迷宮は静寂を保ち、男の声の余韻だけが残る。光る羽虫は質問に答えない。話しかけたほうも当然返事は期待していなかった。孤独に耐えきれず照明に語りかける奴は他にも居るに違いない、自分だけではない……と自らに言い聞かせながら男はひた歩いた。
背の高い、若い男だ。よく鍛えられた身体を長袖のジャケットにタイトに押し込めている。精悍な目つき、そして堂々とした歩みと相まって、威圧的な雰囲気を醸し出していた。肩にかけた大きめの鞄だけが若干野暮ったい。
「なーんで何も見つかんねえかなあ」
溜息がやけに大きく聞こえる。商品陳列棚で作られた迷路は曲がり角と分岐が非常に多く、悪意を感じるほど複雑な作りになっている。上層は子供向けの入門編でしたと言われれば今なら信じてしまいそうだ。男は空間を把握する能力に長けている自負があったが、それでも数回道を見失いかけている。この地下二十階は彼の自信を噛み砕くための仕掛けに満ちていた。
棚そっくりの絵柄が描かれた布を張って行き止まりに見せかけている通路。十字路に存在し、乗ると高速回転して元来た方向をわからなくさせる床板。立ち入ると羽虫の明かりが消えてしまう一角。その他、方向感覚を狂わせる仕掛けの数々。五階から十九階にかけてまばらに存在していた罠たちがこの階に集められている。それらはここが最奥であると言う噂に信憑性を持たせていた。
加えてこの階層だけ棚の幅がそれぞれ僅かに異なり、手書きの地図に致命的な歪みを生じさせると言う仕掛けまで仕込まれている。早期に気づくことができたため、今もどうにか現在地を把握できているものの、手にした自作の地図は度重なる修正を経てすっかりくたびれていた。これが明日にはもう使えなくなってしまうと思うと惜しい程に気合いを入れている。
地図が示すところによると、先ほどから歪んだ円を描くように進んで来た結果、その中心に大きな空白ができていた。中心に何かあるのではないかと期待させる造りだ。逸る気持ちを抑え、罠にかからぬように慎重に曲がり角の向こうを覗いたところで、本日三度目になる驚きの声をあげてしまった。
「うおっ!?」
クランク状になった角の向こうに見えたのは、幽鬼の如きおぞましい顔をした、干からびたような姿をした何かの群れだった。しかし一度顔を引っ込め、もう一度ゆっくり様子を伺うと、それらが棚に並べられたただの干物であることがわかる。他の世界からの輸入物であるらしく透明なフィルムで覆われており、手に取って裏面を見ると『キュウケツウオ・ヒモノ』と書かれていた。知らない魚だが貴重な品であろうことは予想がついた。
この迷宮は深層に向かうほど珍しい品が増えてゆくが、最下層は雰囲気を出すためかとりわけ禍々しいものが集められている。人間の顔の皮らしきもので装丁された本が、表紙を見せる形で本棚一列分並ぶ光景を見た際には血の気が引いたものだ。
「クソッ驚かせんなよ!」
周囲に誰もいないのを良いことに大声で吐き捨てた。近くの店で買っておいた懐中時計を確認すると、時刻は既に閉店間際となっている。男は焦りに背を押されながら先へと進んだ。
「何だ、あれ」
程無くして迷宮に確かな変化があらわれた。目の前の曲がり角の先から光が洩れている。それが暖かみのある色をしており、羽虫が放つものとは異なっていると気づいた瞬間、疲れた心が奮い立つのを感じた。これで目的が果たせるかもしれない。男は顔を綻ばせながら、早足で角を曲がった。
しかし曲がり角の先に存在していたのは、彼の想像とは大きく異なるものだった。
「……え?」
迷宮の最下層にはその主がいるもの、つまりこの店の主もしくはそれに準ずるものと会える……そう思いこんでいたが、彼を出迎えたのは小さなカフェらしき場所だった。
小さなテーブルが二つに椅子が四脚、そしてカウンターらしき長机と、その向こうの椅子に座って本を読んでいる店員。天井から吊り下げられたランタンが辺りを優しく照らしていた。
男が呆然と立ち尽くしていると、来訪者に気づいた店員が「いらっしゃいませ」と笑顔で告げた。本を閉じる指は白く華奢だが男であるようだ。長い髪を三つ編みにし、紺色のエプロンを着けている。
「えっと……あの」
「こちらのお席へどうぞ」
店員は流れるような所作で着席を勧めた。来客は戸惑いながらもそれに従い、腰を下ろす。深呼吸で心を落ち着けてから辺りを見回すと、このカフェの内周も商品棚でできていることがわかった。缶が多く、茶や保存食が殆どを占めているようだ。そして少しの間ぼうっと店内を眺めていたが、自らの仕事を思い出し我に返る。
「すいません、ちょっと聞きたいことが」
「ご注文は如何なさいますか?」
「あ、はい」
店員がにこやかにメニュー表を差し出してくる。男はその笑顔に圧され押し黙った。何か飲み物を頼まないと話にならないように思えて。
「これを」
「かしこまりました」
定番、と書き添えられた一番上のメニューを指し示すと、細身の店員は身を翻して茶の用意に取りかかった。
小声で何かの呪文を唱え、宙に水の球を作り出す。それを薬缶らしき入れ物に注ぎ、片手の中に産み出した炎で直に温め始めた。湯はすぐに沸く。次は長机の上に備えられていたポットとカップに湯を張り温める。温まったポットに茶葉らしきものを入れ、蒸らし、茶殻を漉しながらカップに注いで支度が終わった。鮮やかな手つきだ。
「お待たせしました、当店自慢のロックビーンズティーでございます」
「あ、ども」
茶葉の香りに混ざった豆の香ばしさが鼻腔をくすぐる。共に渡された小粒の氷砂糖を入れずに口を付けると、まろやかな味わいがじんわりと広がり体を温めてくれた。緊張がすっと解れてゆくのを感じる。
「はー……」
喉と胃に確かな温かみを感じながら息を吐く。気分が落ち着いて初めて、先ほどから相手のペースに乗せられっぱなしだと言うことに気がついた。自分が欲しい情報を何一つ引き出せていない。
「あの、店員さん。ちょっと聞きたいことがあるんすけど」
「何でしょう?」
机の向こうに行こうとしていた店員が、トレイだけを置いて戻ってきた。その堂々とした振る舞いと店の怪しさにギャップを感じつつ、男は先ほどから問おうとしていたことを口にした。
「この店……あっこのカフェのことじゃ無いっす、迷宮百貨店そのもののほうの店員がどこにいるか知りません?」
男の目的は買い物でも迷宮の制覇でもなく、この店の主もしくは仕入れに関わる従業員との接触だった。深層にまで来てしまったのは、どこを探しても人が見つからず、仕方なく下層にまで足を延ばしたためだ。羽虫や会計の植物相手では話が通じない。
店員は少し首を傾げて考え込み、申し訳なさそうに答えた。
「見たことが無いですね……」
「え、じゃあどうやってここに店開いたんすか、っつーかどうやって通勤してるんすか」
「通勤……ああ、働いてはいますが私も商品なんですよ。ほら」
驚くべき事実をさらりと告げながら、彼は襟のボタンを二つ外し、シャツを引っ張って首元を見せた。そこには他の商品と同じように価格が印字されている。男はこの地域の物価については疎かったが、先日酒場で食べた飯に換算すると約四千三百食分だと言う計算はできた。人間の値段として安いのか高いのかはわからない。
客である男はカップを持ち上げていた手を一瞬止めたものの、すぐに「なるほど」とだけ呟いて茶を口にした。
「意外と驚かないんですね」
「言われたら何となくわかったんすよ、人形の類でしょう」
「あら。正解です」
「まあ俺も自社の備品みたいなもんだし親近感が……ってそうじゃなくて」
自嘲気味な呟きを自ら打ち切り、向かいの席に置いていた鞄を手に取る。取り出したのは二冊の本と、紐で綴じられた紙の束だった。
「ここの仕入れに関わってる人とお話したいんすよ。置いて欲しい品があって」
「あら、営業のかたなんですか」
「そんな感じっす」
頷いたものの、実のところこの業務はあまり得意ではない。男は本来の営業担当の者の代打としてここを訪れていた。関係者が見つからない、自分の力ではどうにもならない……と担当者が上に泣き付いた結果、その役が彼へと回ってきたのだった。セールストークには自信が無いものの、人探しやその他冒険じみたことは得意としていた。
「こんな所にまで営業に来る人なんてはじめて見ましたよ。そういえばお客さん自体本当に久しぶりです」
「この立地じゃなあ」
「しかし本当にこの店で良いんでしょうか? ここ、見ての通り動かない在庫のほうが圧倒的に多いですよ」
「分かってるさ、でもここに置いて貰えって上が譲らないんだ。他にも本屋はあるっつーのに」
茶で温まった溜息を一つ。理不尽な命令への不満は、言葉にされることで確かな力を持って自身に巻き付いてくる。
店員はその疲れた様子を感じ取り、客に小さな籠を差し出した。木の皮を編んで作られたもので、中には一つずつ紙で包まれた菓子が入っている。
「疲れた時には甘いものですよ。サービスさせて頂きます」
「あっ、ありがとうございます。すいません、愚痴みたいになっちまって」
客は申し訳なさそうな顔をしながらも、厚意に甘えて菓子を一つ口に含んだ。作り物じみた果物の香りがする、噛むと粘ついて歯に絡みつく菓子だ。味は悪くない。甘さが口いっぱいに広がり、くたびれた身体と心にまで染み渡った。
「他に何かお客様の力になれたなら良かったのですが、なにぶん私、物心がついた時と言うか、起動した時には既に命令を書き込まれてここに設置されていたもので……他の階のことはどうにも」
店員の言葉は、彼がこのスペースから出たことが無いであろうことを覗わせていた。しかしその語り口に悲壮感は無い。彼が用いた独特の表現から察するに、人とは異なる仕組みで動くからくりのようなものだろうと予想できた。
「あ、そういえば。お会計を済ませずに店から出ようとすると、出口に生えてる蔦に絡め取られて、どこか売り場以外の場所に運ばれると聞いたことがありますよ。裏に入れば誰か居るかも」
「それは俺も考えたんすけど、泥棒未遂した奴と取引はしたくねえだろうなーって……」
「あー……そうですよね」
発案者はばつが悪そうに視線を泳がせた。
頑なに姿を隠し続ける関係者との接触、そして取引をする相手に無礼を働かぬようにすること。二つの課題を両立させる方法が見つからず、男は頭を抱えた。
店員はそんな彼のことを気にかけてか、穏やかな声色で新たな話題を提供しようと試みる。
「あの、差し支えなければその本、私にも見せて貰っても良いですか? 読めないとは思いますが、装丁が綺麗だなって思って、それで」
「良いっすよ!」
男は簡単に喰いつき、目を輝かせながら本を差し出した。元より長く落ち込む性格では無いし、商品に興味を示されるのは純粋に嬉しい。多くの人にこの本を読んで貰いたいと思う程度には思い入れがあった。
「自動翻訳の術式が組み込まれてるんでどんな言語も対応できるんすよ、とりあえず手に取ってから少し待って……」
しかし本についての説明に割って入るように、本に触れた瞬間の店員を驚かせるように、複数の音源からなるベルの音がけたたましく鳴り響いた。一日二回、開店と閉店を告げるためのものだ。
一つ一つは澄んだ可愛らしい音色であることが予想できるが、迷宮の至るところに取り付けられていたものが一斉に鳴り出したため、暴力的なまでの音量になってしまっている。カフェを取り囲んで騒ぎ続けたそれらが鳴りやむまでの間、店員は空いたカップを問答無用で片付けていた。
再びテーブルへと戻ってきた彼は、酷く眠たそうな目をしてこっくりこっくりと体を揺らしている。
「惜しいところですがもうすぐ閉店です、これを会計に出してからお帰り……くださ……私はもう落ちます……」
殴り書きの伝票を渡すと、空いている椅子に座り、テーブルに突っ伏してそのまま動かなくなってしまった。呼吸は止まっているようだが、顔色に変化は無い。休止状態に入っただけのようだった。
「くそ、また時間切れかよ! あーもう帰ります! 出してくれ!」
自らの鞄を掴みながら叫ぶと、目の前の空間が揺らぎだす。出した足が踏みしめたのは、エントランスホールのよく磨かれた床だった。一日かけて歩んだ長い道のりを一瞬で遡ってしまったのだ。
蔦へカフェの伝票を差し出し、手早く代金を支払って外に向かう。ドアを引いた先で男を出迎えたのは、闇を照らす街灯と周囲の店の灯りだった。陽はとっくに沈んでしまっていた。
この時間までうろつき続けて、得た情報はほんの僅か。徒労であるように思えた。