顔をすっぽり隠すように深くフードを被っていて、表情はおろか私たちと同じパーツが並んでいるのかすら窺い知れない。人間って言葉の定義は地域ごとにてんでばらばらだから、どんな姿をしていようと本人が人間だと言えば人間なんだろうけど、彼(彼女?)はそれすらも語ってくれそうになかった。
「四九」
と、枯れた声で告げたのが一言め。二人で乗りたいんですが、とエリーが告げると、「九八」と言い直して、それっきり。言い渡された数値はどうやら船賃の額だったようで、エリーがポケットから取り出した硬貨で手早く支払ってくれた。
木製の小舟は、私たちが乗り込むとすぐに動きはじめた。帆も櫂もエンジン音もないのに、舟は渡し守が見ているほうに向かってゆっくりと進んでゆく。魔力か何かで操っているのかなあ、と目を凝らしたけれど、それっぽい跡が多すぎて目がちかちかしだしたのでやめた。この街は怖いぐらい不思議な力に満ちている。
「ね、エリー」
船首近くに座る渡し守の気を散らさないよう、小さな声で話しかけた。エリーはそれを聞き逃すまいと身を寄せてくれる。
「もし一緒に乗れないって言われたら、どうするつもりだったの?」
私たちの前に並んでいた人たちは、みんな一人で舟に乗り込んで河を渡っていった。もしかして私たちも別々に乗るの? という可能性に気づいたのは、順番が回ってくる直前。デート中だからっていくらなんでも浮かれすぎだと思う、このラビィステフとかいう娘。
「そんなことはないって知ってたさ。何人かで纏まって乗っていった例は何度か見たし。……でも」
そうだな……と続けて、彼はさらりと教えてれた。私が求めていたほうの答えを。
「何らかの理由でダメだったら、一旦街中に戻って考え直すかな。もう一泊しつつ……って感じで」
「そっかあ」
その場合はここでお別れ、なんて言われるはずがないとは思っていたけど、口に出してもらうことでいっそう安心することができた。面倒くさいやつでごめんね。でも、このくらいならまだまだ許容範囲内だよね。
昨晩(昼も夜もない街だけど、お布団を被っていたときが夜だということにする)のエリーの様子を思い出す。私よりずっと早くこの街に着いていたんだから、より強く河の向こうに呼ばれているはずなんだ。
この『呼ばれる』感覚は、街を訪れた者たちが必ず負う枷のようなもので、私たちの力でどうにかできるものじゃない。私のためにまだまだ耐えてだなんてわがままは言いたくないから、二人で舟に乗れて本当によかった。
別々に河を渡った場合、着いた先で合流できる保障はない。ただ待っていれば次の人が来る、というあたりまえの仕組みではないらしい。ということを、立ち寄った店で聞いていた。
どうしてだろう。エリーに尋ねてみる。
「対岸は異世界のようなものになってるらしい……から、空間が捻れてるのかも」
「セレストラの迷宮の店みたいな感じなのかな」
「あれは店の棚自体が毎晩動いてるんじゃなかったっけ」
「じゃあモルトロの大神殿」
「あー、そんな感じのイメージ……あそこもうやだ絶対行きたくない」
ここではない場所の話をしながら、私たちがアカシア書房の記者として過ごしてきた日々をなぞってゆく。一緒に行った場所もあれば、各々の取材のためにばらばらに訪れた場所もある。自分で行ったことはないけれど、相手の書いた記事を読んで知ったというところも。
心躍るような街に行けばその楽しさを教えて分けあい、過酷な土地を歩めばその辛さを教えて慰めてもらった。彼には言いたくないタイプの苦労もあったから、その時は同僚であり女友達でもある子たちに聞いてもらったりしたけど。
河の流れはゆるやかで、水が奏でる音は私たちの語らいを遮らない。ずっとこのまま舟に揺られていてもいいなあ、なんてぼんやりと思ってしまった。
気がつくと街の灯は遥か向こうへ遠ざかっていた。船着き場の街灯が麦よりも小さな粒になっていて、今では月明かりのほうがずっと頼もしい。二つの月は水面に分身をこしらえて、河の流れに逆らうように揺れ続けている。
「あ……ラビ、河の水」
「水?」
「よく見てみて」
促されるままに、河面をじいっと見つめてみる。悠々と流れる水は、船着き場から見たときよりも鮮やかに煌めいていた。と思う。少しずつ変わっていったから気付かなかったんだ。少し光っているなあ、という程度だった河の水は、いつのまにか虹を粉にしてばらまいたかのような輝きを纏っていた。
「きれい……」
「ああ、横顔がよく映える」
君のほうがきれいだよ、なんて安易なことを言わないところがエリーらしくて好き。
「えへへ、ありがと」
水面ではなく私を観察していたらしい彼のために、耳にかかっていた髪をかきあげて、河面のほうを向いたまま流し目をしてみせた。可愛らしくきまってるといいなあ。楽しそうなエリーの顔を見るに、たぶん成功はしている。やったね。
できることならもっと甘ったるいことを言いたかったんだけど、渡し守の人をいらつかせるかもしれないと思ったので、控えめにしておいた。この続きは対岸に着いてからということにして。
舟は悠々と進んでゆく。
復路は、ない。