セレストラのかたすみ

月影図書館にて

#01 はじまりの頁

 お気に入りの石鹸で顔を洗い、髪を二つに束ねると、ぼんやりとしていた意識がようやく覚めてくる。朝食を作っている母の鼻歌を遠く聞きながら、アイロンのきいたブラウスに手を通していつもと同じように制服に着替えた。
 最後に黒縁の眼鏡をかけて身支度はおおよそ完了。レンズ越しに見る世界は先ほどまでと変わらないが、今日も人としての活動を開始したのだという実感が湧いた。ミオという少女は眼鏡という楔を打ち込んでようやく完成する存在だ。
 自身のかたちが仕上がったところで、野菜が煮える良い匂いがするダイニングへ……は行かず、一度家から出て裏手へと回る。キッチンの勝手口から出たほうが近いものの、母の前を通って堂々と行くのが気恥ずかしく、いつもあえて遠回りをしていた。
 目当てのものは、家の陰にひっそりと佇む小さな郵便受け。街の郵便屋から手紙を受け取るためのものではない、傍からはただの飾りにしか見えないであろう木箱をそっと覗く。そして中に一通の封書が収まっているのを見るや、こみ上げる喜びに顔を綻ばせた。
 自室に戻るまで待つことができず、透明なテープによる封を剥がしてその場で手紙に目を通した。一枚目の便箋に綴られていたのは、お気に入りの髪飾りを鳥に持ち去られた話への慰め、出先で見たオーロラを見せてやりたいという話、新入りがなかなかに濃いキャラをしている話。力強い筆致による文面は、簡潔ではあるが読み手を楽しませたいという気持ちが表れているものだった。
 手紙など殆ど書いたことがなかったという彼が、自分のためにこうやって話題を選んでくれていることに、言い表しようのないほどの幸せを感じる。しかし一年以上続いたこのやりとりだけでは物足りないと思う自分もまた存在していた。半ば押し通す形で文通を始めさせ、その習慣が変わらず続いてきたことは純粋に嬉しいものの、変わらないということがまた不満の一つであり不安の理由でもあり――
 ことん、ぱさり。
 目の前の木箱から発せられた小さな音が、答えの出そうにない考え事に囚われた少女の意識を引き戻した。封筒の角が当たる音が内部で反響したようだ。郵便受けの周りにはミオ以外誰もいない。閉じた箱の中に直接手紙を放り込む者は、放り込める者は、彼女が知る限りたった一人。
 あの精悍な顔立ちが、やや低くよく通る声が、鮮明にとはいかないながらも脳裏に浮かぶ。驚きのあまり取り落としてしまった手紙を拾うことも忘れ、ミオは咄嗟に郵便受けの蓋を開いてその中を覗き込んだ。そして、
「ロセロさん! いますか! ロセロさん!」
 久しく会っていない想い人の名を二度呼んだ。が、返事は帰らずじまいで朝の静けさだけが残る。身を屈めて見上げた木箱の天井には、離れた空間を正確に繋ぎやすくするという紋様が見えるのみ。遥か遠くの地から手紙を送った相手は、要件を済ませると即座にその道筋を閉じてしまったらしい。
 声ぐらい聴かせてくれたって良いと思うのに。興奮がすっと引いてゆくのを感じ、大きくため息をつきながら、ミオは新たに投函された封筒を取り出した。
 そういえば一日に二通も手紙が届くだなんて初めてのことではないだろうか。何かすぐに話したいことでもできたのかな、などと軽く考えつつ封筒を見ると、いつものテープによる封ではなく、赤く艶めいた封蝋が押されている。不思議に思いながら裏返すと、いつもの手紙とは違う流麗な筆致で宛名と差出人の名が記されていた。
「えっ……これ、えっ」
 その名に驚き、無駄に辺りを歩き回ると、靴の下でくしゃりと音がした。紙があげた悲鳴によってようやく落としていた手紙に気づき、拾い上げる。そしてまだ二枚目の便箋を読んでいなかったことを思い出して、新しい手紙を開ける前にと手早くその内容に目を通した。
 数行で終わっている文面は、ミオを更に混乱させる一文で締めくくられていた。

『預かった手紙はあいつが帰ってきたら渡しておきます』
『あと、近々面白いことがあると思うので、学校の掲示板だとかなんかその辺のものを見ておくように』