ジギタリス・ガーランド

ジギタリス・ガーランド

#05

 静かな暗闇の中から、ゆっくりと引き揚げられてゆくようだった。
 視界を満たしたのは見慣れた天井。半身を起こしたところで、ジギタリスは寝巻きに着替えぬまま眠っていたことに気が付いた。あまり疲れは取れていないが、不貞寝が功を奏してか気分は落ち着いている。
 そして空っぽになっていた頭に、甲高い声が押し入ってくる。壁を隔てた先、玄関のほうから聞こえてくる声には聞き覚えがあった。何かを必死に訴えかけているようだが、内容までは詳しく聞き取れない。少女は静かに靴を履き、来客の元へと赴いた。
 玄関を覗き込めば、意外な人物が立ち話にのめり込んでいる。応対する両親に何かを語っていたのは、あの嫌味ったれのアコナイトだった。しかしその表情は硬く、腐れ縁であるジギタリスも見たことがないほどに緊張していた。
「と、とにかくあいつは危険です! 早くみんなに伝えないと、いつ本性を現すか……!!」
「落ち着いてくれ、私から村の者に事情を話して来よう。君はうちで少し休んで行きなさい。君の家の者には私から話しておく、あとは大人に任せるんだ」
 父にたしなめられ、アコナイトは力一杯頷いた。僅かだが安堵の息を漏らしたようにも見える。
「何しに来たのよアコ、あまり騒いだらアドニスが起きちゃうじゃ……」
 話が一旦落ち着いたと見て、ジギタリスが玄関に踏みいると、来客は眼を大きく見開いて駆け寄ってきた。そして勢い良く肩に掴みかかり、まくし立てる。
「ジグ、大丈夫!? 具合悪くない!? 変なことされたり、呪いかけられてたりしない!?」
「ちょっと、何のこと!? さっぱり訳がわからないんだけど……」
 呆気に取られるジギタリスを見て、アコナイトは「良かった……」と呟き手の力を抜いた。そして一呼吸の間を置き、にわかには信じ難い話を始めたのだった。
「私、見ちゃったのよ……あんたが世話してるあの変な男、お腹の中に虫を飼う化物なの!!」
「……は?」
 思わず少女は首を傾げる。しかし語り手の眼は至って真面目なもので、服を掴む手は震えていた。突飛すぎる話ではあるが、作り話を風潮しているような様子ではない。
「アコ、頭でも打った?」
「違うわよ!! その、ええと……たまたま見ちゃったのよ、鍵穴から……」
「……へぇ」
 たまたま余所の家の鍵穴を覗いてしまううっかり者がどこに居ると言うのだろう。おおかた私を貶す口実が欲しくて覗き見したんだろう、とは思ったが、今はひとまず話を最後まで聞いてやることにした。締めるのは彼女が落ち着いてからでいい。
「あいつ、あなたが差し入れた芋虫をお腹の傷にどんどん入れていって……それで……」
「傷? 確かにそれらしいのはあったけど……」
 男を土の中から助け出したときのことを思い出す。確かに腹部に十字型の大きな傷跡はあったが、完全に塞がっているものだったはずだ。仮に実は治りきっていないものだったとしても、何か異物を入れることなど痛くてできやしないだろう。
 しかし、アコナイトの言葉を疑いきれない自分がいることも確かだった。思えばエルフィンは生きた虫ばかり欲しがるものの、それを口にしているところを見たことはない。ジギタリスが席を外した間にぺろりと籠いっぱいの虫を平らげてしまっているのだ。人前で食事を摂らない理由が、その奇怪な行動を隠すためだとしたら納得がいってしまう。
「その後ね、自分で指を噛んで、カップの水に血を混ぜて、それで落ちてた布に何か書き始めたの……時々にやって笑いながら……! あれ、何か呪いでもかけようとしているのよ! 絶対そう! だから私、こっそり大婆様を連れて逃げてきたの!!」
 肩を掴んでいた手に力が籠もる。はいそうですかと信じられる話ではないが、アコナイトは確かに語った通りに見える何かを見たのだろう。
 そんな訳があるか、と言ってしまいたい気持ちを抑え、ジギタリスは震える客人を抱きしめた。青い髪の少女は、言葉もなく少女の首筋に顔を埋める。いつもは嫌味ばかり言っている腐れ縁だが、こうも弱っていると突き放す気にはなれない。目の敵である自分の身を案じてくれた、と言う少女にとっては驚きの事実を噛みしめながら、すっかり頼りないものになってしまった背を優しくさすった。
「ジグ、お前も家にいなさい。絶対に外に出るんじゃないぞ、わかったな」
 そう強く言い残し、父は外へと出て行ってしまった。村内で事件が起こった際、大人たちはすぐに集まり話し合いをすることとなっている。おそらくは周囲の家に事情を伝えて回り、村長の家に集まって対策を講じるのだろう。
 飛び出していってしまった父の代わりに、継母が二人へ優しく声をかけた。戸惑いを押し殺し、平静を努めながら。
「二人とも、立ちっぱなしも何だからこっちで休みなさいな。今お茶を煎れてあげるから、温まって落ち着きましょうね」
 ふわりと微笑み、継母は二人をダイニング兼客間へと招き入れた。娘はそれに従い、かまどに火を起こしはじめた母の代わりに客人を椅子に座らせる。静まり返った室内に、薪の燃える音が小さく響き始めた。
 しかしジギタリス自身は椅子に腰掛けることなく、水瓶から小鍋へと水を汲む保護者の様子を見つめていた。
「……ね、お母さん」
「なあに?」
「部屋に戻ってる。お茶用意してくれてるのにごめん……ちょっと、一人にさせてくれないかな……」
 告げる声は、普段の彼女からは想像もできないほどに弱々しかった。少女の曇った顔に、母も悪友も押し黙ってしまう。重い空気が部屋を包んだ。
「……わかったわ。喉が乾いたら戻っておいでね、すぐにお茶を汲んであげるから」
「うん、ありがとう」
 どこか悲しげに微笑んで、ジギタリスはダイニングを後にした。
 自らを気遣う視線が背中に刺さるのをひしひしと感じながら。

 しかし部屋に戻ると言っておきながら、ジギタリスは異なる部屋に足を踏み入れていた。ダイニングと自室の間、少女の部屋の倍ほどの広さのある両親の寝室だ。綺麗に片づけられた部屋には寝台が二つ並び、その隣に頑丈な枯れ草で編まれた揺りかごが置かれている。静かに近づいて覗きこんだ中では、ジギタリスの腹違いの妹、アドニスがすやすやと寝息を立てていた。そのか弱く小さな姿は、見る者全ての心を和ませる愛らしさがある。
「……ごめんね、ちょっとお姉ちゃんのわがままに付き合ってね」
 穏やかな寝顔に囁きかけて、少女は妹の頬をつついた。極上の柔らかさを持つ頬を指先で弄んでいるうち、安らかだった寝顔が歪みはじめ、唇がもごもごと動かされる。罪悪感を感じながらもいたずらを続けるうち、ついに赤子は目を覚まし泣き出してしまった。
 ごめんね、ともう一度呟き、ジギタリスは急いで部屋を出た。そして自らの部屋に逃げ込み、扉を閉じて聞き耳を立てる。赤子の泣き声に混じり聞こえてきたのは、慌ただしい足音と娘をあやす母の声。妹はダイニングへ抱いて行かれたようで、泣き声は廊下に響きわたってから遠のいていった。
「……よし」
 少女は片手で自らの頬を叩く。先ほど必死に作った表情を追い払うために。実のところ茶も喉を通らないほど落ち込んでいたわけではなく、ただ一人になるための芝居を打っていただけに過ぎなかった。
 母を騙したうえに仕事を増やしてしまったことは申し訳ないが、そうしてでもやらなければならないことがあった。
 直にエルフィンに会い、真相を確かめればならない。本当にアコナイトの言うようなおかしな体を持っているのか、そしてそれが村に害をもたらすものなのかを。特に後者は自ら確かめなければならないと思っていた。何度も向けてくれたあの優しい笑顔を信じたかったゆえに。
 妹の泣きわめく声を遠巻きに聞きながら、ジギタリスは窓にかけられた簾を巻き上げ、はめ込まれている格子に手をかけた。硝子も紙も貼られていない簡素な窓だが、身体を通すには鉄製の格子を外さなければならない。小指よりも細いが素手では敵わないそれを壊すべく、少女は手頃な武器を探した。
 目に留まったのは同じく鉄製の小振りな椅子。それを細腕でかつぎ上げ、勢い良く格子へと叩きつける。親に知られたなら当然雷が落ちるだろうが、今はそんなことを気にしている場合ではない。傷の痛みにも目を瞑った。
「ふっ!!」
 数回にわたって痛めつければ、格子はあっけなく歪み、枠ごと窓から外れてくれた。音を立ててしまったが、そこは妹の泣き声がかき消してくれているはずだ。貧相な造りの家に今だけは感謝しつつ、少女は静かに窓から飛び出した。

 夜中であること、そして緊急事態だと言うことも相まって、村の通りには一つも人影がなかった。男たちは既に村長の家に集まり、その他の者は家の中で様子を見ているのだろう。おかげで何ともいえぬ不気味さが醸し出されているが、密かに道を駆け抜けるには都合が良かった。
 誰かに見つかったらどうしよう、と緊急時の言い訳を考えながら、ジギタリスは無人の道を駆けてゆく。目指すは村の端、大婆様の家の離れだ。
 そして中央広場に差し掛かる手前で少女は足を止めた。広場に近い大きな家は村長の屋敷だ。話し合いをしている大人たちに気づかれぬよう、少女は塀に身体を隠しながら忍び足で屋敷の前を通過した。
 気づかれはしなかったが、塀を越えて聞こえてくる不穏な言葉が少女の心を揺さぶる。
 まずは拘束して事実の確認を。本当に化物だったなら早々に手を打たなければ。様子を見て処遇を決めよう。いや生かしておくわけにはいかない……様々な声が飛び交う中に、不穏な主張が少なからず混ざっていた。
 ――もしかすると、彼は殺されてしまうかもしれない。
 背筋に身を震わせるほどの怖気が走った。エルフィンの得体の知れなさも不気味ではあるが、それ以上に異物を激しく拒絶する村人の声が恐ろしい。未知への恐怖に苛まれた叫びは、茨となって少女の胸にきつく絡みついた。
(早く、なんとかしないと……!)
 少女は無人の広場を駆けてゆく。目的の場所は、近い。

「エル! ちょっと話聞かせなさい!!」
 息を切らせて飛び込んできた来訪者に、エルフィンは目を丸くした。
 男は椅子に腰掛けたまま、こんな夜中にどうして、とでも言いたげな顔で少女を見つめている。その身体の正面、寝台には棚に敷いてあったものと思しき大布が広げられていた。アコナイトの言っていた通り、薄赤色で何かが描かれたものが。
「確かめたいことがあるの」
 ジギタリスは大股でずかずかと男に近寄り、その服に掴みかかる。驚きおののくばかりの情けない顔を見れば、先ほどまで抱いていた距離感や恐怖など忘れてしまった。相容れない血なのではないか、なんて難しいことを考えている場合ではなくなっている。
「□□!? □□□□!?」
「いいからお腹見せて!!」
 強気に出ることができないまま、エルフィンは地面へと押し倒された。掠れ声で何かを訴える男を押さえつけ、少女は容赦なく着衣をはぎ取ってゆく。ケープを放り投げ、ローブのボタンを強引に外してはだけさせれば、記憶に新しい大きな傷跡が露わになった。腹をバツの字に切り裂いたような痕は、痛々しくはあるがやはり完全に塞がっているように見える。村の男に身体を洗われる間も、この傷跡だけは触らせぬよう死守していたらしい。
「□、□□□、□□□□□□!!」
 エルフィンは拒絶の訴えらしき声を上げるが、小娘はそれを容赦なく突っぱねた。ジギタリスは男にのし掛かったまま、傷跡をなぞろうと強引に手を突き出す。そして爛れた皮膚に手が触れた瞬間、異変は起こった。
「え……?」
 肌に触れたはずの手が、その先まで勢い良く進んでいった。男の皮膚の下、身体の内側に、少女の腕がずぶりと沈んでしまったのだ。
「なに……これ、どうなってる、の」
 しかし皮や肉を引き裂いたような感覚は無い。腕に纏わりつくのは、ぬるま湯に手を浸したかのような感触だ。そして男の痩せた腹部よりも長いものを突っ込んでしまったにも関わらず、背中に触れるような感覚は無かった。男の傷跡の先に、腹の容積を超える空間が広がっているようだった。
 そして背を突かぬ代わりに、少女の指先に何か温かいものが触れた。土のような感触と、水を入れた皮袋のように柔らかい何か。勢い余って内臓に触れてしまったのではないか、そう瞬時に思い至った少女は大慌てで手を引き抜いた。
 ジギタリスは息を呑んで己の右手を凝視する。白い手に血は付いていなかったが、常識ではありえないものが指先に纏わりついていた。
 土と虫だ。それも少女が毎日ざる一杯に集めて与えていたあの芋虫だ。
「本当、だったんだ……」
 恐怖に引きつった悪友の顔が脳裏に浮かぶ。彼女の訴えは正しかった。何のためにしているのか、どうやったらそんな芸当ができるのかはわからないが、確かにエルフィンは腹に虫を飼う人間離れした何かだったのだ。
 腹を探られている間、当人は怯える子猫のように震えて成すがままにされていた。しかし強引な取り調べが終わり、ジギタリスが困惑を顔に張り付けたままうろたえていると、唐突に何かを囁いてきた。
「……□□□、□□□□□□□□□」
 耳を舐めるような低く重たい響きに、少女は身体を強ばらせる。気づけば先ほどまで怯えきっていた男の目が、初めて見る鋭い意志を宿していた。
 息が詰まる。嫌な汗が止まらない。蘇り膨れ上がった恐怖で身体が硬直し、背に冷たい鉄の棒を差し込まれたような、未知の感覚が少女を襲った。
 うろたえるジギタリスを押し退け、エルフィンはおもむろに立ち上がる。そして自分の胸ほどまでしか背丈のない少女の前に立ち塞がり、その手首を強引に掴んだ。冷えた手で両方の細腕を拘束し、両手の自由を奪う形となる。かかる力が手の傷跡に響き痛みを訴えた。
「な……っ」
 男は声を震わせる少女を容赦なく組み伏せた。体格差にものを言わせ、寝台に押し倒す形で。
「や、やめっ」
 蹴りの一発でも喰らわせてやれば良いはずなのに、足が上手く動かない。拒絶の言葉すら出てきてくれない。のし掛かる重圧に心臓を握り潰され、末端の自由が死んでしまったかのようだった。
 エルフィンはどこか辛そうな顔をしながら、ジギタリスの身体に一枚の布をかけた。部屋に押し入った際に見つめていた、謎の文様が描かれた布だ。大きな布は顔から腰までをすっぽりと覆い、少女の視界を閉ざしてしまう。
「□□□□□□、□□□□□□□、□□、□□□□□□、□□、□□□□□□□□……」
「ひっ!?」
 知覚できるのは征服者が何かを唱え初めたこと、そして片手で少女を抑え込みながら、逆手を胸へと押し当てたこと。いやらしい手つきではなく、心臓の位置を確かめているかのような動きで。
 早口で囁かれる何かは呪文の類なのだろう。村の魔術士に詠唱の様子を見せて貰ったことはあるが、こんなにも長い詠唱は聞いたことがない。決して人には使わないような、残虐な特別製の魔法なのかもしれない。嫌な想像ばかりが素早く沸き上がってしまい、少女は死を覚悟した。
「……□□、□□□□□□、□□□、□□□□□!!」
 エルフィンが掠れ声を張り上げると同時に、布越しに目映い光が迸った。
「きゃああああっ!!」
 細い喉からようやく悲鳴らしい悲鳴が絞り出される。しかし、それだけだった。
 閃光が七色の残像を残して消え去った後、男の手が静かに離された。大きな影が離れてゆくのが布越しにぼんやりと見える。
(あれ、私……生きてる……?)
 何かをされたようだが痛みは無い。恐怖で硬直していた身体も徐々に自由を取り戻し、手足が動いてくれるようになった。心臓を抉り出されずに済んだのは良かったが、結局何のための術だったのかが解らず、再び不安がじわじわとすり寄ってくる。
「あんた、何を……っ」
 我を取り戻したジギタリスは勢い良く布を捲った。そして目の前で繰り広げられていた、エルフィンの予想外すぎる行動に絶句した。
 見上げた斜め上の空間に男の顔は無かった。あろうことにその下、床面に両膝を付き、両手と頭を土に押し付けていたのだ。
「……は?」
 混乱するジギタリスの目の前で、エルフィンは顔を上げてはまた床に叩きつけてを繰り返す。こちらを見上げる瞳からは、先ほどまで浮かんでいた意志の鋭さは感じられない。今はただ少女の顔色を窺い、必死に許しを乞うているのみだった。
「このっ……」
 一度血の気の引いた頭に、瞬時に血液が流れ込んでゆく。
「土下座するぐらいなら変なことするんじゃないわよバカあああああああっ!!」
 あとは自然に身体が動いていた。抵抗することすらできなくなるほどに怯え、一瞬ではあるが死を覚悟したことが馬鹿らしくて仕方がない。と言う気持ちを込めた蹴りが、エルフィンの頭に炸裂する。
「んぐっ!?」
「本気で死ぬかと思ったじゃない! バカ! このガリガリバカ! 虫バカ! すっとこどっこいバカっ!!」
 沸き上がった怒りに思考が追いつかず、幼子の喧嘩のような罵倒が続いた。言葉だけでは感情の沸騰を収められず、二発目、三発目の蹴りが背中に叩き込まれる。男は苦しげに呻きながらも、その全てを甘んじて受け入れた。
「私、あんたに殺されるなんて真っ平ごめんなんだから……呪いとかじゃないわよね、今の……」
 エルフィンが背中の痛みに耐えつつ顔を上げれば、そこには目尻に涙を浮かべた、頼りない少女の姿があった。散々怖がらせられたことへの怒り、好いた者が殺戮者ではなかったことへの安堵、そして未だに理解しきれない事態への不安。その全てを詰め込んだ涙が、少女の頬を伝い流れ落ちてゆく。
「……□□□□□□□……□□□□□□□□□」
 申し訳なさそうに何かを口走りながら、男は上体を起こし、首をふるふると左右に振った。
「本当に? 本当に怖いものじゃないの?」
 問いただす言葉を、正座したままの被告が再び身振りで否定する。
「じゃあ何だって言うのもう! 何か悪いことをしたかった訳じゃない、ってこと?」
 趣向を変えた三度目の質問を受け、男は勢い良く頭を縦に振った。ジギタリスはその様子をじっと見つめていたが、先ほどまでのやりとりに妙な違和感があることに気が付いた。今日の夕方までと、何かが決定的に異なっている。
「……あれ? もしかして……」
 一つの現実離れした推論が浮かぶ。少女は大きく息を吸い、恐る恐るその可能性を口にした。
「私の言葉が解るようになる魔法、とか?」
「□□!!」
 エルフィンの表情が瞬時に明るくなった。そして背筋を伸ばし、喜びを顔いっぱいに湛えて、筋を痛めるのではないかと心配になるほど大げさに首を縦に振ってみせたのだ。それは彼なりの全力の肯定だったのだろう。滲み出した嬉しさは少女に伝播し、小さな口の端をつり上げさせた。
 言葉を操る魔法など聞いたことすらない。しかし現にこうして簡単に意思を伝えられるようになったと言うことは、彼がそれを操るハイレベルな術士であることを表しているのだろう。
「じゃあ証拠見せなさいよ証拠、今から私の言う通りにして! ほら立って、服をちゃんと着て、くるっと回って変なポーズ!」
 下した指令は念を押すためのものであると同時に、意志を伝えられるようになった喜びを噛みしめるためのものでもあった。
「□、□□□」
 エルフィンはそれを受け入れ、即座に立ち上がった。命じられた通りに乱された着衣を直し、その場でくるりと回り、ぎこちない動きで両手を自らの頭に添える。そして言いつけられてもいない奇妙な声をあげながら、片膝を高く持ち上げて見せた。それも緊張を感じさせる真顔のまま。
「うぶふっ!!」
 命令の主が胸の中の空気を豪快に噴き出す。無口な男が初めて見せたユーモアに腹筋をくすぐられては耐えられない。そして少女につられるような形で、男も不器用な微笑みを見せた。
「わかった、わかったから! さっきの許してあげるから!」
 ジギタリスはひとしきり笑った後、静かに眼を閉じて呼吸を整え始めた。ハプニング続きで忘れそうになっていた、何よりも深刻な事実を思い出したのだ。
 見上げた視界の中心に男の顔を据え、彼に、そして自らに言い聞かせるように、少女は言葉を紡ぎ始めた。
「落ち着いて聞いて欲しいの。……一緒に、今すぐ、村を出よう」
 あまりにも唐突な提案だった。
 意図を量りかね、男の表情が硬直する。
「村の奴がこの部屋を覗き見て、あんたのお腹のことを知っちゃったのよ。それが今村中に伝わって、どうするんだって大人たちが話し合ってる。でもそれももうじき終わって、男たちがここに押し掛けて来ると思う……エルを捕まえに」
 干からびたような喉がごくりと鳴らされる。
 刺すような緊張感に包まれた中、エルフィンは取り乱すことも無く、静かに少女の言葉に耳を傾けた。
「みんな……いや、私もそう言うところはあると思うんだけど、自分たちと違うものを恐れてる。恐さで訳がわからなくなって、エルを悪い奴だって決めつけて、どんな奴なのか解ろうとしないまま消してしまおうとしてる人がいっぱいいる。……だから、ここにいちゃ危ない」
 奇怪極まる身体を持っている者であろうと、本質が善いものであれば恐れることはない。ジギタリスは実際に対話をしてそう結論を出したが、彼を言葉の通じぬ化物と思っている者が、少女と同じ結論を出すには相当な時間がかかるだろう。そしてその結論を導き出せるまでの間、彼が生かされ続けているとは限らない。
 少女なりに精一杯組み立てた論理的思考に基づく忠告だったが、それを受けた当人が頷くことは無かった。代わりにただ真っ直ぐに目の前の相手を見据え、右手の人差し指ですっと顔を指してみせる。
「……私?」
 少女は少しの間を費やしてその意図を汲み取った。男は健気な娘の身を、そして村内での立場を案じているのだろう。
「私はいいの、あんたと違って捕まっても殺されたりしないんだから! それに……」
「……□□□?」
「ずっと企んでたんだ。いつか村を飛び出してやるって」
 予定がちょっと早くなっただけよ、と付け足して、ジギタリスは勝ち気に微笑んで見せた。
 ……とはったりをかましたものの、実のところは村を出る計画を練っていた訳ではない。ただぼんやりと、いつか外に行きたい、と考え続けていただけだったのだ。
 しかし今この瞬間、外の世界への憧れは溢れんばかりにに高まっていた。自分でも理由が解らないが、とにかく彼を助けなければと言う焦り。今が村を出る最良のチャンスであると言う期待。二つの感情に背を押され、少女の魂はふつふつと沸き立ってゆく。
 比べてエルフィンはと言えば、顔いっぱいに戸惑いを浮かべ、気まずそうに少女の顔を見つめ続けている。やはり彼の本質は優しく臆病なのだ。私が引っ張ってあげないと、と言うお節介な衝動に駆られ、少女は強くまくし立てた。
「だから、行こう! あんたがまた埋められるところなんて見たくな……」
「□□□□!!」
 しかし誘いの言葉は彼自身の声によって遮られた。説得を中断され静まり返った室内に、地を踏みしめる音が不躾に入り込んでくる。
「やばっ……」
 気づけば家の入り口に複数の気配が集まっていた。窓の簾越しに見えたのは、いつになく緊張した面持ちの男たち。中には武器代わりの農具を手にした者まで混ざっている。そして二人が逃げ道を探す間も無く、招かれざる来訪者たちが勢い良く扉を開け放った。
「娘から離れろ、余所者!!」
 耳慣れた、しかしそれでいて聞き慣れぬ声が響く。
 真っ先に部屋に突入し、針のような敵意を向けてきたのは、紛れもない少女の父親だった。農作業用の鎌を握りしめ、今すぐにでも余所者の首を刈り取ってやろうと言わんばかりの殺気を放っている。眉間に深い皺を寄せた顔は鬼の形相そのものだ。続く男たちも各々の武器を構えてこちらの様子を伺っていた。
 初めて目にした大人たちの姿に、ジギタリスは思わず後ずさってしまった。小さな手が無意識のうちにエルフィンの服を掴む。そして怯えだした少女と代わるように、彼は凛とした眼で侵入者たちを見据えた。
「ジグ、早くこっちに来なさい。その男は危険だ。腹に虫を飼う化物だと聞いただろう!?」
 怒気に満ちた声を張り上げながら、父親はゆっくりと二人ににじり寄ってゆく。そのすぐ後ろに他の男たちが続いた。そうだ、危ないから早くこっちへ、何をしているんだジグちゃん……と彼らは口々に語りかけてくる。
 しかしジギタリスは屈さない。服の裾を掴む手に力を籠めながら、負けじとありったけの声を張り上げた。
「嫌! みんな、エルを捕まえて酷いことをする気なんでしょ……? 何も悪いことなんてしてないのに、ただ不気味だからってだけの理由で!!」
「そんな綺麗事を言っているからお前はいつまで経っても子供なんだ!! 村に何かがあってからでは遅いんだよ、お前も村を想うなら目を瞑れ!!」
 空気を震わせるほど力強い、父子の不毛な口論が続いた。捕らえるべき化物も、村の男たちも、纏めて取り残してゆく勢いで。
 村の大事件と言う火種を得て、親子のわだかまりと言う名の火薬が盛大に爆発してしまったのだ。
「お父さんはいつもそうじゃない、村、村、村って!! そんなに怒鳴ってまで私を模範的な村人にしたいの!? 外を見たいなんて言わない、扱いやすい娘にしたいの!?」
「俺はお前のためを思って言っているんだ!! ここで働いて、伴侶を見つけて、一生を過ごすのがお前の幸せに決まっているだろう!! だいたい俺たちが外に出てやっていけるとでも……」
「頭がっちがちのバカ親父!! 家に居て欲しいか何なのか知らないけど、私に変なもの押しつけないでよね!!」
 少女の声は既に涙声に変わっていた。溜め込んでいた感情の全てを吐き出しながら、同時に自らの心を抉っている。それは父親にとっても同様で、目を離せば手元から飛んでいってしまいそうな娘と、娘に執着する自らを同時に傷つける諸刃の剣と化していた。
「だからお兄ちゃんも出ていっちゃったのよ!!」
「黙れ!! お前はおとなしく俺に従っていればいい!!」
「そんな、こと……っ」
 終わり無く続くかのように見えた親子喧嘩だったが、罵り合いは唐突な横槍によって中断させられた。父親の声が周囲のどよめきに、娘の声が隣の男の呟きに取って代わられたのだ。荒れた薄い唇が呪文らしき音を紡いでゆく。術式はすぐに完成し、魔術士の右手に微光が宿った。
「なっ……」
 素早く振るわれた手から何かが迸り、少女の父を狙う。逃げ出す間など無い。魔法によって産み出されたものは、男のいかつい顔に直撃した。
「ぶはあっ!?」
「お父さん!?」
 当人を含む男たちは慌てふためいたが、顔には火傷も切り傷も付いていない。ただ頭から水を浴びせられ、髪と服を身体に貼り付かせた男の姿だけがあった。何のつもりだ、と威勢良く怒鳴る父の姿に娘は安堵し、胸を撫で下ろした。
「□□□□□□□」
 犯人はは何かを吐き捨てるように呟き、水浸しの男を睨みつける。そして次の魔法の詠唱に移りながら隣の少女を抱き寄せた。頑固親父に見せつけるように、強く、そして優しく。
「え? ええっ!?」
 ジギタリスが眼を白黒させる間に詠唱は終わっていた。壁に向かってかざした手から、先ほどよりも激しい光が迸る。同時に確かな破壊力を持った衝撃が発生し、石積み式の壁に大きな風穴を空けた。轟音と共に生じた穴は、大人が立ったままくぐれるほどの大きさがある。
「□□、ジグ!」
 立ち上る土煙の中、エルフィンは少女の右手を握り締めた。そして小さな手を包み込んだまま、大きな一歩を踏み出してゆく。強く手を引かれれば、相手の意図は何となく理解できる。ついて来い、と言っているのだろう。
「うん!」
 大きな手を握り返し、少女は微笑んだ。ここまで来たらもう前に進むしかない。後戻りは許されないのだ。繋がった確かな体温を感じながら、二人は外へと駆け出した。
 しかし土煙が舞う屋内を抜けたところで、家の外に待機していた大人たちと目が合ってしまう。出てきたぞ、捕まえろ、と叫ぶ声が飛び交う中に、エルフィンは素早く作り出した光の球を投げ入れた。街灯に詰め込まれたものに似たそれは、地面にぶつかると同時に目が眩むほどの光を放つ。ジギタリスは術者の手に目を覆われていたため助かったが、他の村人たちは一時的に視力を奪われてしまった。
「すごい……」
 共に駆けながら、少女は惚けたような声をあげてしまっていた。見るからにひ弱そうな姿の男が、十人以上は集まっていたであろう男たちを、傷つけることなく一瞬のうちに無力化しまったのだ。彼はどんなおとぎ話にも出てこなかった、少女にとっての最高の英雄だった。
「あっちよ!」
 ジギタリスが進むべき方向を指さし、エルフィンがそれに従う。追っ手に距離を詰められれば、奇跡の魔術士は土を盛り上げてその行く手を阻んだ。
 強気な行動とは裏腹に、見上げる横顔はどこか不安げだ。少女と同様、心のどこかにまだ迷いがあるのだろう。そんな同行者を追い越して、今度は少女が手を引く形で先へと導いてゆく。彼と共に遠くへ飛び出してゆけるのなら、足が擦り切れても構わないと思った。
 いつしか逃走劇は佳境へと差し掛かっていた。息を切らしながらも辿り着いたのは村の出口。広い空間はここで終わり、あとは人一人が通れる程度の穴が続いている。他の集落へと続く、ただ一つの抜け道だ。門の類が設置されていないのは、村人に根付く村への帰属意識がその代わりを果たしているからだろう。
 追っ手を大きく引き離した状態で、二人は空間の窄まる場所と駆け寄ってゆく。そして通路の入り口前に立つ小さな人影に気付き、揃って驚きの声をあげた。
「大婆様!?」
「□□□□□!?」
 二人に何かと世話を焼いてくれた、あの老婆が門の隣に立っている。こちらに気づいた様子ではあるが、声を張り上げることも、逃亡者を追う様子も無く、静かに若者たちが訪れるのを待っているようだった。ただ静かに、見守るように。その意図が知れないまま、二人は老婆の隣を走り去ってしまおうと突撃していった。
 しかしそんな少女たちに向かって、老婆は布製の袋のようなもの差し出した。
「持ってお行き」
「え!? あっ、はい!!」
 威厳に気圧されながら、ジギタリスはすれ違い様に袋を毟り取った。袋は意外に重く、いくつかの布包み等が入っているようだ。揺らせばじゃりじゃりと硬い音がする。おもむろに手を突っ込めば、底に溜まる冷たい物体が指先に触れた。そして複数詰められている中の一つをつまみ出し、少女は目を見開いた。
 袋の底に沈んでいたものは銀色の硬貨だった。実際に見たことは無かったが、密かに愛読していた異郷の絵本に度々出てきたために知っていたのだ。
 貨幣は遠出に必要不可欠なものである。加えて少女にとっての硬貨は、一度は手にしてみたい憧れの品だった。ありがたみがひしひしと身に染みる。
(大婆様は私を応援してくれるの……?)
 硬貨を握りしめて師を想う。村を飛び出してしまったことへの罪悪感と、そんな自分たちの背を押してくれたことへの感謝が、手の中で音もなく溶け合っていった。
 ごめんね。ありがとう。届かぬことばを小さく呟きながら、ジギタリスは男の背中を追いかける。いつの間にか手は離してしまっていたが、もう心細いことは無い。
「□□□□□□、□□□□□□□、□□、□□□□□、□□□□、□□□□□□!!」
 追っ手の姿は見えなくなったが、それでもエルフィンは呪文を唱え続けた。歌にも似た韻律を紡ぐ度、振り返り指差した道端の草が急激な成長を始める。少女の背後でそれらはむくむくと大きくなり、絡み合う自然の防壁となって道を塞いでいった。そんなトラップを仕掛けること計五箇所。村人総出で刈り取らなければならないほどの巨大植物で徹底的に封をした。

 そこからどれだけ走っただろうか。まばらに設置された明かりの中、二人は一心不乱に逃げ続けた。歩幅の大きいエルフィンが先行し、時々立ち止まってジギタリスとの距離を縮める形で。
「はぁっ、ふぅっ……」
 全身が極限の疲労を訴えていた。息が苦しい。手の先がぴりぴりと痺れ、落ち着き無く震える。
 どちらが言い出したわけでも無く、自然と二人は座り込んでしまっていた。村の者は当分追ってこられないだろう。ジギタリスはそう判断して、緊張の糸を解き大きく深呼吸をする。胸の奥に空気が染み入り、心地良い。
「ありがと、ね、エル……本当に、助かっ、ちゃっ、た」
 一番の功労者は俯いて肩で息をしている。少女は疲れ切った身体に鞭を打ち、半ば這うようにして男の正面へと回り込んだ。最大の難関を乗り切ったのだから、まずは顔を向かい合わせて笑わなければならない。
 しかし少女を出迎えたのは、翡翠の瞳を濁らせた、生気の失せた顔だった。
「……エル? ちょっと、エルっ!?」
 慌てて名を呼び肩を揺さぶるが眼は宙を仰いだまま。エルフィンは精根を使い果たしたと言う状態を超えた、生命の危険を感じさせる顔色をしていた。
 原因はすぐに思い当たった。間違いなく、派手に使用した魔術の反動だろう。少女にその手の知識は無かったが、あれだけの大盤振る舞いを行えば身体に負担がかかると言うことぐらいは予想が付く。
 切迫した叫びを聞き届けてか、一度だけ垂れた眼が少女の顔を見据えた。そしてそのまま眼は閉ざされ、身体から力が抜ける。コントロールを失った半身は、少女に寄りかかるように倒れこんでしまう。人一人ぶんの重みが、深刻な現実となって少女を押し潰そうとしている。
 薄暗闇に残されたのは、疲れきった小娘と、死に掛けの男だけ。先ほど味わったものよりも激しい、恐怖を超えた絶望感が少女を蝕んでゆく。
「起きてよ! ねえ起きて、せめて近くの村まで行かないと……」
 少女の悲痛な叫びだけがどこまでも木霊してゆくようだった。
「なんとかっ、私がなんとかするから……お願い、エル、死なないで……!!」
 道は続く。旅立った二人を試すように、長く、険しく、どこまでも遠く。