アカシア書房

ファンタスティック・ワーキング

#03 蝋紙の誘惑

 現地で調達した帽子がとにかく役に立った。今日は先日と打って変わって陽射しが強く、この麦で編んだ帽子がなければ釣りを断念していただろう。
 僕は広い湖を臨む岩場で、持参した木箱に座り、買ったばかりの安物の釣り竿を傾けていた。朝早くからこの場所を陣取っているものの成果は芳しくなく、釣り上げたのは小物をいくつかのみ。成果らしい成果をあげられないでいるうちに陽は高く昇ってしまっていた。
 陽光が肌を焼き、滲んだ汗が袖なしの簡素な服を湿らせてゆく。釣りなど投げ出して湖に飛び込んでしまいたいと思い始めていた。穏やかに揺れる水面は僕を誘っているようだった。

 僕は記者である。世界を渡り歩き、様々な短期の仕事を請け負ってその体験記を書くことを使命としている。
 先日から始めたばかりのこの仕事は誰かに雇われてのものではない。自らの都合にあわせて獲物を獲り、それを欲している機関に売りつけるというもので、暇とやる気さえあれば誰にでもできるものだ。狩りを専門としている者も居るが、普段の仕事の合間に副業として獲っている者のほうが多いと聞いていた。
 先日は網がついた棒を片手に野山を駆けずり回ったが成果は芳しくなかった。水中にいるものを狙えば多少勝手が違うだろうと思い今日は釣りに挑戦してみたものの、今のところ先日獲れた数の四分の一も達していない。そもそも今まで大漁と言えるほど魚が釣れたこともないのにどうして稼げる気になっていたのだろう。根拠の無い自信に背を押されてやる気になっていた自分が恥ずかしい。
 もう少し続けてみて何も釣れなかったら諦めよう。そう決めて竿を勢い良く振り直す。自主的にものを集めて売り渡すだけの仕事だと思うととにかく気楽だった。稼ぎが少ないのは辛いが蓄えがあるので生活に困ることはない。たまには自分のペースでゆったりと仕事をしたって罰は当たらないはずだ。

 切り上げ時を見定められないでいるうちに、現地の者らしき男が釣具を持って岩場へと現れた。伸ばしっぱなしの髭と大柄な体が印象的な熊のような男だ。
 彼はよそ者である僕を邪険にすることもなく笑顔を見せ、少し離れたところに荷物と小さな椅子を置いて釣りの用意を始めた。目的は同じらしい。
「よう兄ちゃん、調子はどうだい?」
「さっぱりです」
「そうか、頑張れよー」
 僕は苦笑するしかなかった。手を振られてからは互いに黙り込み、暫く無言が続いた。
 こちらの釣り糸がぴくりとも動かない中、男は小物を数回釣り上げていた。一連の動作は手馴れたもので、僕はその技を盗むべくちらちらと彼の姿を覗き見た。とは言っても二人の間に遮蔽物など無いためただ横目で凝視するほかはない。そんなことをしていては注目していることが筒抜けなわけで、時々目が合ってしまい得意げな顔をされた。爽やか過ぎて少し癪だ。
 虚しい気分を噛み締めながら、僕は一度釣り餌の状態を確かめるべく糸を手繰り寄せた。糸の先に括り付けた金属製のクリップは先ほどと変わらぬ姿で揺れている。しっかりと挟み込んでいる蝋引き紙の紙片にも変調は無かった。餌としての役目は果たしているはずだ。
「ん……兄ちゃん、その紙」
「はい?」
 不意に声をかけられて振り向くと、男もまた糸を引き揚げて釣り餌を弄っていた。しかし良く見ると僕が用意していたものとは少し異なっている。彼がクリップから外して見せてきた紙は数回折り畳まれたものだった。
「何回か折って付けたほうが良いぞ。あいつらは紙と紙の間に潜り込むのが好きなんだ」
「なるほど……」
 黒いものがするすると紙片に群がるイメージが浮かぶ。僕は礼を言って彼の助言に倣った。小さく切る前の蝋引き紙を荷物から取り出し、八つに折り畳んでクリップに取り付ける。適度に力を入れて竿を振ると、ぽちゃん、と音を立ててクリップが水中に消えた。男の言葉が確かなら効率はもう少し上がりそうだ。

 引きが来たのはそう長くない時間が経ってからだった。水面を眺めてまどろみかけていた僕の手の中で釣竿が突然暴れ始めた。慌てて釣竿を強く握って力を込めるが手応えはかなりのもので、釣り上げるどころか逆に水の中に引きずり込まれてしまいそうだ。踏ん張った足がじりじりと湖へと引き寄せられ、焦りが募る。大物を逃がしたくは無かった。
「すいません! 手伝って貰えますか!」
「任せろ!」
 ちっぽけなプライドを蹴り飛ばして先ほどの男に助けを求める。彼も元よりそのつもりだったようで、すぐに僕の元へと駆けつけてくれた。二人がかりで力いっぱい釣竿を振り上げ、ようやく獲物が水中から引きずり出された。
 豪快な水飛沫をあげて飛び出したのは、僕の半分ほどは背丈がありそうな真っ黒な影。魚とは到底似つかない、無数の黒い紐を垂らしたような姿は、巨大なクラゲか海草の塊に近い。宙へと舞い上げられたそれが、傾きつつある太陽を背にしたとき、漆黒の身のそこかしこから陽の光が透けて煌いた。
 黒い塊はそのまま勢い良く岩場に叩きつけられ、紐に似たパーツを岩の上に広げた。しかし痛めつけられ弱った様子は無く、散らばった部分がまだ釣り糸の先に付いている紙片へと一斉に群がる。
 触手のようにするすると伸ばされているのは、書き込まれるべき媒体を失った文字が連なったもの。文章がかりそめの命を得て蠢いている。黒い塊の正体は野生化した文章の集合体であり、時に本にして数冊分のものが寄り集まっていると聞いたが実際に見たのは初めてだった。
 文字は我先にと蝋引き紙の上をのたうつが、つるつるとした表面をいたずらに滑るばかり。
 僕は釣竿を置き、荷物から取り出した本を開いて詰め寄った。そして岩の上で魚のように跳ね続ける黒いものを鷲掴みにして、何度か振って水滴を落とし、触れている感触がほとんど無い不思議な塊を本へと押し付けた。白紙のページに文字たちがすうっと吸い込まれ、がたつきながらもおおよそ本らしい体裁を取ってずらりと並んだ。
 取っ掛かりを作ってしまえばあとは楽なもので、見開きを埋め尽くした文字達は自ら紙を捲って次のページに潜り込んでゆく。一度は逃げ出したと言ってもやはり文字は文字であり紙が恋しいらしい。
 しかし量の多さゆえに一冊には収まりきらず、最後のページを埋め尽くしてなお半分ぐらいの文字の塊が残っている。僕は裏表紙の上を右往左往していた文章を手でちぎり本から引き剥がした。手の中で暴れる生きた文字には申し訳無いが、これ以上詰め込んでは字が重なって読めなくなる部分が出てしまう。
「さっきはありがとうございました、これどうぞ」
「もういいのか?」
「釣れたのは貴方のおかげですし、入れ物も一冊しか持って来なかったので」
「おう、じゃあ遠慮なく貰っとくぜ」
 掴んでいた文を差し出すと、男は喜んでそれを自前の本へとしまい込み始めた。
「礼と言っちゃなんだが飯でも食っていかねえか? 自慢なんだがうちのカミさんの飯は美味いぞ、しかも今日鹿肉が手に入ったばかりでシチューにすると言ってた」
「あ……じゃあお言葉に甘えて」
 唾を呑んで頷き、年季の入った様子の本が黒いもので埋め尽くされてゆく様子を見つめていた。じっくりと観察すると思っていた以上に面白い。
 情報や物語を素手で掴む機会があるだなんて今まで想像もしていなかった事だ。本に詰めた文字たちはこの国の図書館が買い取ってくれることになっていた。何でも昔に事故で蔵書の中身が全て逃げ出してしまい、今国をあげて集めているそうだ。一般人任せでシステムが回っているのはこの国が平和な証だろう。
 先ほど二つに千切ってしまった文のそれぞれも、買い取られた先で再会できると良いのだけれど。
 文を握っていた手を開くと、濡れた手のひらからインクの匂いが香った。

(職歴三〇〇・文追い屋)