そして鞄を肩にかければ準備は完了。最後にとそうっとプイの身体を揺すって起こすと、彼はベッドの上で跳ね回ってやる気を示してくれた。ひとまず疲れは取れたようで良かった、とモニャニヤは安堵の息をついた。
「それじゃあ行くよ、絶対探し物見つけてこようね!」
「ぷぃにゅー!」
出発は兄との約束通り、太陽が完全に姿を見せて街路の人通りが増えてから。
息巻いて家を飛び出した二人はまず西へと向かった。昇ったばかりの眩い朝日を背に受けながら早足で歩む。二区画と半分を進んだ所で右へと曲がり、そこから更に三区画進んだ所でまた右へ曲がった。
「プイ、探し物の匂いする?」
「んーにっ」
問いかけると否定らしき潰れたような声が返った。プイはサロペットスカートの腹部に付けられたポケットに収まり、頭だけを出して正面をじっと見据えている。探し物の在処を嗅ぎつけるために集中しているのだろうとモニャニヤは考えていた。ポケットの底に押し込んでおいた飴を味わっている可能性もあるが。
五つ目の角に差し掛かったところで、モニャニヤは手にした紙を凝視し、見当が正しいことを再確認した。畳まれた大判の紙はこの街の地図であり、あちこちに朱色の鉛筆で目印がつけられ、その印を辿るように線が引かれている。少女の家を中心とし、時計回りに渦巻きを描く探索ルートだ。昨晩プイを寝かしつけた後、モニャニヤとユェヅィオで頭を捻って考えたものだった。
線と線の間隔はプイの感知能力を考慮して決めている。以前プイが探し物を嗅ぎつけた際に走った距離を割り出し、なるべく漏れ無く街をカバーできるよう考えぬいた。実際の作業効率はどうあれ、モニャニヤの頭の中ではこの渦巻は完成された素晴らしい案だった。
「私も空飛んで探せたら良かったんだけどね、その辺はさっぱりだしなー」
術による飛行や使い魔への騎乗など、空を飛ぶ方法は多々あれど、少女が使いこなせるものは一つもない。僅かな間宙に浮くのが限度で、そのまま軽々と移動するなどまだまだ遠い話だった。既に浮遊の術を使いこなしているクラスメイトもいるが、モニャニヤはその適正に欠けているらしい。
飛ぶことはできない、自転車にも上手く乗れないしそもそも持っていない、という現状では己の足のみが頼りである。少女はぺたぺたと石畳を踏みながらひた歩いた。途中で見知った顔とすれ違い、声をかけられたりしながら。
「あらモニャちゃん、その子見つかったのねえ」
「見つかりました、ありがとうございます!」
共同の風呂でよく会う老婦人が少女の背を見送る。
「おはよう嬢ちゃん、そこのちっちゃいのは弟さんか何かかい?」
「おはようございます違います! ぜっぜん別の種族の友達です!」
八百屋の店主が箱を抱えながら少女の背を見送る。目立つ容姿のせいで多くの人に顔を覚えられており、行く先々で話しかけられては挨拶だけを返して通り過ぎた。自分の親より年上の者、特に年配の女性に捕まると話が長くなってしまうのは今までに身を持って経験していた。今はそんなことをしている場合ではない。
街を歩き続ける中、変化があったのは街中の店がちらほらと開き始めてからだった。プイが唐突にポケットから飛び出し、何かを訴え始めたのだ。
「ぷぃーぷぃぷぃぷぷぷ!」
「もしかして何か見つかった!?」
どこかへ飛んでゆくプイの後を追う。歩き通しで疲れを訴え始めた身体に鞭打って駆けてゆくと、やがて集合住宅と何かの事務所らしき建物が隣り合う地点に辿り着いた。プイはその間の狭い通路に入り、高く浮いたりまた低い場所に戻ったりを繰り返しながら目的のものを探している。モニャニヤもその後を追おうとしたが、なるべく身体を薄っぺらくしようとした努力も空しく、脚の付け根が挟まって先に進めなくなってしまう。二本足の人間が横歩きでどうにか通れそうな幅は、ヅェヅェカの民にはどうにも狭すぎた。
プイは耳を動かしながら通路を念入りに探している。モニャニヤは少しの間その様子を見守り、懸命な様子が可愛らしいと和んでいたが、ふと嫌な予想が脳裏をよぎった。背をぐいと反らして細道から顔を出すと、その予想が杞憂でないことがすぐにわかる。住宅から出てきた住人と思しき女性が、こちらに怪訝な眼差しを向けていた。
「あっ……あの、怪しい者じゃないんです、友達が今落し物を探していて」
隙間に挟まったまま手振りを交えて弁明するが、あまりの説得力の無さに余計に焦ってしまう。どうにか細道から抜け出そうと試みていると、婦人は呆れたように溜息を一つつき、モニャニヤの脇を抱えて脱出を手助けしてくれた。少女の身体はあっけなく隙間を抜け、ざらついた壁が服を擦った痕だけが残った。
「探しもの中なのは解ったけど紛らわしいことをしないでちょうだい、変な生き物が這い出てきたかと思ったじゃない」
「ごめんなさい……」
モニャニヤは素直に頭を下げ、触角をしゅんと項垂れさせた。見慣れぬ形の脚だけが家の陰から飛び出していたら確かに怖いと考えながら。その様子に納得したからか、婦人はそれ以上の追求をすることはなく、買い物袋を肩にかけ直して去っていった。その背中を見送りながら溜息を一つ。プイの手助けをすると意気込んでいたというのに、気が付くと自分のことで手一杯になっている。
(どうして私ってこんなポンコツなんだろうなあ)
しかしその思考を断ち切るように、聞き慣れた声が頭上から降ってきた。
「ぷーい、ぷぃぷぃっ」
見上げた先、逆光を背負ったプイの脚は、赤と白の光を帯びた小さな球体を抱えていた。
「それ……あったんだ、良かったぁ!」
「ぷ! ぷぃっぷぃ!」
先ほどの沈んだ気持ちはどこへやら、モニャニヤは満面の笑みを浮かべて喜んだ。プイもまた浮かれているようで、少女の頬にぴたりと身体を付けて離してを繰り返す。二人はひとしきり喜んだ後、鞄から菓子箱を取り出して小さな球体を収めた。はじめは部屋に置いていこうとしていたものの、プイが自力で持ち出そうとしたので、その希望を汲んで鞄に詰めてきたものだった。並んで微光を放つ三つの光球は、力を合わせてようやく目的を一つ成し遂げた二人と兄に似ているような気がした。
しかしその後の捜索状況は芳しくなく、街をただ歩き続けて時が過ぎた。兄が多めに持たせてくれた小遣いで、大盛りの昼食に加え午後のおやつまで取ってはいたが、日没を待たずして再び空腹を覚えるほどに歩き回っていたらしい。
探し物は残すところたった一つだというのに、その一つがどうやっても見つからない。予定していたルートの八割を歩いた頃には陽が赤らみ始めていた。
「どうしよう、ぜんっぜん見つかんない……」
「ぴぃ……」
「お兄ちゃんだったらちゃんと見つけられたのかな……」
歩きながらついつい弱音を零してしまう。行って来い、と背を押してくれた兄を想うと目に熱いものがこみあげた。ユェヅィオはこの捜索劇に全面的に協力しながらも、自らの仕事の予定に阻まれて当日動くことができずにいた。日が暮れるまでに見つからなかったら諦めて帰って来いよ……と告げる声は優しく、優しいがゆえの凄みがあった。
また心配をかけるわけにはいかない。が、できるなら目的のものを見つけ出してから帰りたい。今が正念場だ、と自らに渇を入れてモニャニヤは歩みを速めた。そのためか、日が暮れる前に希望と巡り会うことができた。
「ぷぃにゅーっ!!」
プイが叫びながらポケットから飛び出す。そして一目散にどこかへ向かって飛んでいった。その嬉しげな声を聞いていると、一日の疲れも吹き飛んでしまいそうだ。
「やった……あったんだね! プイ!」
少女もまた急ぎ足でその後を追った。向かった先に存在したのは、庭先に様々な家具が投棄された廃屋だった。プイは庭先に投げ捨てられている椅子や木箱をまじまじと観察し、剪定されていない木の陰に隠れていたぼろ鍋に目をつけた。お邪魔しまーす、と呟きながら恐る恐る侵入したモニャニヤは、プイが促すままに錆びついた鍋をひっくり返す。鍋の下、草の生えていない地面には、オレンジ色に光る球が転がっていた。
「やったぁーーー!!」
「ぷぃにゅーーー!!」
二人は声を揃え、顔を寄せ合って喜んだ。
現れたのはほんの小さな光だったが、二人の苦労を通して見ることで太陽よりも眩く輝いているように思える。二人はひとしきり喜びを分かち合った後、光をそっと菓子箱に収めた。
「これが、最後の……」
四つの光球を収めた箱が淡く光る。暗くなり始めた世界で、小さな球体がいっそう美しく煌めいて見えた。幼い頃、眠る前に絵本を読んでもらった時に枕元を照らしていた、魔術仕掛けの小さなランプを思い起こさせる。菓子箱はさながら郷愁を詰め込んだ宝石箱のように見えた。
「ぷぃぃ……」
目標を成し遂げて安心したのか、プイはモニャニヤの肩に乗りぺったりと脱力する。疲れきっていたのはモニャニヤもまた同じことで、安堵の息をつくと共にその場にへたり込んでしまった。好き勝手に枝を伸ばした木に背中を預け、力を抜いて一呼吸。少しの沈黙の後、達成感からか、それとも解放感からか、自然と笑みがこぼれた。
「これで一安心だね、今日はぐっすり眠れるよ」
「ぷぃ!」
疲労が身体に重たくのしかかっているが、確かな達成感と混ざり合ったそれはどことなく心地の良いものとなっていた。目を閉じるとそのまま意識が途切れてしまいそうで、眠い目を擦って空を見上げる。雲の少ない空では、せっかちな星がちらほらと輝き始めていた。
「おうちに帰ったらすぐご飯にしよっか。お兄ちゃんが何か作ってくれてるかもしれないし、そうじゃなかったら昨日のトマトで何か簡単な」
モニャニヤは夕焼けの向こうに帰るべき家を見出し、明かりが灯ったダイニングを思い浮かべながらすらすらと語った。しかしその視界をプイが遮る。少女の肩からふわりと浮かび上がった小さな蛸は、疲れのせいかふらついた軌道を描いて木の上まで飛んでいった。
「ねえプイ、どうしたの?」
「ぷいっぷぃぷぃぷいにゅー!」
問いかけに応える声はいつもより饒舌で、言葉が通じなくてもわかるほどに弾んでいる。プイは更に高く浮かび上がった後に急旋回し、せわしなく耳を動かしながらモニャニヤのもとへと戻ってきた。その様子は喜んで尻尾を振る犬に似ていた。
「ぷぃっ、ぷぃぷぃ! にゅ!」
プイは何かを訴えるように鳴きながら、菓子箱を持っていたモニャニヤの手にすがりついた。小さな脚で指を掴み、力いっぱい持ち上げる。
「えっ、ちょっ、ま、どうしたの」
「ぷぃー!」
箱を取り落としてしまい、四つの光球が零れ落ちる。それらは地面を転がることは無く、ひとりでに浮き上がってプイの傍に寄り添った。モニャニヤは引っ張られる動きに任せて右手を掲げる。その瞬間、誰かが呼ぶ声が聞こえたような気がした。
プイの声ではないし、辺りを見回しても誰もいない。暗がりに何かが隠れているのではないかと、触角で風を読んで気配の探知を試みたが手応えはなかった。
「誰……?」
聴覚が捉えているのはプイの鳴き声のみ。しかしそれとは異なる誰かの声が、耳を介さずに直接頭に染み入ってくる。どこかで経験したことのある感覚だ。若干混乱しながらも記憶を手繰ると、それが念話機による通話と似ていることに気がついた。その時と異なっているのは、頭の中に届く言葉が聞きなれない言語であること。全く知らない言葉のはずなのに、不思議とその意図するところは理解できた。
不思議な声は繰り返し告げる。こちらへいらっしゃい、と。
私を呼ぶのは誰なのだろうか。この優しげな声の主を一目見てみたい……そう考えた瞬間、モニャニヤは唐突な浮遊感に包まれた。
「へ?」
踏みしめていた大地から切り離され、自らの体重が消失してしまったような、未知の感覚にただただ困惑する。
プイはモニャニヤの手を引いて高く高く浮かび上がっていった。プイの小さな体が、遥かに重たいはずのモニャニヤを軽々と持ち上げている。信じがたい事実に少女は目を白黒させるが、驚いている間にも身体は宙を泳いで空へと近づいてゆく。離れゆく地面を見ると、ヅェヅェカの森の民である少女が空を見上げたまま立ち尽くしていた。夕陽に照らされたその少女が自分であると気付くまでに少しの間を要した。
「な……ちょっとプイ、どこ行くの!? 私が私を飛んで置いて飛んでっちゃったよ!?」
「ぷーいぷぃっ」
あまりの衝撃に言葉がもつれているモニャニヤに対し、プイは先ほどと変わぬ楽しげな様子を見せ続けていた。その姿から悪意は感じられない。余程浮かれているのか、何かをずっと語り続けている。先ほどから聞こえている謎の呼び声が、赤子をあやす母の声に似ている気がして、不思議とパニックを起こさずにいられた。
二人はそのまま空へ空へと緩やかに飛んでゆく。廃屋とその隣の住宅、街の一区画、そして街の夜景すべて……眼下に広がる景色はどんどん広く、そして建物一つ一つはぐんぐん縮み、現実味と共に豆粒より小さくなってしまった。
夜空の案内人はただ高く上るだけはなく、どこか目的の場所を目指して飛んでいるようだった。途中で綿雲に突入し、つるりとした身体を水浸しにしながらも加速を行う。飛ぶスピードは次第に速まり、雲を突き抜けても水滴を纏わないほどになった。
モニャニヤは身体を置いてきたせいか全く水に濡れていない。空は寒いと聞き及んでいたのに凍えることもない。不思議に思いながら自らの身体を見て、自身が裸になっていること、およびその裸身が透けていることに気が付いた。遠ざかる街に気を取られすぎてこちらには意識が回らなかったようだ。せめて服を取りに行かせてほしいと思ったが、透ける身体に服を纏うにはどうしたら良いのかを思い付けず、訴えを呑み込んだ。
雲をいくつか突き抜けたところで減速が始まり、暫しの飛行の末に二人はようやく動きを止めた。一晩かけて飛んでいたようにも、一瞬の出来事だったようにも思える時間だった。辺りはすっかり暗くなっていた。
「空だ」
「ぷぃ」
「すごい飛んだね」
「ぷぃぷぃ」
モニャニヤは驚きの連続に言葉が枯れ、見たままの光景をぽつぽつと口にするだけとなっている。それでも声に出すことでどうにか事態を理解しようとしていた。手を引かれて空を舞う感覚は思いのほかリアルで、夢を見ているのだと思うことを許してくれない。
プイが少女の手を離しても、透けた身体が真っ逆さまに落ちてゆくことはなかった。恐る恐る脚を踏み出してみても、踏みしめるものがないため歩むことはできないが、行きたい方向を思えばそちらに滑るようにして移動ができた。一見楽なようでいて、ぼうっとしているとどこまでも滑っていってしまいそうな恐ろしさもある。
「ねえプイ、ここって」
少女の問いに対し、小さな案内人は「ぷ」とだけ返してから肩に着地した。
「ぷーぃぷぷぷぷー!!」
そして誰かに訴えかけるように、彼なりのありったけの声をあげた。声はどこまでも広がる夜空の闇に吸い込まれ、そのまま消えてゆくかのように思えた。が、それは確かに相手へと届いたようで。
何もない、ただ闇が広がるのみだったはずの空間が揺らぎ、カーテンを開くようにするすると別の光景を映し出し始めた。被ると透明になれる布が存在するとは聞いていたが、それで巨大な天蓋を作ったらこのようになるのではないか。開かれた世界はまさに夢の中そのものと言った未知の光景が広がっていた。
それは空を泳ぐ魚の群れだった。ただの魚ではなく、鱗と尾びれを持った下半身と、人間に近い上半身を併せ持った半身の魚。色も形も長さも様々な身を優雅にくねらせ、夜の空をゆっくりと泳いでいる。辺りにはプイが集めていたものと同じような光の球が無数に漂っており、二本足の人間とは違う色の肌を照らし出していた。上半身のディテールも皆それぞれ違っている。モニャニヤのような触角を持った者、背中から珊瑚のようなものが生えた者、とげとげの背びれをはためかせている者……皆一様に着衣がなく、男とも女ともつかない華奢で平坦な体つきをしていた。そこに羞恥や恐ろしさは感じない。ただただ美しいとだけ思った。
「わぁ……!」
彼らは感嘆の声をあげるよそ者など気に留める様子もなく、悠々とどこかへ向かって泳ぎ続けている。しかしその間を縫うように飛び出した、水中に棲むものに近い姿をした魚が、いっせいにモニャニヤのもとへと寄ってくる。そしてじゃれつくようにその周囲を回りだした。人魚に似た者たちと比べ、数はずっと少なかったが元気は良い。中には小さな亀やくらげに似た者もいた。プイは彼らと一緒になってモニャニヤの周りを泳ぎ回り、時に身を寄せ合って楽しげな声をあげた。魚が「きゅう」と鳴いたことには今更驚かない。
「この子たち、プイのお友達?」
「ぷっぷぃ!」
「そっかぁ、よかった、本当に良かった……!」
子蛸は少女の問いに答えるかのように魚たちとじゃれあう。この子はやっと仲間の元に帰れたんだ、と思うと胸が熱くなった。プイの幸せを願う気持ちと別れを惜しむ気持ちが混ざり合い、少女の心をちりちりと焦がした。
プイの頭を撫でてやっていると、一つ疑問が浮かんだ。空を泳ぐ人魚と魚、彼らの関係は一体何なのだろうか。共存する異種族か、それとも姿の大きく違う親子なのか。思索しながら群れを眺めていると、その中に一つ、真っ直ぐこちらに向かってくる姿がある。モニャニヤはそのシルエットに目を丸くした。
見覚えがあるようでいて、よくよく見ると知っているものとは違う。モニャニヤと同じ八本の脚を備えてはいたが、それらはやや短く、柔らかく、間に膜が張っていた。腰から上の肌は青白く、他の者と同じく性別を感じさせないしなやかな身体つきをしていた。ウェーブのかかった長い髪がはためき、その付け根からプイのものとよく似た形の耳が生えている。こちらを見据える目は一つの色で構成されており、青い宝石が嵌まり込んでいるようにも見えた。
彼女――実際の性別はわからないが、モニャニヤは女性的な姿だと思った――が近づいてくると、プイは甲高い声をあげながらその胸に飛び込んだ。相手はそれを優しく抱きとめ、微笑みかける。
ああ、と小さく声をあげてしまっていた。この人がプイの親なのだとしたら、少し姿の似ている自分や兄に懐くのも無理はないように思える。見知らぬ種族がひしめく街に迷い込んで、彷徨って、少しでも自分と似た者を見つけたら。その者が手を差し伸べてきたとしたら。ブレザーとブラウスの間に挟まって眠っていたプイを思い出すと、彼と関わることを選んだのは間違いではなかったのだと実感できた。自分は確かに彼の力になれたのだ。
プイの保護者らしき者は、労わるように子蛸を撫でた後、モニャニヤを見てまた微笑んだ。その視線に心の奥底まで見透かされたような気がして、少女は慌てて姿勢を正し頭を下げた。
「あっあの、はじめまして、私モニャニヤって言います。プイが……その子が迷子になってたので、ちょっとうちに泊めてて」
言い直して気付く。ここではもうプイはプイではないのだと。勝手に付けた名前ともそろそろお別れであると知って、胸の奥がちりりと痛んだ。
相手もまたモニャニヤの挨拶に応え、真似をするように頭を下げて見せた。そして音もなく近寄り、少女の手をそっと握る。親蛸の薄い唇が、聞き覚えのない言語で何かを紡いだ。先ほど自分を呼び寄せたあの声で。何と言っているのかは相変わらず解らずじまいだったが、その意図するところは不思議と伝わった。いつの間にか頭に住み着いた翻訳者が、ありがとう、と言っているようだ。
「ううん、お礼を言われるようなことはしてないです。私もこの子と一緒にいられて楽しかったから」
モニャニヤが微笑むと、相手もまたつられて目を細めた。そしてもう一度頭を下げ、野次馬の魚たちを引き連れて、プイを抱えたまま群れのほうへと泳いでゆく。この二週間の記憶が次々と脳裏に蘇り、目の奥が熱くなる。しかし涙は出なかった。もしかすると置いてきた身体が代わりに泣いているのかもしれない。
元気でね、お母さんと仲良くね、もう迷子になっちゃだめだよ……かける言葉を模索するが、どうにも上手く纏まらず、モニャニヤはただ口をぱくぱくとさせた。せめてもと力いっぱい手を振っている間にも、プイを隠した背中はどんどん遠ざかってゆく。もうすぐ群れの中に混ざり、見つけられなくなってしまう。渦巻いた気持ちが沸騰し、喉のつかえを押しのけてようやく溢れ出した。
「待って……プイ、大好きだよーーーっ!!」
たったそれだけの言葉だったが、言いたいことはおおよそ入りきったように思える。忘れないでねだとか、いいことありますようにだとか、そんな気持ちを全て詰め込んで圧縮した結果だった。
声は果てなく広がる闇に溶けすぐに消える。しかしモニャニヤの声に応えるかのように、空を泳ぐ人魚たちの群れよりもずっと眩い光が、見つめていた背中の向こうから溢れ出した。
小さな身体が母の腕から元気良く飛び出す。空の色をしていたはずのその姿は、思わず目を細めてしまうほど眩しく輝いていた。家でほのかに光った時とは比べ物にならない明るさで。
「ぷぃーーーっ!!」
振り向いた親に見守られながら、プイは一直線にこちらに向かってくる。光が膨れ上がり、目を開けていられないほどになる。薄く狭めた視界で、プイの輪郭が膨らみ、細長く、すらりと伸びて……。
「おっきく……なった……?」
光があらかた収まり落ち着きを取り戻した中、モニャニヤの前に浮かんでいたのは、プイの親とよく似た姿をした何者かだった。身体の形状、肌や髪の色、宝石のような目は共通しているが、風になびく柔らかな髪は短く、体は一回り小さい。顔立ちもまだ幼かった。少年とも少女ともつかない体躯のその子供は、そよ風のように微笑んで手を差し伸べる。モニャニヤは目を丸くしながらもその手を取った。青白い肌から、透けた身体では感じ取れないはずの温度が伝わってきた気がした。
「ぷぃ!」
きれいな口元が変わらぬ鳴き声を発するのがおかしくてつい笑ってしまう。プイもまた悪戯っぽく笑って、モニャニヤの手を引いてくるくると回り始めた。ステップもコンタクトもない、小さな子供がするような踊り。なのに何故だか楽しく、可笑しくって、はしゃいだ声をあげてしまっていた。
「もう一回言えてよかった……私、プイのこと、ずっとずーっと大好きだよ」
「ぷぃにゅっ!」
回転を止め、思いの丈を伝えると、今度は回っていた時と逆の方向に身体が引っ張られ始めた。見えない糸で引き寄せられているかのように、自然と身体がプイと密着し、抱きついてしまう形になる。
「あれ……?」
触れ合った部分はとても心地良く、にわかに眠気が襲ってきた。このまま目を閉じてしまいたい。まどろみながらプイと共に空を漂っていたい。ぼんやりとし始めた意識が、宙を泳ぐ心地よさを求めている。眠気に逆らいながらどうにか目を開けると、顔の近くでプイが連れている光の球がふよふよと浮いていた。それらは声なき声で、意思だけをモニャニヤの魂にぶつけてくる。
(かえれ)
(まだはやい)
(おまえちがう)
(かえれ)
四つの光はモニャニヤの仲間入りを歓迎していないようで、落ち着きなく動き回りながら拒絶の意思をぶつけてくる。どうしてだろう、と眠たい頭で考えても答えは出なかった。ただ漠然と、彼らの仲間入りをする自分の姿だけが見えるようで――。
「ぷぃぷぃぷぃーにゅっ」
耳元で張り上げられた声が思考にかかった靄を振り払う。突然肩を掴まれ、揺さぶられ、一気に意識が覚醒した。更にプイは何やら囁いてから目を閉じ、モニャニヤの頬に顔を寄せ、モニャニヤが驚いている間にそっと口付けを落とした。魂に触れる柔らかなキスだった。
「もうっ、くすぐったいよ」
これを教えたのは私だったなあと思い出す。気恥ずかしさよりも、あの時のことを覚えていてくれたという嬉しさが勝り、自然と顔がにやけた。プイもまた笑って、モニャニヤの目をじっと覗き込む。
そして最後に一つだけ小さく鳴いて、力いっぱいモニャニヤの肩を突き飛ばした。
「プイ……?」
空を泳ぐ者たちに吸い寄せられつつあった意識が一気に引き剥がされる。宙に浮いていることができなくなり、モニャニヤのかりそめの身体は急に落下を始めた。見上げた先、どこかへ向かう空人魚の群れが、両端から闇のカーテンで覆われ見えなくなってゆく。最後にその中心、目尻から小さな光の粒を零すプイが隠されて、夜空に広がっていた夢のような光景は完全に消え失せてしまった。手と頬に残る余韻だけを残して。
「って、落ち、おわっ、うぁぁぁぁぁあああああああ!!」
少女の透けた身体は、真下ではなく少し斜めの方向に引き寄せられるように落ちてゆく。雲を突き抜け、加速して街へとまっしぐら。セレストラの夜景が遠く見えたかと思うと、あっという間に目の前へと迫ってくる。
(地面にぶつかったら死ぬよね!? 本体が無いからセーフ? でも落ちてるしやばいよやばいってこれ)
思考が妙に早く回るが答えは導き出せない。眼下に見えたのはモニャニヤが身体を置いてきてしまったあの木ではなかった。もっと中心部に近い、なんとなく見覚えがあるような無いような並びの住宅街が広がって……明かりを漏らす窓の形が視認できるまで近づいた時、そこが自宅の周辺であると気がついた。
上空から見る自宅は、曲がりくねった木が絡みついているおかげで少し不気味に見える。そしてその木を登る小柄な人影があった。片手に木を、もう片方の手にチョコレートの箱を掴んだ、見覚えのある服から八本の脚を覗かせた少女。見間違うはずがない、先ほど木の下に置いてきてしまったモニャニヤの身体そのものだ。自分で歩いて帰ってきたのだろうか。
問題は今まさに自分自身と衝突しようとしていることだった。手足をばたつかせて悪あがきをするがそれで減速できるはずもない。少女は引き寄せられるまま、隕石のように自分に向かって落下し、そして、
「ひぃゃぁぁぁあああああああああーーー!!」
魂で絶叫しながら、頭から自らの背中にぶつかった。
りぃん、りぃん、と甲高い音が涼やかに耳をくすぐる。まどろみの中、それが自室の前に飾っているベルの音色であること、兄が自分を呼んでいることに気がついた。目を開けると辺りは既に明るく、開けっ放しのカーテンから陽光が差し込んでいる。朝、と呟いて、ようやく現状を把握した。寝坊をしたのだ。兄が起こしに来るまで眠り続けていたにも関わらず、疲れが残っているようで身体はだるく脚も痛かった。筋肉痛のようだ。
「そろそろ起きないと遅刻すんぞー、おーい、返事しろモニャーっ」
「あっ、うん、今行く」
跳ね起きてようやく、服が昨日着ていたもののままであること、布団も被らずにベッドに倒れこんでいたことがわかった。床には鞄と菓子箱が転がっている。
「あ……」
慌てて箱を取り出し蓋を開ける。四つの光る球は入っておらず、チョコレートの甘い残り香だけが詰まっていた。プイ、と呟いて部屋を見渡すが、空色の子蛸の気配はない。小さな居候がいなくなっただけなのに、やけに部屋が広く感じられた。
とぼとぼと歩いて部屋の鍵を開けると、自らドアを開けるより先に兄がドアノブを引っ張る。ユェヅィオは朝の挨拶の言葉を途中で詰まらせて、浮かない顔の妹をひたと見つめた。
「飯も食わずに寝ちまって……何があったんだ」
「プイが、プイの家族が迎えに来てね、一緒に帰っていったんだ……たぶんずっと遠い、もう会えないぐらい遠いところに」
「……そうか」
「いいことなのにね、私、わがままなことばっかり考えて……私……」
思いの限りと共に、今まで流せなかった涙が堰を切って溢れ出る。後はもう言葉にならなかった。
ユェヅィオは何らかの事件が原因ではなかったことに安堵しながら、ただ黙って妹を抱きしめた。朝食として何を持たせるか、教師に遅刻をどう謝ろうか、そんなことを取り留めなく考えながら。
その朝、モニャニヤは兄の腕の中、声が枯れるまで泣いた。