のオブジェがそのまま歩いているかのようだが、動きは柔らかく滑らかだ。
「ひっ……」
 足が竦み、呼吸を忘れる。
 それは緩慢な動きで自らの膝らしき部分に手をあて、目の前のものを見定めているような動きで、人間ならば首があるべき場所をぐいっと近づけてきた。
 ミオは身を強張らせたままじりじりと後退する。透明な怪人もその動きに沿い、静かに前進した。
「あっ」
 少女の背が棚に触れる。驚いた拍子に肘で商品を突いてしまい、揺れたもののうち一つが転がって棚から落ちてしまった。不運なことにそれは花瓶か何かであったようで、床に叩きつけられた衝撃でばらばらに砕け散ってしまう。尖った音が耳を刺した。
「ご、ごめんなさい!」
 慌てて声を張り上げるも、目の前の異形がそれに反応する様子は無い。ただ黙ってにじり寄り、肌が触れる寸前まで身を近づけ――突然身体を発光させ始めた。
 ブゥゥゥン、と甲虫の羽音のような音を発しながら、鮮やかな三色の光が点滅を繰り返す。浮世離れした美しさと不気味さにあてられ、ミオは全身に寒気を感じた。嫌な予感がする。夜の迷宮に迷い込んでから一番の不吉な予感が。
 その懸念はすぐに現実のものとなった。
 透明な人型が、今までだらんと垂れ下がらせていた両手を伸ばしてきたのだった。触れるだけではない、明らかに少女を捕まえようとする意思を持った動きで。ミオは咄嗟に屈み、足元から横に抜けることで拘束を免れた。声にならない音が喉から洩れた。
(どうしよう……!)
 鞄の持ち手をきつく握り、一目散に走り出した。触れられてはならないと本能が告げている。今はただ逃げるしかない。出口へ、それが叶わないならとにかく遠くへ。
 少し走ると丁字路に突き当たった。今度は棚の商品を落とさないようにと急停止し、左右の道を見渡す。右の道からは天井すれすれの体躯を持った何かが、左の道からは少女と同じ程度の体躯の何かが歩み寄って来ていた。先ほどの透明な人型と同じような姿をしている。彼が放った光は仲間を呼ぶ信号だったのかもしれない。
 退路を断たれ、ますます顔から血の気が引いていくのがわかる。自らの鼓動の音がやけにうるさく聞こえた。
 しかし追っ手たちが分岐点に辿り着く前に、少女の目の前の棚が動き出し、丁字路が十字路へと変わった。大きく口を開けた新しい道は、活路であるかもしれないし、仕掛けられた罠かもしれない。今のミオにはその道を疑う余裕は無かった。幸いなことに相手の移動速度が遅いのだから、上手く道を選んで逃げ続ければ捕まらずにいられる可能性もある。
 途方も無い逃走劇になりそうではあるが、それでもいつか出口へと辿り着く。そう信じるしか無かった。信じなければ恐怖と孤独で心が折れてしまいそうだ。
「はぁっ、はぁっ……」
 追いつかれない程度に少し速度を落として小走りで駆けた。体力を温存するためでもあるが、やんわりと湧き上がってきた尿意と戦うためでもある。生理現象はこういった時にどこまでも残酷だ。
 逃げ惑いながらいくつかの発見をした。遭遇した異形の中には商品を抱えて歩いている物も多く、仕事をしている最中らしき者はミオを捕らえようとはして来ない。とは言え恐怖の対象である事には変わりがないため、全ての人型との接触を避けながら迷宮内を彷徨い続けた。
 その後しばらく迷い続けたが、上り階段が見える様子は一向に無かった。脚が疲労を訴え、動きが鈍り始めている。普段からもう少し運動をしておけばよかったと悔やんだが後の祭りだ。
 それでも自らを叱咤し進み続ける。しかし駆けていた長い通路が棚の移動によって塞がってしまい、幾度目とも知れぬ行き止まりに突き当たった時、恐れていた事が起こった。
 例の人型のもの――それもとりわけ大きなものが、来た道を塞ぐように歩み寄っていたのだった。
「嘘……そんな……」
 目を離せないまま、押しやられるように少しずつ後退することしかできなかった。更に疲労が災いし、足を縺れさせて尻餅をついてしまう。新たな道が開くことを期待して周囲を観察したが、棚が動く様子が無いまま、追っ手との距離だけが縮まってゆく。
 彼らに捕らわれたとしたらいったいどこへ連れて行かれるのだろう。暗い想像が次々と脳裏を駆けた。倉庫に収納され朽ち果ててもなお出ることができない自分。凶悪な魔獣の餌にされる自分。厄介な呪いをかけられ石像として売りに出される自分。最悪の未来ばかりが次々と浮かび、それに応えるように通路の奥から第二・第三の追っ手が現れた。
 追っ手が間近に迫る。ミオは鞄を抱き締め、震える声で叫んだ。
「誰か、助けてっ! お願い! 誰かぁっ!」
 悲痛な叫びが迷宮の乾いた空気を裂く。受け容れがたい現実から逃れるため、固く目を瞑った。研ぎ澄まされた聴覚を揺さぶるのは、鈍重な亜人間の足音、そして異なるリズムで軽快に床を蹴るもう一つの足音。
 背後には何も居なかったはず。そう気付いて見開いた目に、にわかに信じがたい光景が映った。
 何かが尻餅をついた少女の頭上をよぎった。鈍い音がして透明な人型がよろめき、仰向けに倒れる。衝撃で床と棚が少し揺れ、陳列されていた小さな木箱がいくつか落ちた。
「えっ……?」
 ひとまず助かったようではあったが、状況が上手く把握できない。上半身を捻って背後を見やると、そこには見知らぬ男が立っていた。迷宮の番人を蹴り飛ばしたのは彼に他ならないだろう。
 黒髪と暗色の服が迷宮の薄暗さに溶け込んでいるが、纏っている気迫のせいかその存在感が霞むことはない。二人の間を羽虫が通り抜けると、精悍な顔立ちが照らし出され、光を受けた金色の瞳がぎらりと輝いた。
 男は長身を屈め、少女へと手を差し伸べる。
「立てるか?」
「は、はいっ」
 落ち着いた声と真摯な眼差しが胸に突き刺さるようだった。青褪めていた少女の顔が、急速に血の気を取り戻し、熱を帯び始める。思わぬ救援によって危機を脱する兆しが見えたはずなのに、速まった鼓動が静まることはなかった。
 ミオは差し出された手を取り、よろよろと立ち上がった。夢の中でまた夢を見ているようだと思った。藁にも縋る思いであげた叫びは、温かく頼もしい手の感触をもたらしてくれたのだ。
「あの、あなたは……」
 まだ震えたままの声で問うと、男は握った手を解いて、質問を制止するように自らの手のひらを見せた。少女は息を呑み、来た道を振り返る。蹴り飛ばされた大きな人型は倒れたまま動かないが、その奥から数体の追っ手が迫っている。余計な事を話している暇は無さそうだ。
 男はもう片方の手を何も無い空間に向かって翳し、小声で何かを呟いた。その動きに目にしたミオが身を震わせる。第六感が目に見えぬ大きな力を感じ取っていた。
 術は瞬く間に完成した。男がカーテンを引くかのような動作をすると、その先の景色が部分的に歪み、空間の亀裂のようなものが現れる。そして大きくは無い亀裂に迷わず頭を突っ込んだ。
「畜生、またか! ジャミング強すぎんだろ!」
 悪態をつきながら顔を引っ込めると、空間の裂け目が音も無く閉じ、消えた。ミオにはただそれを見ている事しかできなかった。
 人や物を遠く離れた空間へと転移させる術の存在は知っているし、行使しているところを見たこともある。その手の術に長けた教師が、急ぎの移動や大型の備品の移送に使っている場面に遭遇したことがあった。しかし術を行使するに当たってもっと複雑な手順を踏んでいた記憶がある。空間の理を操作することにおいて、目の前の男はかなりの腕利きであるあの教師を超える技量を備えているらしい。
「仕方ねえな……ここ何階だ?」
「えっと、三階、ですけど」
「そうか。なら」
 先ほどの不機嫌な様子から一転、男の眼は新たな方策を得て力強く輝いていた。
 彼はミオの背と太股へと手を伸ばし、有無を言わさずその細身を抱え上げた。少女は「ひっ」と驚嘆の声を上げつつも、相手が自分を救い出そうとしてくれているのだと信じ、その身体にしがみついた。緊張で呼吸が止まってしまいそうだと思いながら。
「走るぞ! しっかり掴まってろよ!」
「え、あっ、ええっ!?」
 どこへ、と問おうとしたが上手く言葉にならなかった。
 男は少女の身体をしっかりと抱えながら、追っ手が道を塞いでいるほうへと走り出した。腕に引っ掛けた鞄が揺れて少女の脇腹を叩く。倒れている番人を軽々と飛び越えると、その次には背丈の小さな追っ手が待ち構えていた。
 勇ましい救世主は左手だけでミオの体重を支え、右手を前方へと伸ばし、手首に付けていた腕輪からワイヤーのようなものを射出した。羽虫の光を受けて煌いたため、ミオでも視認することができた。先端に何か仕掛けが施されているのか、半透明の糸の先は天井に固定される。彼は手首を捻ってワイヤーらしきものを掴み、そのまま勢い良く跳ねた。
「ひゃっ!」
 ミオが呻く。ワイヤーはいつの間にか巻き取られ短くなっており、浮いた二人の身体は追っ手と天井との間を潜り抜けた。透明な人型も手を伸ばして二人を捕らえようと試みるが、時既に遅く、振り上げた手は虚しく宙を切った。
 軽やかに着地をした後には、また次の番人が待ち構えている。こちらは天井すれすれの長躯であり、頭上を飛び越えることは不可能だった。
 しかし男は速度を落とさず走り続ける。そして両手で強く少女を抱き締め、身体を小さく丸めさせると、自らも身を屈めて追っ手の脚の間へと滑り込んだ。纏った服と床が擦れる音が豪快で痛々しく、ミオは思わず目を瞑ってしまう。しかし滑り込んだ当人はと言うと、そんな事は物ともしない様子で、すぐに床を蹴って立ち上がった。
「あと一……って、増えてやがる」
 三体もの透明な人型が通路を塞ぎながら迫っていた。仲間達の失敗から学んだのか、蹴倒されぬよう先頭の一体が前のめりになり、後続の二体が隙間をくぐられぬようカバーしながらにじり寄ってくる。男はその様子を見ながら「あ」とだけ呟き、得意げな笑みを浮かべた。
「ど、どうするんですかあれっ!」
「退いて貰うさ」
 男は突然立ち止まり、ミオをそっと降ろした。間近に迫り来る番人たちを凝視しながら考え事をしているようだった。
 慌てるミオの隣で、彼は落ち着き払った様子で両手を伸ばし、存在しない何かを掴むような動きをした。握った手を引いて初めてその意図が視覚化される。通路の先の景色が真っ二つに割れ、両開きの扉となって大きく口を開けた。道を塞ぐように現れた扉の向こうには、迷宮内のどこか違う場所が見える。
 追跡者たちは男の策に嵌まり、勢いのままに扉をくぐりどこかへと消えた。開いた戸を元に戻してやると、邪魔者のいない通路だけが残った。
「すごい……」
 驚きのあまり単調な言葉ばかり口をついて出る。男は半ば呆けた状態のミオを再び抱き上げて走り出した。
「あっ、あの、大丈夫ですもう走れます!」
「無理すんなって、俺が走ったほうが速いぞ」
「それはそうですけど……」
 ミオは相手の顔を見ていられなくなり、視線を逸らした。助けて貰っておきながらわがままを言ってしまったかもしれないと己を恥じる。
 触れられることが不快なわけではない。しかし密着していると危機とはまた別の要因で混乱してしまう。突如現れた救世主の姿は、少女が知るどんな男性よりも輝いていた。
「えっと、さっき消えた人たちは」
「迷宮内の他の場所に送ってやった」
「もっと奥のところに?」
「さあ、どこかは知らん。転移魔法を狂わせる仕掛けが迷宮全体に仕込まれてて出たい場所に出れねえんだよ」
「じゃあ私を拾ってくれたのも……」
「まあ偶然だな」
 さらりと言い切られ、様々な気持ちが胸に渦巻いた。本当に運が良かった。もしこの偶然が無かったらいったいどうなっていたことか。そう、ただの偶然なんだ。いやこんな偶然が起こると言うことはかえって運命めいたものなのでは? そもそも彼は何者? 実は悪い人だと言う可能性も?
 ミオが熱暴走しそうな頭で考えを巡らせている間にも、男は棚の間を縫って走ってゆく。行く手を阻まれればルートを変え、時に先ほどと同じように番人の上を飛び越えて。
 かなりの速度を出している筈なのに、息を切らせることも、ミオの身体を棚と接触させることも無い。空間操作の術を易々と行使していた事実も相まって、人間離れした何かであるように思えた。
「ところでその、どうやって外に出るんです?」
「普通に階段使ってだな。棚の位置は毎日変わっても階段は変わってないっぽいから、三階ではとにかく南東に向かえば良いはずだ」
「えっ……南東って、どっち」
「俺ならわかる、心配すんな」
「あ、ありがとうございま……そうだお名前、何て呼べば良いですか? 私はミ、ミモッ」
 問えば問うほど緊張が増し、言葉に躓いた。男はその様子をちらりとだけ見て微かに笑う。
「俺はロセロだ。とりあえず落ち着け、な?」
「はい……」
「ほら、階段上るぞ」
 少女は顔を赤らめて俯いた。ここが絵本の世界なら顔から湯気が出ていたかもしれない。呆れられた様子がない事が不幸中の幸いだった。
 彼女が正しく己の名を名乗れたのは、短い階段を上りきってからのことだった。

 番人同士で上手く連絡が取れていないのか、それとも捕獲を諦めたのか、追っ手は先へ先へと進むごとに減っていった。追われていた時はあんなにも恐ろしかった迷宮の住人達も、商品の移動に専念している姿を見るとどこか愛嬌を感じる。ゆったりとした動作は商品を慎重に扱うため、と考えるとこの姿が彼らの本来の姿なのだろうと思えてくる。
 ロセロは二階を駆け抜け、難無く一階へと辿り着いた。三階で味わった苦労が嘘のようだ。逃走劇は終局に向かっていた。
「さて、通してくれっかな……」
 立ち止まり、遠巻きに見えるものを睨む。二人は既に出口が視認できる場所に着いていた。残る問題は、会計の仕事をしていた植物達、及び出口である大扉が開くかと言う事だ。閉じている扉を内側から見たことは無いため、どのように施錠されているのかは二人とも知らない。
 蔦は昼間の忙しそうな様子から一転、天井付近へと引っ込んで丸くなっている。仕事疲れで眠っているかのようだ。
「どうするんですか?」
「突っ切る。扉がどうやっても開かないようだったら、一旦退いて作戦会議だな」
 ミオは頷き、ロセロの身体にしっかりとしがみ付いた。早く外に出たいと言う思いが一時的に羞恥を上回っていた。彼女には一刻も早くここを出なければならない理由があった。
「行くぞ!」
 ロセロは勇ましい掛け声と共に駆け出した。襲い来る蔦を避けながら……と言う必要も無く、眠りこける植物たちの下を素通りして、阻まれることなくテーブルの間を縫い大扉に向かう。
 出口まであと一歩と言う所で、ぎいい、と重いものを動かしているような鈍い音が聞こえた。
「あっ、あれ!」
「開いた……?」
 目の前で扉がひとりでに外へと開き、二人がぎりぎり通れそうな程度の隙間ができた。ロセロは迷わずその空間に飛び込む。建物から出る、ただそれだけの動作であるはずなのに、何かもっと大きなものを跳び越えたような気がした。
 とん、と小気味の良い音をたてて石畳に着地する。少女にとって見慣れた、けれどもいつもと少し雰囲気の違う商店街が眼前に広がっている。全ての店が閉店の札を掲げ、人通りも無いため、とても寂しげに見える。煌々と辺りを照らし続ける街灯の光だけがやけに優しかった。
「出れた……」
「おう、出たぞ」
 二人の背後でひとりでに扉が閉まり、沈黙した。
「脱出したっつーか、締め出されたって感じだな」
 ロセロは苦笑しながらミオをそっと降ろした。少女はふらつきながら石畳に立ち、恩人相手に繰り返し頭を下げた。窮地は脱したと言うのにその表情には未だ焦りが浮かんでいる。
「あの、本当にありがとうございました! ロセロさんが居なかったら私、どうなっていたことか」
「気にすんなって、俺の事はいいから家に帰りな」
「はいっ!」
 男は朗らかに手を振って少女を送り出した。が、彼女の足取りはぎこちなく、内股で地面を擦りながらの歩みだった。
 いかがわしい事を強いた訳でもないのにどうしてこうなっているんだ。ロセロは目を細めて考えを巡らせた。小さな背中を見つめていると、先ほどの余裕の無い表情、そして彼女が迷宮を彷徨っていたと言う事実がようやく噛み合い、彼女が今密かに直面している危機が見えてきた。
 道を直進した先に酒場の灯りが見えるが、遠い。
「なあ、ちょっと」
「はい!」
 ミオが不自然に元気の良い声をあげて振り向くと、ロセロが自ら作り出したであろう空間の歪みを従えて立っていた。そこに見えるはずの空間が四角く切り取られ、代わりに白いドアがすらりと立っている。少女にとってはあまり馴染みのない、一切の無駄を排除したようなフォルムのものだ。
 ロセロは指先で白い扉を指し、若干気まずそうに訊ねた。
「俺んちのトイレ……使うか?」
 少女は目を見開く。目の前の男はたった今再び救世主となった。
「お借りします!」
 鬼気迫る勢いで個室に駆け込む。足を踏み入れると自動で照明が点き、少女を快く迎え入れた。

 残された男は再び迷宮百貨店へと歩み寄り、静かに在り続けるその大きさを見つめた。先ほど潜り抜けた扉を押してみるが、固く閉ざされぴくりとも動かない。
「明日入れて貰えんのかな……」
 肩からかけた鞄に手を添え、大きな溜息をついた。詰めた本と資料は今日も出番が無く、鞄の中で眠ったままだ。少女を拾わずに見捨てていけば結果はまた違ったかもしれないが、後味が悪い思いをするのは御免だった。
 しかし今回の経験によって確信したことがある。迷宮百貨店自体が確かな意思を持っていると言うこと、そしてそれが慈愛に満ちたものではないが冷徹でもないと言うことだ。歪められた転移の術があの袋小路へと繋がったこと。警備員としては頼りの無い住人達。逃げる者を快く迎えた大扉。ミオと言う少女を連れ出させるために利用されていたのだと考えるより他はなかった。手玉に取られているのだ。
 まだまだ先は長そうだ。今日はもう酒でも呷って寝るしかない。そう結論付け、晩酌について考え出した時、背後から少女の悲鳴が聞こえた。
「ひっ、ちょ、何これぇぇっ!」
「どうした!?」
 慌てて駆け寄り、四角い枠をくぐる。ミオの声はまた酷く慌てていた。
「水がっ、ボタンを押したら水が洩れてと言うか飛び出て! 水が!」
「落ち着け、そいつは水流でケツを洗う機能であって壊れてるわけじゃない! 端の赤い所を押せば止まる!」
「はぃぃぃっ!」
 このような機器に縁がないのなら暴発は仕方ないとは思うものの、どうして持ち主に訊く前にボタンを押してしまったのだろう。ロセロは僅かに笑いながら「仕方ねえな」と小さく呟いた。