「終わりましたよ」
声のほうを向けば、そこには魔導具らしき薄紅色の片眼鏡をかけたレイルズと、机に置かれたクッションに座っている蛸がいる。脚を全て内側に畳んでいる姿は、妙な人間味を醸し出していた。
「何か分かりましたか?」
「ええ、大雑把な事でしたら」
レイルズはこの空飛ぶ蛸の簡単な調査を行っていた。この生き物は生徒に危害を加えるものではない、と彼なりに推察してはいたものの、暫く経っても居座り続けるとなると放置はできない。モニャニヤの家にまでついて行く気らしい未知の生物をそのまま見逃すわけにはいかなかった。
モニャニヤは脚を縮こまらせ、固唾を呑んで教師の言葉に聞き入った。
「何か他のものが化けた姿ではないようですね。人を油断させておいて丸呑みしたり魂を吸い出したりするものでもないはず」
「先生さらっと怖いこと言いますね……」
「生徒の安全のためなら何だって疑いますよ」
そう言って微笑んで見せたレイルズは恐ろしくも頼もしい。いつも穏やかな者ほど敵に回すと厄介だ、と兄が言っていたのを思い出した。
そういえば彼が怒りを露にした姿は見たことがない。もしもこの小さな来訪者が突然牙を剥き、騙された小娘の頭に齧り付いたとしたら、レイルズ先生と言えども鬼の形相を見せるのだろうか……などと考えてしまったモニャニヤの意識は、話の続きによって引き戻された。
「それでですね、どうやら情報生命体に近い性質を持っているようで、ほら」
レイルズが皿からクッキーを一つ取り、蛸の前に差し出した。蛸はそれを数本の脚で掴むと、食べもせずくるくると弄び始める。二人でその様子を暫し観察した後、与えた当人がクッキーを取り上げた。そして、「どうぞ」と告げてそのクッキーをモニャニヤに差し出す。相手の意図が解らぬままではあったが、少女は言われるままにそれを口にし、首を傾げた。
「味が……しない?」
口の中でほろほろと崩れる感触はあるものの、甘さはおろか香ばしさも僅かな塩気も感じない。味を盗まれてしまったかのようながらんどうの菓子は、飲み込むのに若干の苦労を要した。
「味という情報だけを食べているようですね。他にも食べられる情報があるかもしれません、本やノートは触らせないほうが良いでしょう。読めなくされてしまうかも」
レイルズはゆったりと説明を続けながら蛸を掬い上げ、手を傾けて小さな身体を倒させた。当人(当蛸)は「ぷぃ」と小さく鳴いて成すがままに転がる。
そして一本の脚をつまんで引っ張り、脚が作る輪の中心をモニャニヤに見せた。蛸ならば口があるはずの場所には柑橘類のへたを剥いだ痕のような模様があるのみだった。レイルズはその部分を中指でつつく。
「口がほぼ退化しているので、物質の摂取も排泄も行わないようですが、鳴くときにこの辺りが震えるので音を出す器官が付いているのでしょうね。皮膚の色が少し違うので……」
「あの、先生」
淡々と語っているうちに、いつの間にかモニャニヤが俯いてしまっていた。いつもは空を向いている触覚が、しなびた花びらのように垂れている。説明を止めたレイルズに対し、少女はどこか渋い顔をして言いづらそうに訴えた。
「その格好、やめてあげたほうが良いんじゃ……その、かわいそうというか何というか……」
モニャニヤの提言の意図が良く解らず、レイルズは一瞬と呆けたような顔をしたが、すぐにその意味を理解し慌てて蛸をクッションに下ろした。目の前の少女のスカートの下にも八本の脚が生えていることを失念していたのだ。わざわざ蛸の脚を広げて見せたのは、無意識とはいえ嫌がらせに当たってもおかしくはない。いつも平静であったはずの顔からさっと血の気が引いた。
「もっ申し訳ない、とんだ失礼をしてしまいました、どうか謝ら……」
「うちのモニャに何やってんすかおらぁ!!」
謝罪の言葉を遮って怒号が響き、破壊せんばかりの勢いでドアが開かれる。ドアノブが勢い良く壁を叩き、近くの本棚に置かれていた紙束が床に散らばった。
殴り込み、という表現が似合いそうな勢いで突入してきたのは、高等部の生徒であることを意味する青色のリボンを襟元に結わえた男子生徒だった。通学用の鞄を肩から提げたその生徒は、早足で研究室に押し入ってくるが、室内に靴音が響くことはない。素足が床を踏むような音のみがぺたぺたと重なったのみ。
彼はモニャニヤと同じ、関節のない八本の脚を持っていた。肌と髪と目の色も同じだが、短い髪から飛び出た触角だけは異なる姿を見せている。気分をよく反映するその触覚は、主の興奮を如実に表してぴんと天井を向いていた。
「ユェヅィオ君落ち着いて、まず話を聞いてください」
「ええ聞きますとも、でもレイルズ先生が相手でも場合によっちゃ退学覚悟でぶっ飛ばしますからね俺」
「お兄ちゃんやめて、勝手に退学しないでよ!」
モニャニヤが歩み出て二人の間に割って入る。兄であるユェヅィオが冷静さを欠く姿は珍しいが、レイルズが顔を青くする姿は更に珍しいものであり、目にするのは初めてのことだ。助け舟を出さなければと咄嗟に思った。無礼を詫びることと許すこと、そして繰り返さないことによって異文化間・異種族間の交流も大抵はどうにかなる。それは彼女が異種族だらけのこの学校で得た教訓だった。
事情を聞いて不承不承ながらも納得したユェヅィオは、話の発端となった謎の生物をまじまじと観察し始める。蛸は少しの間ユェヅィオをひたと見つめていたが、その後に「ぷぃにゅ」と鳴いてふわりと浮かび、彼の肩に降り立った。
「これ懐かれてんの?」
「たぶん。今のところ私とお兄ちゃん以外に自分から寄っていくところは見てないよ」
「仲間だと思われてんのかな……で、飼うのかこれ」
「うーん、どうしても一緒に暮らしたいって訳じゃないけど、おうちまでついて来たら入れてあげたいなぁ……」
モニャニヤが蛸を指先でつつくと、呼ばれたと思ったのか蛸はまた宙を泳いでモニャニヤの肩に移った。僅かに頬と触れ合った軟体はひんやりとしていて心地が良い。耳をぱたぱたと動かす様子は喜んでいるようにも見えて、懐かれているのなら放り出したくないと思ってしまう。
そんなやりとりをしているうちに、レイルズが新たな客のために中身を継ぎ足した菓子皿を持って割り入ってきた。
「ところでユェヅィオ君、頼んだ物は持ってきてくれましたか?」
「あっ、はい、こいつです」
ユェヅィオが促されて鞄から取り出したものは、何か小さなものを包んだ布だった。結び目を解くと、中から正方形の分厚い硝子板のようなものが現れる。透き通ったその形の側面は角を削られ丸みを帯びていた。安全を考慮してこのような形になったのだと聞いたことがある。
レイルズはその板を受け取り、短いまじないの言葉を唱えて自らの魔力を流し込んだ。板は量産品の映像記録媒体である。僅かばかりの魔力を得た板は、その中に研究室の本棚とは異なるものを映し出した。触手に似た脚と藤色の肌を持つ赤子が、テーブルの脚によじ登ろうとしてはずり落ちて、を幾度となく繰り返す映像だった。
「ふむ、確かに全く似ていませんね……ありがとうございました、それにしても本当に可愛らしい」
「でしょう、俺も疲れたときに見て癒されてるんですよ」
少年は自慢げに頷いている。顔いっぱいに呆れを浮かべた妹は、兄の鞄からノートを一冊取り出し、それを丸めて勢い良く兄の後頭部を叩いた。小気味の良い音がする。
「ちょっとお兄ちゃん! なんでこんなの隠し持ってるの!?」
「なんでって、心の清涼剤に……」
「まあまあモニャニヤさん、これは私がお願いして見せて貰ったんですよ。君たちの子供の時の姿とどこか似ていたりしないかと」
比べる対象は少女の肩に居座る蛸。モニャニヤにやたらと懐いた理由を探るための一手だったが、当ては外れた。今のところその二者は脚の数ぐらいしか共通点がない。
「今日のところはこの辺りにしておきましょうか。大丈夫だとは思いますが、何かあったらすぐ呼んでくださいね。私の家の念話番号を教えますので」
「はいっ、ありがとうございます!」
「あと……一つ、約束してほしいことが」
「何ですか?」
レイルズは声のトーンを落とし、先ほどとは異なる真剣な面持ちで告げた。
「この子が街を離れようとした時には決して追わないこと。ここは本当に様々な世界と繋がっている場所ですから、深追いすると帰れなくなる恐れがありますよ」
空飛ぶ蛸で溢れかえった、家族も友もいない世界で一人生きてゆく自分を想像すると、心臓が縮み上がるような感覚に陥る。少女は師の忠告を真摯に聞き、深く頷いた。
ひとまず調査を打ち切りとし、レイルズの連絡先を控えた紙を持って研究室を出た。兄と二人で帰路に着くのは久しぶりだと思いながら、モニャニヤは弾んだ足取りで街路を歩んでゆく。蛸もまた黙ってその後ろをついて来た。二人が暮らしている家にまで押しかけるつもりらしい。
「ところでね、さっきからずっと考えてたんだけど」
「ど……」
モニャニヤの言葉が自分に向けられたものではないことに気づき、ユェヅィオが出かけた言葉を飲み込む。少女は両手で蛸を掬うように持って話しかけていた。
「呼び名がないのは不便だと思うんだ。ぷいにゅぷいにゅって鳴いてるし、プイって呼んでいいかな?」
「んな短絡的な」
「いいじゃん、お兄ちゃんは黙っててよー」
結局黙っていられなかった兄を一瞥し、また手の上の生き物を見つめる。もう一度「プイ!」と呼んでみると、蛸は手のひらで軽く跳ねた。意図を理解してのことかどうかは怪しいところだが、名前を気に入ったように見えなくもない。その様子にモニャニヤは顔を綻ばせる。
「へへー、改めてよろしくね、プイ!」
プイという名前を得た蛸は、どこか嬉しそうに耳をぱたぱたと動かし続けていた。
モニャニヤは兄と共に小さな貸家に住んでいる。曲がりくねった木が壁と天井の一部を貫いている、この辺りでも珍しい見た目の家だ。
元は芸術家が自宅兼アトリエとして借り受けていたものだが、作品に使う木の種――土に乗せると近くのものに絡みつきながらあっという間に育ってしまう――をいっぺんに落としてしまい、それらが絡み合ってできた巨木にシャワールームと階段を壊されてしまったのだという。
元々古い家だったため、大家も改装をするか諦めて取り壊すかを迷ったが、階段が無くてもいいという学生と出会ったために屋根だけを直して安く貸すことにした。それが寮に代わる新しい住処を探していたユェヅィオだった。
近所の共同の風呂屋から帰ってきたモニャニヤは、着替えを片付けると一旦外に出て、片手と八本の脚を使い木によじ登った。そして吹きさらしとなってしまっている廊下に降り立ち、扉を開ける。二階に二つある部屋のうち、木が少しめり込んでいるほうがモニャニヤの部屋だ。部屋の中にまで伸びている枝は葉を全て摘まれて丸裸となっている。昨年住み始めてすぐは葉をつけていたのだが、虫の卵が付いていたようで毛虫が湧いたので全て切り落とすようになった。今ではすっかりハンガー掛け扱いだ。
「ただいまぁ!」
自室に入ったモニャニヤは、まず木の枝に取り付けてあるフックにポシェットをかけると、その中から小さな紙包みを取り出した。いそいそと開くと、中から小さな白い塊が姿を見せる。
「近所のおばちゃんが飴くれたんだ。プイも食べる?」
「ぷぃ?」
少しだけ窓を開けていたにも関わらず、プイは出歩かず部屋の中で待っていたようだった。身体を休めていたのか、ベッドの上で平たく伸びていたが、部屋の主の帰還に気づいて元の形へと戻った。
モニャニヤが近づいて飴を差し出すと、プイはそれを脚の先で軽くつついてみせた後、一つを器用に掴んで弄び始めた。また味だけを食べているのだろうか。少女もまた飴を一つ口に含みつつ、不思議な客人をまじまじと観察した。短い脚は思いの他器用で、宙に浮きながらでも飴を取り落とさない。その動きはボール遊びでもしているかのようでどこか楽しげだ。
「ぷーい!」
飴は少しの間弄くり回された後に返された。念のためと表面をぺろりと舐めてみると、やはり味がしない。香草の風味がついた清涼感のある飴は彼の味覚に適ったらしい。夕飯の際に小盛りのスープから半分ほどの味を吸ったが、それで足りたのだろうかという心配はあった。机の上に飴を置いておけば、腹が空いたときに舐めてくれるだろう。
「それじゃあ私はお勉強したりしてるから、そこら辺で適当にくつろいでてねー」
眠くなるまで珍客の観察を続けたい気持ちはあったがそうもいられない。モニャニヤは背もたれの無い椅子に被さるように座り、八本の脚をだらりと休ませながら生活魔術の課題に取り掛かった。提出期限は四日後だが、片付けるなら早いほうがいい。
真面目に勉学に励むと誓って故郷を出た以上、できる限り自らの誓いに忠実でありたかった。どうしても行きたかったセレストラ魔術学校は父の母校でもあるため、父の名を知る者には時々遭遇する。その中でも特に親交が深い夫妻が、時々手土産を持ってモニャニヤら兄妹の様子を見に来てくれていた。学生の本分を放り出して遊んでばかりいては彼らにも面目が立たない。
机上に教科書一式を広げ、時々唸りながら術式を組み立ててはチラシの裏紙に書き殴ってゆく。今日出された課題は、身体に負担をかけずに浅く結界を張るための術式の組み換えだ。例えば水害の際に水避けの術で家を守ったとしても、あっという間にばてて結界を切らせてしまっては意味が無い。庭が沈む程度の抜けは許しながらも、一日中術を維持し屋内への浸水を防ぐ……生活魔術とは日常生活やどこでも起こり得る災害の中で使う術を教わる教科であり、モニャニヤが好きな教科の一つであった。血気盛んな生徒はこんなことより早く炎の球や氷の槍の撃ち方を教わりたいとぼやくが、一人前の魔術士になりたいならまず工房を守る方法を身につけるべきだと思う。
術式がある程度纏まったところでノートに転記し、次の問題へ。半分ほどを片付けたところで集中力が途切れたので残りは明日に回すことにした。教科書とノートを閉じ、チラシの裏紙を捨てる。宙を滑ってくずかごに収まった紙に寄り添う小さな姿があった。
「どうしたの?」
プイ、と名を呼ぶ少女の前で、空飛ぶ蛸は紙にぴたりと張り付いて小さく鳴いた。すると紙面を埋め尽くしていた殴り書きの文字がもぞもぞと動き、プイのもとへと吸い寄せられてゆく。本やノートは与えないほうが良いかもしれない――師の言葉が脳裏に蘇る。驚いている間にプイは全ての文字を身体の下に集めてしまった。そして、
「ぴぃー!」
と鳴いて跳びはね、床に転がった。紙にはぎゅっと寄り固まり読めなくなった文字が残っていた。
「ちょっと、大丈夫!?」
悶絶するほど美味しかったのか、それとも不味かったのか。飴を差し出すとすぐに飛びついたため、後者であることが伺えた。下書きだからと悪筆を許していたことも影響したのではと思うものの、とにかくこの調子なら勝手に本の中身を食べられることは無さそうだ。安堵と可笑しさで思わず笑みがこぼれる。本人には申し訳ないが、大慌てで飴を転がす姿は非常に愛くるしかった。
「ねえ、プイってどこから来たのかな」
「ぷぃー」
「これからどうするの?」
「ぷぃぷぃー」
寝巻きに着替え、脚を拭いてから布団に潜ると、プイはそれを追って枕元に転がった。モニャニヤの隣が自らの定位置だとばかりに。たった一日で随分と懐かれたものだと思う。
気になったことを改めて訊いてみるも、少女の問いかけに相槌を打つように耳をぱたぱたと動かすのみだった。
柔らかな空色の身体は、ランプの消えた部屋の暗さに染まり、星も雲も無い夜空の色となっている。少しの間見つめていると、リラックスしている証なのか徐々に輪郭が緩み、最終的にぺしゃんこになって寝入ってしまった。昼間も寝ていたことを考えると、よく眠る生き物なのか。それとも他の種族の中に混ざって行動することで余程疲れたのか……ふと、その小さな姿にかつての自分が重なった。
故郷を出てセレストラ魔術学校に入学してすぐは、異種族ばかりの世界に不安も山積みだった。この地では物珍しい容姿のせいで何かと質問責めにあったり、嫌悪の視線を向けられたりもした。自分が蛸や烏賊や磯巾着ではないこと、水棲の種族ではないことを何度説明しただろう。しかしいくらか時間が経ち、皆の興味が薄れれば、傍には気安く話せる友が残った。どうしても打ち解けられそうに無い者との距離の置き方も学んだ。様々な文化を貪欲に受け容れて呑み込んでしまうセレストラの気質には本当に助けられていると思う。
故郷の近くに住まう二本足の人間たちより、遠く離れた地の住人たちのほうが気安いというのも昔は妙な話だと思っていたが、今ならその理由もわかる。領土や資源をめぐって睨み合い、文化を否定しあった歴史は、セレストラと少女の故郷であるヅェヅェカの間には存在しないのだから。
歴史にしても技術にしても、学べば学ぶほど考えることが増えてしまい自分のちっぽけさが浮き彫りになった。もっと気楽なことを考えようと思い、なるべく心が弾むようなことへと思考をシフトさせる。
最近街で流行っている帽子。明日の食事。文芸部の部誌に載せる作品について。この頃は学校の生徒向けに二本足の人間や獣人が主役の話ばかり書いていたが、八本足でないほうがわかりやすいというだけなら鳥や花の話でも良いのではないだろうか。いっそ生き物ですらないものにしてみるのは? 例えば鉛筆が見た日常、包丁が見た惨劇……。
とめどなく溢れる考えは少女を緩やかに眠りへと誘った。無意識のうちに脚を丸めて、やっと涼しくなった初秋の空気から逃げる。薄手の布団にすっぽりと収まれば、あとはもう朝まで寝こけるしかない心地良さだ。
すぅ、ぴぃ、すぅ、ぴぃ、と二人の寝息が交互に続いていった。