セレストラのかたすみ

月影図書館にて

#03 捲られゆく頁

 体がばらばらになってゆくような感覚だった。指の先から皮が、肉が、骨が、痛みを持たない別のものにかたちを変えて、剥がれてゆく。
 それは紙だ。自分のすべてが書きこまれた紙。情報の束へと変わりながら、その変化を追うように綴じられてゆく。糸で、厚紙で、きつく身を戒められて、行き着く先は、本棚に僅かに空いた隙間――。

「ひやああああああっ!!」
 叫びながら飛び起きた。いつの間にか寝転がってしまっていたらしい。
 手を握っては開きを繰り返し、頬を叩いて確かめると、本に変わってなどいないことがわかる。何とも手の込んだ幻を見たものだと思った。
 ふわりと宙に浮き上がるような、どこかに吸い込まれるような感覚を、身体がまだ覚えている。予想だにしない出来事に驚いた心臓が鼓動を早めていた。
「あの、アリアさん、これはっ」
 辺りを見回しながら問いかけるものの、つい先ほどまで隣にいたはずの者は見つからない。少女の声は暗闇に溶けて消えるのみだった。
 燦々と降り注いでいた陽はどこにもなく、辺りは夜のように暗い。二人が座っていたベンチもなく、葉が擦れる優しい音を立てていた木々もない。ただ煉瓦のように硬く暗い地面と、遠巻きに見える何かの灯りだけがすべてだった。
「なに……これ」
 眠りこけて日が沈んでしまっただとか、そんな推論では片づけることができない何かが起こっている。世界が反転してしまったような、異なる世界に引きずり込まれてしまったような……本になって収蔵される幻を見たことを考えると、後者のほうが近しいように思えた。
 頭上を見上げても夜空は見えない。どうやら屋内の広間らしきところにいるようで、人工の灯りのようなものが見えた。魔術灯か何かを天井から吊るしているらしい。冷たい色の光が弱々しく降り注ぎ、広間をものの輪郭がわかる程度に照らしていた。
 ミオは立ち上がり、少しの間茫然と辺りを見ていた。やがて暗さに目が慣れてきて、近くに何があるのかがわかるようになった。その結果、ここが自分にとって未知の場所であるということを再認識することとなる。何らかの手段によって意識を奪われて運び込まれたか、瞬時に転送されてきたに違いない。
 全く見覚えのないこの建物は、少女が暮らす街の名所であり大切な人と出会うきっかけとなった場所――迷宮百貨店と似ているように思える。ひんやりと閉じた空気は、あの店に満ちているもの近しい。しかしこの建物には自分以外の者の気配はなく、通路を作るように並ぶ棚もなかった。
 広間は何らかのモニュメントらしきものが飾られ、隅には長椅子が設置されている。どこか大きな建物の入り口であるように見えた。灯りは壁にもまばらに設置されていて、石造りの壁をぼんやりと照らしていた。
 長椅子に近づいてみると、それがひどく古びたものであることがわかる。骨組みに渡された木材はほとんどが折れて外れてしまっており、この場所が刻んだ時間を窺い知ることができた。床も壁も同様に古めかしく、窓らしき四角い穴には硝子がはまっていない。身を乗り出して外を覗くと、暗い空に満月が煌々と輝いているのが見えた。ミオが知るものよりも大きく、明るい月だった。
 しかし問題はその下。広がる景色は空と大地の境界線がわからないほど暗く、何も見えない。これだけ月が明るいのだから、月光を照り返しているものが何かしら存在するはずなのに、限りない闇が横たわるのみだった。
「ない……?」
 何もない。他の建物も、自然も、地面すら。まさか、と思いながら建物の出入り口らしき大きな扉を開けてみると、そこには果てのない闇がのっぺりと広がっていた。
 しゃがみこんで恐る恐る手を伸ばしてみるが、地面があるべき場所に触れることができない。この施設が無限の闇のただ中に浮かんでいるのではないか、と思えた。無鉄砲にこの外へと飛び出していたら、きっと真っ逆さまに落ちていって、そのまま二度と戻って来られなかったかもしれない。
 底があってもなくても恐ろしい結末を迎えそうだと考えてしまった。深い深い穴の底に叩きつけられて身体が砕けるか、それとも終わりのない落下の中で干からびて死ぬか。嫌な想像ばかりが頭をよぎってしまい、背筋が冷える。ミオは震えた手でそっと扉を閉め、他の場所をあたることにした。歩き回るために一度目を閉じ、大きく深呼吸をしてどうにか震えを収めた。

 壁に備え付けられたランプは、泡入り硝子と黒い骨組みの中に、ぼんやりと光る石のようなものを抱えている。光は弱々しく頼りないものだったため、ミオは別途灯りを用意することにした。意識を集中させ、いくつかの呪文を唱えて、自らに眠る力を成形してゆく。それを鞄に注ぎこむことで表面が光りだし、即席の光源となった。
 もっと魔術の扱いに長けた者であれば、この光に蝶や小鳥の姿を取らせて自在に飛び回らせることもできるが、ミオの腕前ではその制御にかかりっきりになってしまう。辺りを照らしても観察する余裕がなければ本末転倒だ。事態を把握するための、好転させるためのきっかけを、どうにかして探していかなければならない。
「あの、私、帰りたいんですけど」
 もしかするとあの店のように、特定の言葉を汲んで元の場所に戻してくれたりはしないだろうか。この一言を忘れていたために閉じ込められてしまったことを思い出し、誰もいない廊下に向かって呟く……が、出口が現れることはなかった。
 辺りに人の気配はなく、鳥や虫の鳴き声すら聞こえない。しっかりと地を踏みしめることのできる中庭があったものの、風がないため草木が揺れる音もなかった。テーブルセットの残骸らしきものを草が覆いつくし、静かに死んでいるのみ。
 小さな中庭を一周し、外へ繋がる道がないことを確かめてから建物の中へと戻った。こんなわけのわからない状況に追い込まれているにもかかわらず、意外にも思考は冴え渡っている。自身の精神が以前よりも鍛えられているのか、それともこの建物が心を落ち着かせる力でも持っているのか。建物全体を包んでいる、埃っぽくもどこか懐かしい匂いが作用しているのかもしれないと思った。
「……アリアさん」
 呟いて、その名の主の様子を思い起こす。この施設について何もわからないのならと、こんなことになった理由について先に考えてみることにした。
 彼女が見せた笑顔に裏があるようには思えない。しかしそれはあくまでもミオの主観であり、実際のところ何を腹に抱えていたのかなどわかりはしない。悪意を向けられることに慣れた者なら、他者が抱えたやましい想いを嗅ぎつけることができたのかもしれないが、少女はそういった腹の探り合いには慣れていなかった。
 書架の魔女、アリアブライルン。彼女はその二つ名に相応しい仕掛けによってミオをここに閉じ込めたらしい。意識を失う直前に見せられた本に何らかの術がかかっていたか、本を触媒として術を行使したのか。詳しいことはまずあの場に戻らないとわからないだろう。
 それよりも動機について考えるべきだと思った。不可解なのは、そもそも彼女がこんな事件を起こす理由が見当たらないこと。身代金目的ならばもっと相応しいターゲットがいるし、どこかに売り飛ばすためならば眠らせて拘束したほうが良いように思える。
 そもそもセレストラ魔術学校とアカシア書房の橋渡しをしている最中の彼女が、その関係を破壊する可能性を鑑みずに事件を起こすとはとうてい考えられなかった。最後に見た微笑みは自信を湛えていたように思える。彼女がミオをここに閉じ込めたことをもみ消せると思っているのか。それとも彼女の思考自体がミオの想像が及ばないかたちをしているのか。しかし、
(なんで私を?)
 獲物として自分を選んだ理由がわからない。単に捕まえやすそうだったから? 彼女の好みだった? 答えを模索するミオの思考に、一人割り込んでくる者がいた。
「ロセロさん」
 立ち止まり、呟く。書架の魔女が親しげに彼を呼ぶ声が、頭の中で繰り返し蘇った。
 思い起こせば、一昨日の自分は憧れの彼の話ばかりをしていた。それを笑顔で聞いてくれた相手が、腹の底で何を思うのかも考えず、彼女が愛称で呼ぶほどの仲である人について、ひたすら。
 例えば彼女が彼を想っていたとして、職場でずっと見ていた想い人が、どこの馬の骨とも知れない小娘の世話を焼いていたらどう思うだろう。嫉妬深い者だったならまず平静ではいられないだろうし、自身がその立場だったとしても心がざわついていたに違いない。
 しかしその仮説が正しかったとして、こんな手の込んだ方法を使ってまで小娘を怖がらせる必要はあるのだろうか。結局それらしい答えを導き出せないまま思索を終えたミオは、拳を固く握って再び歩き出した。
 相手が自分より賢く美しく、より想い人と親しい者であり、勝ち目がなかったとしても、せめて顔を突き合わせて気持ちをぶつけたい。何も知らされないままただ泣きべそをかかされるのは嫌だった。

 廊下と部屋を隔てていたはずの扉は多くが老朽化していて、枠から外れて倒れてしまっていたり、立て付けが悪くなり開かなくなったりしていた。押しても引いても軋んだ音を立てるだけのものは無視し、扉の壊れているところから部屋に侵入する……と、ここに閉じ込められた時から感じていた匂いがいっそう強まった。
 本だ。束ねられた紙と膠、木材、そして獣の皮の匂い。
「図書館……?」
 見上げるほどに背の高い、半ばに足場のついた本棚が、少女の呟きを肯定していた。
 備え付けの弱い灯りと光る鞄を頼りに辺りを観察する。広い室内を歩き回ってみると、小さな中庭とその周りの廊下を囲う形になっていることがわかった。セレストラ魔術学校の付属図書館ほどではないが、なかなかに広い。
 壁にはひときわ背の高い本棚が並び、それ以外の部分には柱を形作るように棚がそびえ立っている。近づいてみると、それぞれに梯子が備え付けられており、それを使うことで高い場所の本も取れるようになっていることがわかった。天井付近の本はそれでも手が届かないだろうとは思いつつ、木製と思しき梯子を両手で掴んでみた。
 梯子は意外にも頑丈で、足をかけてみても壊れる気配はない。老朽化が進んでいる施設の中で、この一室だけが何か不思議な力で守られ形を残しているように見えた。本と、本を取りまくものだけが、丁寧に。
 足を踏み外さぬよう慎重に登り、そびえ立つ本棚の半ばに作られた足場へ降り立った。小さなバルコニーのような足場は渡り廊下を備えており、一度登ってしまえば下りることなく他の本棚の周りへと移動できる。木製らしき足場が自身の体重に耐えうるかを確かめながら、恐る恐る本棚と本棚の間を渡っていった。
 視点が変われば景色も変わる。自らの背丈よりもずっと高い位置から見下ろした図書館は、整然と並ぶ本によって作られた芸術品そのものだった。
「わぁ……!」
 思わず声をあげてしまう。暗闇と大窓から射す月光がコントラストを織りなし、館内の全てを静かに飾り立てている。渡り廊下が落とした影には、慎ましやかな照明が花を咲かせ、本棚の間を歩くものを導こうとしていた。
 自然と身が震えた。背筋に走る寒気は不快なものではなく、興奮が背中を走り回っているかのようだ。図書館に一人きりという恐怖と、図書館を独り占めという冒険心が拮抗しつつあった。
 いてもたってもいられず、鞄で本棚を照らしながら蔵書を観察した。ここを抜け出すヒントがあるかもしれない、と自らに言い聞かせながら。
 背表紙にタイトルが書かれているものは多かったが、そのどれもがミオの知らぬ言語で記されている。試しに一冊を手に取って開いてみるも、内容を読み解くことはできなかった。
 複数の本棚を観察してみると、様々な言葉で記された本が集められていることがわかった。その収蔵数はまちまちで、似たような文字で記されたものが数冊並んでいるだけの場所もあれば、同じ言語圏から来たらしい本が複数の本棚を埋め尽くしているところもある。ミオは好奇心に突き動かされるまま、気になった本を手にとってはぱらぱらと捲った。
 本ごとに違うのは記された文字だけではなかった。少女が普段慣れ親しんでいる布や紙の表紙ではないものが混ざっている。しっとりと冷たい革に身を包んだ本に、透き通ったつややかなカバーをかけられた本。中には驚くほど重たい本もあり、取り落としかけて肝を冷やした。
 地べたに座り、膝の上で本を開いてその理由を探る。綴じられた紙は硬く、つるりとした肌触りをしていた。日常的に触れるようなものではないが、授業などで扱う機会があったため確かに知っている。獣皮から作られた紙だ。
 本は材質だけではなくその大きさもさまざまで、豆本を収めた小箱が並んだ棚や、巨大な本ばかりが設置されている一角もある。中にはミオの背丈よりも大きな本までもが存在し、壁に立てかけられたその姿に圧倒されるばかりであった。
「すごい……」
 あてどなく書庫を歩き回るほど、読むことの叶わない本たちに惹かれてゆく。しかし座り込んでその中身を吟味しつくす暇はない。本棚ひとつひとつを見て回りたい衝動をこらえ、施設の把握に努めた。
 廊下が中庭を囲み、更にコの字を描いた図書室が廊下を囲んでいる。ぐるりと図書室の外周を巡っても、出口らしきものは見当たらなかった。名残惜しくはあるが、ひとまずは他の場所を探索してみることとした。書の大海を漂っているうちに溺れてしまいそうな気がしたのだ。暗く深い、月の光すら届かない頁の深淵に。

 施設は二階建てで多くの部屋を有していたものの、その姿が保たれているのは書物を収めているいくつかの部屋のみだった。広々とした廊下から続く小部屋の数々は、そのほとんどが朽ち果てて機能を放棄している。
 幾つめかも忘れてしまった、ドアの取れた入口をのぞき込むと、椅子とテーブルの残骸のようなものが散らばり行く手を阻んでいた。鞄を掲げて部屋の奥を覗けど、見えるのは苔むした壁ばかり。脱出の手掛かりになるものはないだろうと判断し、もと来た道を引き返した。
「んー……」
 唸りながら頭の中に地図を描いてゆく。これで入ることのできる部屋はすべて調べたはずだ。
 残る部屋はおそらく三つ。立て付けが悪いのか鍵でもかけられているのか、押したり引いたりしただけでは動かなかった扉がいくつかある。その一つ、現在地に最も近い開かずの扉へと向かったミオは、もう一度念入りに扉を調べ始めた。
(冒険小説だったら、こういうところに大事なものがしまってあったりするんだけど)
 そう上手くはいかないよね。と思う気持ちを溜息に変えながら、少女は再び力いっぱいドアを押したり引いたりしてみた。が、扉はただ軋むばかりで開こうとはしてくれない。いくらかの逡巡を経て、覚悟を決めて眼を閉じた。
 意識を集中させて唱えたのは、触れたものに強い衝撃を与える術。動くものにはそうそう当てられないが、動かないものには高い効果が期待できるゆえに、災害に見舞われて瓦礫に道を塞がれた時などに使うと良いと教わったものだ。ミオが通う魔術学校の中等部では、生活の中で使える術や護身・人命救助などに使える術を多く教えている。ミオは生徒たちの中でも特に護身術に興味を持っており、込み入った内容まで教えてくれる授業にも参加するようにしていた。内容は中等部生には難しいものだったが、やりがいはあった。
 ロセロさんが払った火の粉が飛んできても身を守れるように。今がまさにその時だ。
 確たる想いと共にこねあげた力は、扉に触れた両手から迸り、古びた木製の扉を打ち破る――ことはなく。術に耐えるべく踏ん張ったミオの身体を後方へと動かしただけだった。
「いっ、ててててて!」
 手のひらから伝わった衝撃に耐えかね、両手を垂らしてじたじたと足踏みをする。気休めになるかもしれないと手のひらに息を吹きかけながら扉を見ると、脆そうに見えたそれは何食わぬ顔でその場を守り続けていた。
「なんで……?」
 手の痛みが引くのを待ち、まじまじと扉を観察するが、やはり朽ちかけた木の板にしか見えない。経年による劣化以外の損壊は見当たらなかった。部分的に割れても良さそうなのに、と不思議に思いつつ表面を撫でてみると、ほとんどが剥がれてしまった塗装が一部にだけ残っていることに気が付いた。
 めくれ上がった塗料の膜をつまんで引っ張ってみるが、今にも砕け散ってしまいそうに見えたその部分はかたくなに扉にへばり付き続ける。不自然な頑丈さに首を傾げ、思考を巡らせてようやく、一つの推測にたどり着いた。
 何らかの魔術によって護られているに違いない。
 思えば先ほど歩き回った書屋もそうだった。自然に古ぼけるままに任せていては、無人の図書館の本などすぐに建物と共に劣化してしまう。あの図書館もこの開かずの扉も、何らかの意図のもとに保護されているようだ。その処置を施したのが書架の魔女であるのかどうかはわからないが、とにかく立ち入ることのできない部屋たちは、図書室と同じくらい大切に扱われている部屋なのだろう。
 ……と考えたまでは良いものの、ここから何をしたらよいのか、扉を突破するとしたらどうしたらよいのかが思い浮かばない。幾分か疲れた顔で大きく息を吐いたミオだったが、
「お客様」
 と背後から声をかけられて「ひゃいっ!?」と甲高い声をあげた。
 肝が冷える思いをしつつ振り向くと、そこには見覚えのある――今はどうしたって忘れることのできない――すました顔があった。
 ミオをここに閉じ込めた張本人、アリアブライルンその人の。
「なっ」
「お客様?」
 麗人は首を傾げる。
 学校の廊下を歩いていた時の彼女は、踵の高い靴で小気味の良い音を鳴らしながら歩いていた。かつん、かつん、と軽快に床を踏むあの音は、この施設に送られてからは一度も聞いていなかったはずだ。廊下を歩まずして幻のように突然現れたとしか思えない。
 ぞわりと肌が震えるのを感じると同時に、顔だけがにわかに熱を持つ。照れや喜びとは遠い、憤りの熱だった。
「アリアさん、どうして、こんな」
「お客様」
 返される声は静かで冷ややかなものだった。突き放すわけでもあざ笑うわけでもない、もっと無機質な、事務的なもの。その他人行儀さは少女の困惑を加速させ、声を荒らげさせた。
「ふざけてるんですか!? 好きでお客様してるわけじゃない……いきなり知らないところに閉じ込めておいて何を」
「私は彼女ではありません」
「……え?」
 淡々と告げるその顔は、間違いなく書架の魔女そのものだった。着ている服までつい先ほどまで見ていたものと同じ。ふざけている、双子の姉妹である、何かが彼女に化けている……いくつかの仮説を立ててみるも、それらはミオを混乱させるばかり。
「私はこの地を護るもの。魂の書庫に客人を導く司書でございます」
「し、しょ」
「はい。アリアブライルンはその主。ビブロフィリア呪本の使い手であり、この深淵に知を運び込む者」
「えーっと……」
 矢継ぎ早に述べられた情報を組み立てる。聞き覚えのない言葉は脇に置いておくとして、おおよその意味を汲めたものだけを並べ替えた。
「つまりあなたはアリアさんではなくて、アリアさんのためにこの場所を管理している人で、司書」
「その通りにございます」
 司書。その言葉を聞いて疑問が浮かび上がった。彼女が司書だというのなら、なぜ今の今まで姿を見せずにいたのだろう。司書ならばカウンターで利用者を待っているだとか、蔵書の整理をするだとか、そんな業務をしているべきなのではないか。迷子の背後に忍び寄ることも司書の仕事なのだろうか。
「あの、それで私に何の用ですか」
 口にした後で、もっと柔らかく問えなかったものかと小さく悔いたが、心に生えた刺はまだ引っ込みそうになかった。
「こちらの書を閲覧する権限を、お客様がお持ちでない旨を伝えに参りました」
 司書の視線はミオの背後にある扉に向けられていた。開かずの扉を無理やり開けようとしているところを見られたのか、それとも不思議な力で感知されたのか。
「破壊は禁じられております。主から入場の許可をお受けください」
「その主さんが顔を出してくれないから困ってるんですけど……あの、司書さん、今すぐここから出してくれませんか?」
「その権限は与えられておりません。主に直接お伺いください」
「だから直接伺うためにはここを出る必要があって」
「その権限は与えられておりま」
「もう!!」
 話が通じないもどかしさに、思わず奥歯を噛みしめてしまう。
 涼やかな顔で説明を続けるこの司書は、形こそ人間であれその中身はまたかなり異なっているようで、気を利かせるということができないらしい。悔しがるミオの様子を、司書は笑うでも憐れむでもなく、ただ無表情のまま静かに見守っていた。
 ここで粘っても無駄に違いない。そう考えて、少女は新しい話題を持ち込むこととした。直接外に連れ出してもらうことはできなくとも、この施設について色々と訊ねることはできるかもしれない。そこから脱出の糸口が見つかる可能性もある。
「んー……じゃあ、この建物について教えてくれませんか? どこで、何のために作られて、どうやって人を呼んでいるのかなって」
「ここはビブロフィリア呪本が形作る世界。主が魂に刻む知によって姿を成し、導かれし者にその一部を分け与えるための、果てしなく捲られうる書の海。この形は主の魂を写す鏡であり、射す月影は主の心を照らすものであり。主がこれらの書に触れることを許したものだけが、その許しと共にビブロフィリア呪本をなぞるものだけが、主の書架に手を伸ばせるようこの世界に招かれます」
 落ち着いた声で淡々と、難解な詩を読み上げるように言葉を紡いでゆく。その殆どはミオの思考を素通りし、欠片だけを耳に引っ掛けてそのまま消えてしまった。
「あの、もう少しわかりやすく説明してほしいです……」
 頭が悪いのではないか、と思われるかもしれないという懸念はあったが、恥ずかしがって黙っているわけにもいかない。少女が要求を口にすると、司書は「はい」と答えて再び説明を始めた。
「魔法の本の中です。主が読んだ本の複製を置いています。主に入って良いと言われれば入れます」
「すごくざっくりとしましたね!?」
 なぜ初めからそう説明してくれなかったのか。問い詰めたい欲求が湧いたが、それよりも先に知りたいことのために呑み込んだ。
「あの、実は私、ここに来たくて来たわけじゃないんです。アリアさんに……あなたの主に、勝手に連れてこられて。無理やりというより、罠にかけられたみたいにストンって」
 司書の話しぶりから察するに、ここは本来ならば客人が自ら望んで訪れる場所のようだ。確かにこれだけの蔵書があれば、学業や研究、更には知識の積み上げや暇つぶしにも最適だろう。たった今迷子になっている少女も、然るべき説明を経て安全を証明されつつ導かれたなら、読めそうな言語の本や絵本を探して時を忘れたに違いない。なんだか勿体ない、と心の中でごちる。
「主がどのような事情を以ってあなたを呼び込んだのかはわかりません。私にできるのは、この書庫を案内することだけ」
「そっか……」
 きっぱりと言い切る司書の顔が、学校で教材として眺めたことがある、心を持たない自動人形のように見えた。化粧で美しく飾られた顔であることは彼女の主と変わりがないのに、表情がないだけで随分と印象が変わってくる。少し、不気味だ。
 ううん、と唸りながら俯いて考え込む。この閉ざされた世界について。少女を捕らえる檻として、本来の用途ではない使い方をされる書庫について。
 蔵書はすべてアリアブライルンが読んだものの写しであるという。こえれだけの知識を持っているのならば、こんな手の込んだことをせずとも、自分のような子供一人ぐらいは攫える術も知っているのではないだろうか。
(牢屋にしては広すぎるし、自由すぎる)
 自分が憎い相手をどこかに閉じ込める側の立場だったとしら、こんなに素晴らしい場所を牢として用意するだろうか。激昂した相手が保護の術を打ち破り、手あたり次第本を破壊する可能性もある、ということにもまた気が付いた。
 火を放って本を燃やしてしまえば、小さな世界の主が腹を立てて飛び出してくるのではないか。などと考えはしたものの、本を燃やすことなどできそうになかった。おそらくはそれも図書館の主の思惑通りなのだろう。
 何もできない臆病者だと思われているのか、この状況下でも本を傷つけたりしない高潔さを見出されたのか。後者の可能性に気付いたミオの中に、ある感情がひたと湧き上がった。
 顔を上げると、腰の前で手を重ねた司書が、ただ静かに客人の言葉を待ち続けている。
「それじゃあこの図書館を案内してもらえませんか? アリアさんに関係するもの……たとえば好きな本だとか、どんな小さな情報でもいいから」
「かしこまりました」
 司書は恭しく頭を下げた。やった、と小さく呟いて、ミオは歩き出した司書のあとを追う。
 閉じ込められはしたものの、これは私を傷つけるためだけの仕打ちではない。何か謎かけでも行われているのではないか。そう考えたミオは、可能性の尾を追うことにしてみた。
 彼女が憧れる男が、かつて陳列棚の迷路でそうしたように。