彼の言う「面白いこと」が何を示すのかが気になって仕方なく、このままでは色々と活動に差し支える。文芸部の部室に顔を出しつつもだらけるばかりで帰ってきてしまった昨日を思い出し、何かがあるなら早く明かしてほしいと願うほかなかった。
そもそもミオが通う学校とロセロの間には何も関係がないはずである。学校の名前は伝えたので知っているはすだが、彼は意味もなく人の通学先にちょっかいを出すような者ではない。仲の良い友達にこぼしたところ、転校してくるんじゃない!? と目を輝かせて言われたが、恋愛小説のような展開を期待するには佇まいが大人らしすぎた。教師として来たと言われたほうがずっと信憑性がある。
放課後になってもそれらしい張り紙が増えないことを確認し、踵を返した。部室に顔を出しつつ、今日も集中できないようなら夜にすぐ返信を書こう、勿体ぶっていないで何のことなのか教えてくれと文句をつけよう……そう決めて。
しかし答えは意外なところから現れた。
あれやこれやと考え込みながら部室のある棟へ歩いてゆくと、目的地の前で異種族の親友――薄青い肌と蛸のような足がとにかく目立つので見間違いようがない――が、見知らぬ誰かと何やら話し込んでいる。親友はミオが歩いてきたことに気づくと、手振りで急ぎ足を促した。
「あの子です、あの眼鏡で黒い髪の!」
そう説明してみせている相手は、淡い紫色の髪を二つに纏め上げた、妙齢の女性だった。入構許可証を首に提げていることから、客人だろうかと考える。しかしミオに会いに来る客の心当たりはなかった。
「どうしたのモニャ、お客……さん?」
「うん、仕事で寄ったついでにミオに会ってみたくなったんだってさ。なんか提携図書館? 図書室? が増えるんだって! その担当の人なんだって!」
「ええ、うちに新設する図書室をね」
説明をする友人の顔は嬉しそうだ。文芸部に入るぐらいには物語が好きな彼女にとって、未知の本に触れられる機会が増えることは喜ばしいのだろう。小説の類が置いてあるかどうかはまだわからないとしても。
セレストラ魔術学校は外部の図書館や図書室との提携を行っており、生徒ならば誰でも提携先の本を閲覧または借用することができる。中には異なる世界に存在する施設まであり、月に数回ほどの限られた時間で、専用の移動手段を介して赴くことができるようになっていた。
「そ、そうなんだ、えっと、はじめまして」
しかしその担当者がなぜ一介の生徒に会いに来るのだろう。ミオは事情もよくわからないまま会釈をした。仲介者は「知り合いじゃなかったの?」と首を傾げている。そんな少女に礼を告げてから、客人はミオをまっすぐに見据えた。宝石のような紫色の瞳に、自らの視線が吸い寄せられるのを感じた。
「はじめまして、突然お邪魔してしまってごめんなさいね。アマガイ・ミオさん……よね?」
「はい」
「先日はお手紙ありがとう。たまたま仕事でここに来たのだけれど、あなたが通っているって聞いたからつい……っと、先にこっちを渡しておくべきだったわね」
手紙。最近手紙を送った相手で、まだ顔を知らない者と言えば一人しかいない。
鞄から名刺を取り出す客人の姿を見ていると、頭の上に封筒が落ちてきたような錯覚を感じた。つい先日受け取ったばかりの、赤い封蝋を施されたあの手紙。息を呑んで手書きの名刺を受け取ると、そこには丁寧な字で『アカシア書房 記者 アリアブライルン』と記されていた。
会うのは初めてだが、ミオは確かにこの客人を知っていた。不思議な実録娯楽書を発行する出版社の一員であり、幼い頃から繰り返し読んだ本の著者。ロセロが気を利かせてファンレターを届けてくれた、ミオの憧れの人の一人。
「アリア、って呼んでくれると嬉しいわ。もし良ければ、少しだけでもお話を……」
「はい!! よど、ろ、よよ、喜んで!!」
客人の言葉を遮り、自分でも驚くほど大きな声で返事をしてしまっていた。まさかの人物との対面に、金属の芯でも入ったかのように背筋がぴんと伸びる。「何!? すごい人なの!?」と驚く友人の顔を見て、女はくすくすと笑った。
その本は母の書斎にある本棚に収められていた。同じ大きさで同じ色調の背表紙がいくつか並んでいた中で、ミオが最も気にいっていたのは、『めくってみよう! 異世界ふしぎ紀行シリーズ・君の知らない書物の世界』と題された一冊だった。
記者が様々な世界を渡り歩いて探したと言う、風変わりな本や不思議な仕掛けが施された本を紹介する……という内容の娯楽本。異世界で発行されたものではあるが、自動翻訳の術式が組み込まれているためにミオでも読むことができた。
このシリーズは本当に実録本なのかと疑ってしまうほど奇抜な話が多く収録されており、未知の文化への興味をかき立ててくれる。身近にもこんな不思議な本があるかもしれない、と冒険心をくすぐられて初等学校の図書室をよくうろつくようになり、本を借りる頻度も増えた。中等部生になってから文芸部に入ったのは、それらの影響があってのことだった。
ミオを形作ったもののひとかけら、その作者が今、目の前にいる……のだが。
「とにかくボリュームのあるものを食べていることが多いかしら。肉と野菜の炒め物を山ほど盛ったものだとか、皿いっぱいの焼き麺だとか」
「そうなんですか、すっごい食べるんですね……ふむむ」
まばらに席の埋まった食堂のかたすみで会話が弾む。控えめな声量の、それでいて発音は明瞭な二人の声は、テーブル越しに向かい合いながら二人だけの世界を作るのに適していた。
ミオの手元には空になったマグカップが、アリアブライルンの目の前には茶が残ったソーサーが置かれている。薄紅色の茶は冷めきり、淹れられてから時間が経ってしまったことを示していた。
「そのうえ余った大皿料理まで全部掻き込んでゆくのよ。彼がいると残り物が出ないわ」
ミオは小刻みに頷き、顔を綻ばせた。
対談はアリアブライルンが書いた本の感想、およびそれが幼少期のミオに与えた多大な影響についての話題から始まり、いつの間にか彼女の同僚である男の話に収束していた。
詳細はぼかしつつ、紆余曲折を経て文通を許されたことを話すと、相手は堪えきれないといった様子で笑った。机に向かって丁寧に手紙を綴っているさま、それも年端もいかない少女相手のものとなると、普段の姿とミスマッチすぎて上手く想像ができないらしい。たしかに文系という感じではなかったなあと、残酷にも薄れつつある記憶を引っ張り出しながら想う。文筆に励むよりも、外で体を動かすほうが似合いそうだ。
聞くところによると、彼が所属する出版社であるアカシア書房が、新設したばかりの第二図書室をセレストラ魔術学校生に開放することになったのだという。上に立つ者同士の縁故によって持ちあがった話らしい。
この提携が実現されたなら、ロセロの職場の一部を堂々と訪れることが可能になる。その際に彼にまた会えるかもしれない。目の前の女性との邂逅がおまけに見えてしまうほどの朗報だった。
「それにしてもロッシェったら、こんな健気な子を捕まえていたなんて」
ミオよりもずっと身近な場所から彼を見ていた者にも、二人の交流は全く知らされていなかったらしい。女の言葉がどうにもむず痒くて、少女は照れくさそうにそれを否定した。
「捕まえられてなんてないです、本当に私が必死に頼み込んでそうなっただけなんだから」
「あら、そう? あいつがまめに手紙を書くなんて相当の事態よ?」
「それは、きっとロセロさんが優しいからで……」
言葉にすると、胸にちくりと痛みが走った。今までなるべく考えないようにしていたことが、小さなとげとなって心に刺さる。
この同僚の弁によると、普段の彼は本当に文筆とは縁遠い性分であるらしい。それを覆してでもミオの相手をしたいのだろう、と彼女は語っていたが、少女はそれを鵜呑みにすることができなかった。実のところそれは彼の義理堅さだけが理由であり、実は負担になっているのではないか、と。
懸念の理由は、あの一件以来会っていないということのほかに、もう一つ――たった今生じたばかり。
「ロッシェが義理だけで文通なんて続けられるとは思えないわ」
楽しそうな顔を見せるこの記者は、彼のことを少女の知らぬ愛称で呼ぶ。もしくは「あいつ」とだけ、親しげに。同じ組織に勤めているなら親しいのも当然とは思うものの、肩を並べて歩く二人の姿を想像してしまうと、胸が少し苦しくなった。
自分がこうして学校に通っているように、彼には彼の居場所があり、そこで誰かと肩を並べるのは当たり前のことなのに。そこに割り込みたいと考えるのは傲慢でしかない。自らの浅はかな考えを戒めながら、それを顔に出さぬよう気持ちの奥底に押し込めた。
冷めた茶で喉を潤している客人は、ミオにはない魅力をいくつも備えていた。目元の紅がよく似合う、大人らしくも老け込んでいるわけではない、盛りの花のようなかんばせ。落ち着いた声と振る舞いは、しとやかに秘められた知性と、揺るぎのない存在感を引き立てている。ふらふらと風に揺れるつぼみのような、成熟の時を待つ最中の少女とは対照的だ。
「そんなに気になるなら、次に会ったときにそれとなく聞いてみたらどうかしら。最近疲れた顔してたことだし、ついでにあなたが直に励ましてくれればいい息抜きになると思うの」
「疲れてそうなんですか!?」
未だ知らぬ事情に飛びつくように、つい身を乗り出してしまう。そして空のマグカップがごとりと揺れる音で我に返り、また姿勢を正した。
最近は特に忙しい、などと手紙に書かれていることは時々あったが、文面から彼の細やかなコンディションを読み取ることはできない。できることなら近く彼の様子を見て労わりたいとは思うものの、それは未だ叶わぬ願いだった。
「そうみたいだけれど、ここのところ会っていなかったの?」
「ここのところというか、去年の夏のはじめに知り合ってからそれっきり……でもお忙しそうな中、文通だけでもお願いできたのが奇跡みたいなもので」
少女がやんわりと浮かべた笑みには自嘲が含まれていた。しかし事情を問うた相手に申し訳なさそうな顔をさせてしまったことに気付き、「でも!」と声をあげて取り繕う。
「おかげでこうやってアリアさんとお話することができたんだから儲けものです!」
口にした言葉は嘘偽りのない本心だった。大好きな本の著者から、その内容やこぼれ話を直に聞ける機会などそうそうあるものではない。実際に顔を突き合わせることで、彼女への興味がより増したのも事実だ。こんな大人になりたい、と思わせてくれる雰囲気をアリアブライルンは持っている。
しかし彼女は「ありがとう」と告げながらも、視線をテーブルに移し何かを考えているようだった。一瞬だけ見えたその素振りに、いけないことを言ってしまったのではと内心慌てたものの、女はすぐにまた笑顔を浮かべてミオに語りかける。
「そうそう、もし良ければまたこうやってお話させて頂けないかしら? 明々後日にこの辺りに来る予定があるのだけれど、その後にゆっくりと」
「星曜日……の放課後ですか?」
「うん、そう。夕ごはんぐらいはごちそうするから、生徒の視点からもっと学校のことなんかを教えてほしいの。利用者のことを知っていたほうが蔵書の案内も作りやすいわ」
「もちろん大丈夫と言うか私からお願いしたいぐらいです!」
提案は魅力的だった。つい想い人の話ばかりしてしまったという今日の失敗を踏まえて、次はもっと相手にとって有意義な話ができるかもしれない。約束の日までに、彼女の仕事の助けになりそうな情報を纏めておこう……そう決意しつつ、食堂での茶会はお開きとなった。
その晩に手紙にしたためたのは、図書室の解放について知った旨と、心臓に悪いから勿体ぶらずに教えて欲しかったという旨。そして今日の出会いに、身体を労るよう願う一言。
疲れに効くらしいハーブティーの茶葉の小袋を同封しながら、少女はいずれ来るだろう再会の日に想いを馳せた。
ミオの書く文字は丁寧で読みやすいものでありながら、少し丸みを帯びていて、愛らしさを感じさせる。ロセロは便箋に詰めこまれた内容をすべて読み込むと、それを再び封筒に収めて、棚の引き出しにしまいこんだ。収納を助ける深めのトレイに、差出人を同じとする手紙がずらりと並んでいる。はじめはトレイの底にぽつんと寝かせていた封筒も、今では立てて並べられるほどの量になっていた。
男はリビングのソファに腰掛け、俯いた。手紙をくれる少女の住む家とは大きく毛色の違う、電動の家財がいくつも設置された部屋に、テレビから流れる音声が響き渡っている。しかし番組の司会者の声は、部屋の主には一切届いていなかった。彼の思考は自らの内に向いている。
小さくため息をついて顔をあげる。獣を思わせる金の双眸は、その先にある映像端末ではなく、どこか遠い場所を見ていた。買ってきたばかりの麦酒に口をつけるものの、喉につかえているものが流れてくれることはなかった。
ミオがアリアブライルンと再会を果たしたのは、後に手紙で指定された公園だった。子供が駆け回れる広場と、人の手によって整えられた疑似的な森が隣接している閑静な場所。ミオの通う学校からいくらか歩いたところにあるそこへ、授業が終わってからまっすぐに向かった。待ち合わせは大きな木の下、小鹿の像の隣に位置するベンチだ。
生垣の向こうからははしゃぐ子供たちの声が聞こえる。のどかな空気の中、二人はベンチに腰掛け他愛もない話に花を咲かせていた。役に立とうと話の種を色々と集めてきたはずなのに、話題はころころと脱線を繰り返す。それがまた楽しい。
「書架の魔女、ですか?」
問い返すミオの眼は憧れにきらめいていた。かっこいいです、と続けた言葉は心からのもので、気分の高揚を感じる。二つ名というものはどうしてこうも人を惹きつけるのだろう。うら若い少年少女にとってはなおのこと。
「魔女を名乗れそうなほど凝ったことができるわけではないのだけれどね。いつも本棚の前にへばりついているからそう呼ばれるようになっただけよ」
「でもすごくそれっぽいですよ! すごく!」
普段の授業の内容や様子についての話は、いつの間にか二人の私生活についての話にすり替わっていた。たった今話題に上っているのは、アリアブライルンが仕事の関係者に付けられたという二つ名についてのことだった。
著名な魔術士は何かしらの異名を持つ者が多く、セレストラ魔術学校の教師陣にも少なくない。その全てが惚れ惚れするような異名を持っているというわけではないが。『書架の魔女』の異名を持つという目の前の女は、大したことはしていないと照れくさそうに続けたが、それでも尊敬の念を募らせるには十分な情報だった。数多の本をひもとこうとしている彼女の在りかたに沿った素晴らしい冠であると。
「私も二つ名が貰えるぐらいすごい人に……まではないかなくても、いつか立派な大人になりたいなあ」
「そうねえ。なれるわと言いたいところだけど、まず『立派な大人』ってどんな人を指しているのかしら?」
「うーん……」
投げかけられた問いに、ミオは少しの間考えこんだ。立派な大人、理想の大人……漠然としたイメージはあるものの、人に説明する機会のなかったものだ。頭のなかに散らばっているものを集めて組み立てるように、少女は少しずつ言葉を紡いだ。
「ほとんどのことを自分でてきて、でもどうしても必要なときにはちゃんと人を頼れる、みたいな人、かなって思います。あと、もう一人でもやっていけるなーってお母さんを安心させられるような」
「うん、私もそこは大事だと思うわ」
「それとですね、何か予想外のことが起こった時に、わわわわーってならないで落ち着いて対処できる人……」
口にしながら思い出したのは、かつて夜の迷宮に閉じ込められたときのこと。怯えて判断を誤り、八方塞がりになっていたところをあの人に助けられた。自分の失策が呼んだ出会いは本当に素晴らしいものだったが、何かあったらまた助けてくださいとは言いたくなかった。甘えてばかりの恋は上手くいかないと母も語っていたような記憶がある。もっともだとミオもまた思っていた。
「大人でも難しいことね」
「ですよねー……」
「だからこそ目指す価値はあるし、志す姿は美しいと思うわ」
肯定の言葉がじんと胸に染みる。
頑張ります、と元気よく返すミオの隣で、アリアブライルンは膝に乗せた手提げ鞄の中を覗いていた。そして中から布に包まれた何かを取り出すと、巻きつけられていた紐を解いてその中身を取り出した。興味の眼差しを向けるミオの目の前で、彼女は赤い表紙の本を開いてみせる。手のひらより少し大きい程度の、革張りの表紙が美しい本だった。手帳の類かと思ったものの、ちらりと覗いた本文には、手書きの文字を書き込むためのスペースはなかった。
「そんなミオさんにね、これを見せたくって持ってきたのよ」
そう朗らかに告げて、書架の魔女は本を差し出してきた。少女は何のためらいもなく、好奇心に胸を膨らませてそれを受け取る。数多の本に触れてきた彼女がただ一人のために選んだものなのだとしたら、さぞかしすてきな本なのだろうと考えて。
「何なんですか? これ」
「見てのお楽しみ」
いそいそと本を受け取り、開かれている頁に目を通す……が、その内容はミオの知らない言語で記されており、内容は全く読み取れなかった。何枚か紙を捲ってみるが、文字が読めなくても楽しめるような挿絵が入っているわけでもない。ただ文章が並び、時々無機質な何かの図が挿入されているだけ。非対称な図形は、いびつな魔法陣のようにも見えた。魔術に関わるものであることはなんとなくわかったが、少女が学校で習っているものとは異なる系統であるようで、どのような働きをするのかは想像もつかない。
「あの、これ……」
真紅の瞳に困惑を浮かべながら隣を見やると、本の持ち主は少女に少し身を寄せて、手を伸ばしていた。しなやかな指が、それをするのは当然とでも言うかのような自然な動きで、ミオの胸ポケットに入り込む。何かを引っぱり出されるさまを目の当たりにしながらも、生徒手帳を抜き取られたのだと理解するまでに一瞬の間を要した。思考が追いついていない。
「ひゅえっ!?」
「平穏無事に大人になりたいなら、ロッシェのことは諦めたほうがいいと思うわ」
「な――」
なんで、と言おうとしたはずだったが、言葉にすることは叶わなかった。
ミオの身体が陽を浴びた朝露のように煌めいたかと思えば、その姿はたちまちかき消えてしまった。言いかけた言葉も一緒に、まるではじめからその場に誰もいなかったかのように。
それを見たものは、書架の魔女以外に誰もいない。女はベンチに落ちた本を拾い、静かに閉じた。