アカシア書房

おやすみ、スターダスト

#08 はなばたけ

 対岸には街も船着き場もなかった。船は河べりにそっと泊まって、私たちはそこから二人だけで進むことになり。船頭さんに礼を告げると、彼は相変わらずのノーリアクションを貫きながら、黙ってまた舟を出した。着いた先でまた客を乗せて河を渡るのだろう。忙しそうで、どこぞの誰かの姿を重ねてしまう。
「行こう」
 そのどこぞの誰かは私の手を引いて先へ先へと進む。待ちきれないといった様子で。私より先に街へと来ていたぶん、相当強く呼ばれているんだと思う。体がこの先へ、私たちが至るべき場所へ向かおうとしていた。
「誰もいない」
「そうだろうね」
 渡し船はいくつも出ていたはずなのに、あたりに人の気配はない。勇気を出して話しかけたら意外にも応えてくれた、寡黙な渡し守の話を思い出した。渡し船で向かう先は人ごとに違っていて、渡る者の数だけ対岸があるのだそう。やっぱり地理だとか距離だとかは通用しない場所みたいだ。
 河原のそばには花畑が広がっていた。街で見かけた花たちが咲き誇り、見渡す限りの大地を白く染め上げている。まっすぐに天を仰いだ花たちは、月の光を浴びようとこぞって背を伸ばしていた。その足元には星屑が落ちているみたいで、やけに明るい。
 迂回路はなさそう。私はエリーに手を取られながら、膝よりも背の高い草むらにそうっと踏み入った。
「お邪魔しまーす」
 伺いを立てた相手は、咲き誇る花たちか、それとも他の何かか。自分でもよくわからないまま、草を踏み倒して歩いてゆく。景観を損ねてしまうことになるけれど、他に道がないのだから仕方ない。私たちは、この先に行かなきゃならない。
 花畑に鳥や虫の声はなく、 みちゆきは静かだった。街のものよりずっと甘ったるい花の香りだけが、生暖かい空気に乗って私たちをとろりと包み込んでいる。ずっとここにいたら鼻が利かなくなってしまいそう。花びらと一緒に砂糖漬けにされているみたいな気分だ。
「歩きづらくない?」
「だいじょうぶ、ほら!」
 説明するよりも見せたほうが早いかなあと思って、小走りで彼の先を行った。街で買ってもらった靴は、踵が高いのに思いのほか歩きやすくて、土の上でも踵だけが沈むことはなかった。何らかの魔術がかかっているのかもしれない。私はその恩恵にあやかって、草の根で固められた地面を駆けてみせる。葉が肌を撫でていくけれど痛みはない。
 勢いに任せて、片足を軸にくるりと回ってみると、ワンピースの裾がふんわりと広がった。それが思いのほか楽しくて、つい何度も繰り返してしまう。真っ白な舞台で踊るように。
「わっ……」
 地面のちょっとした凹凸に足をとられてしまった。でも、よろめいた私の体を支えてくれる手があったから、転んだりはしなくって。助かった……なんて思ったのも束の間、今度はエリーに抱き寄せられる形で引き倒された。尻餅をついた彼を下敷きにして、私たちは白い花に埋もれる。花の香りを胸いっぱいに吸い込む。
「何するの、もー」
「つい」
 あ、この顔懲りてない顔だ。やけに楽しそうな様子が腹立たしいので、こうなったら思いっきり敷物にしてやることにした。彼の片足を跨いで、鎖骨のあたりに顔を押し付ける。愛しい敷物様は優しく私を抱きしめてくれた。
 頭を撫で、髪をすいてくれる手が心地よい。どこまでも静かな世界で、私の髪がさらりと流れる音と、僅かな風に花が揺れる音だけを聞いていた。
 どれくらいそうしていただろう。このまま花畑の一部になってしまいそうだなあ、なんて思い始めたころ、彼は上体を起こして私の名を呼んだ。先ほどの緩んだ顔とは違う、いつになく真剣な眼差しが私を捉えていた。木々の緑を映した水面のような、澄んだ緑を湛えた左目が、私を惹きつけたまま放してくれない。
「ずっと、伝えたかったことがある」
 彼の言葉がすっと耳に染み入る。胸に熱いものがこみ上げて、息を呑んだ。
「……私も」
「そっか」
 言いたかったこと、伝えたかったことは、きっと同じに違いない。彼はそれを察してくれたようで、顔を綻ばせた。
 私たちはどちらからともなく手を取り合って確かめた。これが夢ではないことを。夢みたいなものではあるかもしれないけど、そこに私たちの魂が存在することを。
「もっと早く言えたら良かったんだけどね。口にしたら、頭がおかしくなってしまいそうで」
「……独り占めできないから?」
「ああ」
 やっぱり私たちは同じことを考えていたみたい。同じ臆病者であることが嬉しくって、少し背筋を伸ばして彼の唇を啄んだ。餌をねだる雛鳥のように、言葉の続きを催促する。
 私たちは『アカシア書房』が擁する記者である。その実は、編集長――この組織の主によって生み出された人造生命。自我を持った使い魔。身体の替えを約束された、備品であり消耗品。命じられればどこにだって赴く、情報を集めるための道具。
 使命をこなすために必要なら、想う相手ではない人と肌を重ねることもある。彼が旅先でトラブルに巻き込まれてひどい目に遭っても、私は後でその話を聞くことしかできない。歯がゆさを感じているのはエリーもまた同じ。私たちは、私たちを独占できない。
 なら、この組織から離れてしまえばいいんじゃないか。そう考えることもあったけれど、どうやら私たちは主から離れられないように作られているらしく。自ら書房を去るすべを深く考えると、全身に寒気が走って呼吸が止まりそうになってしまう。目の前が真っ暗になる、魂が凍り付くようなあの感覚は何度も味わいたいものではないし、大切な人にも同じ思いはさせたくない。
「ラビを、僕だけのものにしてしまいたいって、ずっと思ってた。誰の命令にも従わなくていい、危険な場所にももう行かなくていいようにして、それでも何か困ったことがあったら僕がすぐ駆けつけられるようにって」
「うん」
 うなずく。彼の言葉を噛みしめる。
「叶わないことだと思ってた。そのためには書房を抜けなきゃならないし、そうしたら二人とも壊れてしまうわけだし。……でも、まさかこんな抜け道があったなんて」
「抜け道っていうか落とし穴だよね。すごく痛かったし、辛かった」
「……そのことは、今は忘れて。僕だけを見て」
「うん……」
 その通りだ。余計なことは考えなくていいし、思い出さないほうがいい。
 他のすべてを捨て去るために、彼の瞳を深く覗いた。いつもくたびれた目をしている印象があるけれど、間近で見るととてもきれいな、片側だけの翠色。
 ふと思い立って、もう片方の目を隠す眼帯に手を伸ばした。そういえば昨日は最後まで着けっぱなしだったよね。
 とても似合っているそれの下には、隣と同じ色の右目があって、二人でベッドに転がってくつろぐときにだけ見せてくれる。部屋じゃなくても、二人きりで横になれるような場所ならよくて、例えば今このときのような。
 でも、私がずり上げた眼帯の下には、見慣れた目がなかった。半端に、そしていびつにおろされた瞼の下に、ただ暗闇だけが存在している。そこにあるはずの眼球が見当たらない。
 思わず息を呑んで「それ」だとか「あの」だとかとうろたえていると、エリーは私の困惑をよそに微笑みを浮かべたまま、
「バレたかー」
 と、軽いコメントをしてみせた。
「ちょ、バレたかあじゃないよその目どうしたの!? 落としたの!? 痛くない!?」
「痛くはないよ。あと僕もさすがに目玉を落っことしてくるほどのすっとこどっこいではないかな……」
 まったりと答えられてようやく、出血の類がないことに気づいた。
「う、うん。痛くないならまあ……でもどうしたの、奪われた?」
「いや、売った」
 彼は眼帯をもとの位置に戻すと、淡々と顛末を語ってくれた。なんでも、この地で使える通貨を得るために換金してしまったのだという。
 記者として作られた私たちの右の眼窩には、その職務を助ける道具として与えられた、人造の魔眼がはめ込まれている。持ち主が見たもの――厳密には『視認したもの』――を記録する機能をはじめとして、魔力視、軽度の霊視などが備わった便利なものが。
 取材先の住人たちと同じ視点でものを見るため、視る力をあえて抑えることもある。私は目薬で、エリーは眼帯で。彼はその状態のほうが落ち着くようで、必要なとき以外はずっと魔眼を隠していて……だから私は、今の今まで気がつかなかった。
 魔眼は私たちの取材の成果が詰まったものであり、蓄えられたデータは私たちが知りうる程度の機密情報も含んでいる。だから本来なら売り飛ばすなんてもっての他なんだけれど。売った眼がこの地から出ることはないだろうし、この地にまで私たちを罰しにくる者もいないので、まあいいやということにする。
「思いのほか高く売れてね。おかげで渡し守に払うぶんも余裕で確保できたよ。無一文だとひたすら後回しにされて、最終的に待てなくなって河に飛び込んで溺れるらしい」
「なにそれ怖い」
 エリーが河の藻屑にならなくてよかった。想像するだけで肝が冷えてしまう。
「まあとにかく、服を買った金もそうやって作ったんだ。……あの店は本当に寄ってみてよかった」
 彼の視線が私の胸元に移る。次は花飾りをあしらった髪に、そして美しく波打つスカートへ。しなやかな指が鎖骨をそっと撫であげてゆく。私が今ここにいることを噛みしめるように。
「僕が今まであちこちで見てきた中でさ、一番好きなタイプの花嫁衣装が、だいたいこんな感じ」
「うん……私もそういうの好きだからこれにしたんだ」
 嬉しくないはずがない。あの時のエリーが、「私が」「エリーのために」「花嫁衣装を着た」ことに喜んでくれていたんだから。思い出すと顔がにやけてしまって元に戻らない。どうしよう。
 彼はそんな私の手をそっと握り直して、きれいだよ、と改めて口にしてくれた。そして、ぐっと顔を近づけて、あの言葉を口にする。
「ラビ」
 私たちがそれぞれ抱えていながら、今の今まではめ込むことのできなかった一ピースを。
「君を、愛している」
 その一言は、私の心にかちりと収まった。
 ようやく完成したかたちを確かめるために、彼は言葉を続ける。ひとつひとつ、喉に長いことつかえていたものを吐き出すように。
「君を僕だけのものにしたいし、君だけの僕になりたい。他の誰にも触らせない。僕だけを見ていてほしい。……今なら、叶うはずだ」
「んっ……うん、わたっ、私も」
 絞り出した声はひどく震えていた。渦巻いた気持ちが体の中で暴れ回って、涙となってとめどなく溢れ出してくる。我慢できそうにない。できるはずがない。
「エリーのことが好き、大好き、愛してる……どうしようもないぐらい好きなの、私……ずっと言いたくて私、ひぐっ、ずっと、エリーのそばにいたいよ……!!」
 どうにか想いを口にするものの、気持ちの昂りが邪魔をして、不揃いで不格好な言葉ばかりが出てくる。ロマンチックな返事なんて用意できなかった。ずっと言いたかったことがぼろぼろとこぼれ落ちるのをただ見送るばかり。
 それでも愛しの彼は嬉しそうに、左目の目尻に涙を少しだけ浮かべて、私の気持ちを拾い上げてくれる。繋いだ手に力をこめて、頷いて。そして苦しいぐらいに強く私を抱きしめて、耳元で囁いてくれた。私が何度も訊いて確かめたことをもう一度。
「ああ、ずっと一緒だ」
 優しい声がすうっと体中に染み渡る。抱き合うことなんてすっかり慣れているはずなのに、いつもよりずっと心地よくって、体も心もとろけてしまいそう。
 私は濡れた目を閉じて、自分の嗚咽に邪魔されながら、彼の声にただ聴き入っていた。
「もう離さない」

「最期の瞬間まで、絶対に」