「常夜ですので陽が射すことはありません。本自体もまた劣化しないようになっております」
「便利ですね……」
広い書庫を案内されながら、ミオは学校の図書館に想いを馳せた。数え切れないほどの貸し出しを経て、表紙がぼろぼろにすり切れた本があることを。この月明かりが射す図書館の技術を取り入れることができれば、いつまでも蔵書を美しく保てるのではとふと気が付いた。
「あのっ、ここの本って何かの術で守っているんですよね。その術ってもっと広く使えないものなんでしょうか、例えばうちの学校の図書館の本に、とか」
「同じ仕組みで他の書を守ることは不可能でしょう。これらはビブロフィリア呪本が内包する世界でのみ通用するものです」
少女の何気ない質問にも、司書は面倒そうな素振りをみせることなく答えてくれる。億劫さを感じる、という機能は持っていないらしい。
「護るというよりは、瞬時に再生成するといったほうが近いですね。原本が主の魂に焼き付いている限り、これらの書は何度でも蘇ります。持ち出すことは叶いませんが」
「貸し出し……できないんだ」
「ええ」
図書館とは広く開かれていて、然るべき手続きを行えば本を借り受けることができるもの。ミオが今まで訪れたことのある図書館や図書室はすべてそういうものであったため、司書がいるからには本を外へ持ち出すことができるのだと思い込んでしまっていた。視界に入る書棚すべてが閉架書庫であるという事実は意外だった。
「ここの本、全部アリアさんが読んだことがあるものなんですよね」
「その通りです」
「訊いていいのかわからないんだけど……あの、ダメだったら答えなくていいのでその、アリアさんってお幾つなんですか?」
「わかりません。私は時間の流れには疎いもので」
こんな膨大な量の書物を読み解くにはいったいどれくらいの時間が必要なのだろう。ロセロと同じぐらいの歳に見えた書架の魔女は、実際の年齢はずっと上なのかもしれない。となると、彼女が後輩にあたると綴っていたロセロは更にその上を行く可能性が高い。どうにか帰り着けたら、歳についてもう一度訊いてみたいとぼんやりと思った。一度はぐらかされて依頼触れていなかったのだ。
「それで、あなたが調べたいというのは何について?」
「あっ、はい、えっとですね」
歩みながら投げかけられた問いに答えるべく、少女はこの道のりで練っておいた案を口にする。
「まず、ここが本の中だっていうなら……この本について書かれた本、ってありませんか? 例えば目録だとか、広告が載っているだとか、説明書きの冊子だとか」
例えばこの本が自分の知らない地で市販されているものだとしたら、この本自体に関する情報にも目を通しているはず。本に説明書きの本をつけるってことはないかな……と、注文を口にしてから気づいたが、司書からの指摘がなかったので撤回はしないことにした。
「この本、ですか」
歩みを止めた司書は、顎に指をあてて何やら考え込む。目を閉じ、そして少しの沈黙を経て答を導き出した。
「本ではありませんが、主がこの本について述べた記事の草稿がひとつ。他には手紙が二通所蔵されておりますが、あなたの権限では閲覧できません」
「草稿……見たいです、お願いします!」
顔を覗かせた希望を前に、少女が目を輝かせる。司書は「承知しました」とだけ返して、さらに書庫の奥へと向かった。
記憶を辿っても、アリアブライルンの著作に『図書館を内包した本』の項目はない。こんな不思議なものを所有しておきながら、どうして彼女はそれを記事として書き起こさなかったのだろうか。いや、草稿があるのだから書き出されてはいる。それが本に収録されていないだけで。
彼女の著作には、内容が奇妙なものだけではなく、装丁が奇抜なもの、聞いたこともないような技術により摩訶不思議な仕掛けが施されたものなど、実に様々な本についての話が収録されている。ミオを今捕らえている呪本とやらは、彼女が著する本にはおあつらえ向きなのではないのだろうか。なのに、なぜ。疑問に思いながら、少女は司書の後を追った。
はしごを上り、司書が歩みを止めたのは、硝子板の嵌まっていない大窓に程近い場所だった。目の前の本棚を見上げ、彼女が手を伸ばしても届かないであろう場所を見つめている。
「あっ……踏み台」
通り道に木製の台があったことを思い出し引き返そうとするが、司書は無機質な声で「要りません」とそれを制した。
彼女が手をかざすと、一冊の本がひとりでに書棚を抜けだし、白い手にゆっくりと降りてくる。彼女がこの建物の……ひいてはこの小さな世界を管理している者であるということを、ミオは改めて実感させられた。
「こちらでございます」
「ありがとうございます!」
差し出されたものは、間近で見ると他の多くの本とは異なる姿をしていた。教師の研究室を訪れた際によく目にする、紙束を紐で束ねて表紙をつけたものだ。厚紙でできた表紙にはタイトルらしきものが記されていた。が、
「……読めない」
タイトルも紙束の内容も、すべて未知の言語によって記されており、まったく読み解くことができなかった。
念のためにとはじめから頁をめくって確認してみるが、数十枚の紙束の中に見知った文字を見つけることはできない。ミオは片手で頭を抱えた。
「どうしよう……」
草稿集らしきものをぱらぱらとめくりながら考え込む。ロセロとの文通も自身の母国語であるセレストラ語で行っていたが、彼が日常で使っているのは違う言語であると聞いたことがある。その割に二人とも流暢なセレストラ語を話していたなあ、と思いを巡らせて、複数の言語を操るための魔術――おそらくは私が全く知らない仕組みのもの――か何かを体得しているのでは、という結論に達した。書架の魔女が本当に様々な世界の本を読み解いているのなら、そうでもしないと時間がいくらあっても足りないはずだ。
とにかく、この紙束からどうにかして情報を引き出す方法を探すか、早々に見切りを付けて次のアプローチ方法を探さなければ。紙面に並ぶ未知の文字列を見たときには胸が苦しくなったが、折れた希望の欠片が刺さる痛みに負けるわけにはいかない。
弱音は無事に家に帰り着いてから吐くのだと心に決めていた。できることなら事の元凶と向き合ってから。二人の間でこの一件を解決した後、この不安を全てどこかに吐き出して、憧れの人と再び会える顔を作るのだと。少し潤んでしまった目を擦ってから、大きく息を吸って呼吸を整えた。
決意を新たに顔を上げると、先ほどまで側にいたはずの司書の姿がない。あれ、と呟いて辺りを見渡すと、ミオがいる中二階ではなく、一階を歩いている姿を見つけることができた。来館者が少なくても何かしら仕事があるのかもしれない。と思いつつ声をかけると、すぐに戻って来てくれた。
「お探しの情報は見つかりましたか?」
「それが、全然読めなくって……これ、何語なんですか?」
「ロキア語ですね。アリアが常用しているものです」
「そうなんで……あっ」
再び光明が射した。どうしてこんな簡単なことに気付かなかったのか、と疑問に思うほど単純な解決策が。
ミオは神妙な面持ちで司書に紙束を差し出した。
「お願いがあるんです、これ読んで……ううん、訳して貰えませんか? ビブロフォビア呪本に関する部分だけでいいんです、その代わり私にできることなら何でもするので! 雑用でも何でも来いですお願いします!」
深々と頭を下げ、願い出る。少しの沈黙を経て顔を上げると、相手はミオの瞳を見据えて簡潔に言葉を返した。
「ビブロ『フィリア』呪本です」
「え、あ、ごめんなさい」
出鼻をくじかれ、また視線を床に落としてしまう。しかしこの返答に頼みを断る意図はなかったようで、司書はファイルを受け取りその内容を確かめはじめた。時に顔を隠すように高く持ち上げたりもしながら。
その肩が少しだけ震えたような気がした。
「ビブロフィリア呪本。これは書の形を取ったマジックアイテムである。この書を開いてひもとくことができるのは、余白も蔑ろにびっしりと書き込まれた文面……ではない。それらを歯車として稼動する、実際に立ち入りが可能な異空間に――」
スムーズな翻訳を介しての読み上げは、ゆっくりと、そして子供に絵本を読み聞かせるかのように優しい声で行われた。
語られた内容は、司書から聞いた情報に加えていくつか。書物の文面を正確に記憶できる体質の者でなければ、まず実用的な使い方はできないだろうということに最も驚かされた。
そんな芸当が可能なものだろうか。心ある自動人形が友人に一人いるが、彼女ならできるだろうか。さすがにこの量の本を記憶するのは無理かもしれない。
そういえば恋しいあの人も常人離れした身体能力を持っていたことだし、それとは異なる方面に特化した、計り知れない記憶力を持つ仲間がいてもおかしくはないかもしれない。どうやってその力を得たのかはまるで予想がつかないが。
他には使用時の制約や持ち主への負担、そして『書庫として機能させることはできなくとも、己の魂から生まれた書庫を観賞する楽しみは味わえるだろう』という締めの一言が頭に残る。草稿であるからだろうか、出版されている彼女の著作よりも、荒削りで面白みに欠ける語りかたであるように思えた。
「……最後に、編集長の意向によりお蔵入り、と記されています」
「ありがとうございます! ……自分で出る方法、なかったですね……」
「そのようですね。ところで」
司書はファイルを閉じ、それがひとりでに本棚に戻るのを見届けてから話を切り出した。
「何でもするとおっしゃいましたね」
「はい、私にできることならっ」
ミオはぴしゃりと姿勢を正し、言い付けられるであろう用件に備えた。延々と本を運ぶ程度の覚悟はできていたが、
「では、この書庫の主にどう立ち向かうつもりなのか、教えてくださいまし」
意外な注文を突きつけられ、「へ?」と間の抜けた声をあげた。
「立ち向かう……んですか?」
「不当に押し込められたのでしたら、そうするのが妥当な流れかと思いますが。泣いて許しを乞うつもりはないようですし」
「いや、ええとですね、私はそういうつもりはなくって」
司書が突然放った鋭い意見に驚きながら、ミオは手振りを添えてそれを否定した。
「アリアさんがどうしても望んでいるのなら、そうなるのかもしれないですけど……私は、まずどうにかして、もう一度しっかり話をしたいんです」
「何の話を?」
「どうして私をここに閉じ込めたのかを知りたくって。私の気持ちも全部話したうえで、何のために、私をどうしたいのか」
言葉にすることによって、決心はなおのこと強くなった。ここから逃げることだけ考えていれば聞くこともなかったような、辛辣な言葉を突き付けられるかもしれない。しかし、それでも。
「なんだか試されてるような気がするんです。ただの嫌がらせなら、鍵をかけた部屋に閉じ込めておくとか、もっと恐ろしい場所に連れていくとか……そういう扱いのほうがしっくり来るなあって思って」
「単にこの方法が一番楽だったのかもしれませんよ」
「でも、もっと簡単に人を困らせられそうな本だってあるはずですよ。私、アリアさんの本で見ましたもん」
例えば、と説明を連ねてみると、司書はその話を相変わらずの無表情で――はなく、堪えきれないといった様子で笑みを浮かべながら聞き遂げた。そう、確かに笑ったのだった。その表情があまりに人間らしすぎて、ミオはうろたえた。
「えっ、あの、ええと」
「そういえば全部読んでくれていたんだものね……改めて言われると照れくさいわ、ふふ」
「司書さん!?」
思わず声を張り上げると、少女の背後から「お呼びですか」と声がする。振り向けばすぐ後ろに司書の姿があった。そして元の方向に向き直ると、そこにも同じ顔が一人。少女は二人を何度も見比べ、背後にいるのが無表情な司書であることを確認した。つまり、もう一人は。
「アリアさん、本人……だったりします?」
「ええ、そうよ」
いつの間にすり替わっていたのだろうか。女は悪びれもせず、いつも通りの穏やかな声で答えた。その笑みのみから意図を探ることはできそうにない。
ミオの鼓動が途端に跳ね、言葉を詰まらせてしまう。しかし迷宮百貨店に取り残されたときとは違い、今回の相手は盗人でも会話のできない巨人でもない。落ち着いて、とにかく落ち着いて――自らに繰り返し言い聞かせ呼吸を整えた。
「教えてください。何が目的なのか」
ありったけの勇気を振り絞り、真っ直ぐに相手の眼を見据えて。
「んー……いたずら、かしら。もしくはお節介」
アリアブライルンは司書を手振りで追い払うと、踵を鳴らしながら歩き、通路の手すりに手をかけた。柵に体重の一部を預け、中二階から書庫を眺める。何が見えているのかが気になり、ミオもまたそれに倣った。
階下に広がる景色を改めて見ると、月光と書架の陰が作るコントラストに心を奪われてしまう。きれい、と思わず呟いたミオの隣で、図書館の主がぽつりぽつりと語りはじめた。
「いい景色でしょう」
「はい、すごく」
「でも、もっと綺麗なものはたくさんあるわ。ロッシェも私も、あちこち出歩いていろいろな美しいものを見ている。……それだけじゃあなくて、醜いものも、恐ろしいものも、本当にたくさん」
彼女の横顔はどこか物憂げに見えた。視線の先に見えるのはきっと本棚ではなく、彼女があちこちを巡って見てきたというどこか違う場所なのだろう。
「あいつ、きっと怖いのよ。出先から持ち帰ってしまった因縁に、ほんの僅かでも、貴女を巻き込む可能性があることが」
「……そういえば、ロセロさんも以前自分で言ってました」
怖い、と。そう言っていたような記憶がある。一字一句までを覚えているわけではないが、おおよそそんな旨を、二人で行ったあの店の最深部で。
記憶を探るミオに、書架の魔女は優しい声で続ける。
「脅かしたらべそをかいてただ蹲るような子だったら、その男はやめておきなさいって諭そうと思ったのだけれど」
「説得っていうより脅迫じゃないですかそれ!」
「そうとも言うわね。でも、その必要はないみたい。ただの学生にしては肝が据わっているもの」
元々そうだったわけではなく、想い人の背を追って虚勢を張っているだけ……そう零したくなったものの、呑み込んだ。虚勢でも度胸があると思わせられたのならきっと価値がある。
「じゃあここから出し……あっ、それよりその、私、話しておかなきゃならないことと、訊いておかなきゃならないことがっ」
一連の仕打ちは自分を試しているかのようだ、と感じたことはどうやら正しかったらしい。ただ憎しみをぶつけられただけではなかったことに安堵しつつも、確かめなければならないことはもうひとつ残っていた。ここ数日の間、ずっと喉につかえていたものが。
つい詰め寄ってしまっていたミオを、アリアブライルンは後ずさることもなく見つめ返した。
「私は……ロセロさんが好き、なんです」
「ええ、知ってるわ」
「ですよねー!」
自棄を孕んだ声が書庫に響く。にこやかに答える女の表情が眩しく、できるなら今すぐどこかに消えてしまいたいと思った。食堂で想い人の話ばかりしてしまっていたことを思い出すと、数日前の短慮な自分を引っ叩きたくなってくる。
「……アリアさんは、ロセロさんのこと、どう想っているんですか」
心臓が弾け飛んでしまいそうなほど早まった鼓動に急かされながら、どうにか胸から絞り出した質問に、女は表情を変えることなく答えた。
「私も彼が好き、って言ったとしたら?」
「そ、それは……っ」
問いかけられ、思わず視線を足元に逸らしてしまう。しかし相手の靴を見ているだけでは話が進まない。少女はジャケットの裾をきつく握り、視線で床をぐるりと撫でてから顔を上げた。
「やっぱりライバルがいるんだなあ、って思うだけです。私はロセロさんに胸を張れるように生きて、次に会える日に……アカシア書房の図書室に行けたときに、また会いたくなるような姿を見せられるように、頑張るだけ」
「……そう」
書架の魔女は目を伏せて黙り込んでしまった。何か考え事をしているらしい彼女の反応を、呼吸が止まりそうな思いをしながら待つ。少しの静寂を経て、女が何かを掬うように片手を上げたかと思うと、手のひらに一冊の本が現れた。音もなく、幻のように。この図書館への入口であった書とは異なるものが。
「やっぱり、ずっと待たせておくには惜しいわ」
紫の瞳に何らかの決意が宿る。しなやかな指先が、そっとミオの頬に触れた。