辺りを見回すと、街はミオの知らない言葉とギミックで溢れ返っていた。背の高い建物に張り付いた看板は読めないし、道端で立ち話をしている人々の話もさっぱりわからない。見たことのない形の車が道路を埋め尽くし、臭い煙を吐き出しながらゆっくりと走っている。本当に違う世界に来てしまったのだ、と改めて実感させられることになった。
しかし怖いとは思わなかった。歩みながらすぐ隣を見上げると、そこにはずっと会いたくて夢にまで見た人がいる。「どうした」と問う、生命力に満ち溢れた声が胸に染み入って心地よく、少女はまたぴんと背筋を伸ばした。
「その、本当に違う世界に来ちゃったんだなあって……みんな何言ってるかわからないし、迷子になったらどうやって合流しようって思って」
「じゃあはぐれないようにしとくか」
ロセロは少しだけ身を屈め、無防備なミオの手を取った。大きくていかつい、少女のものより少し温かい手で。恋人にするかのように。
「ちゃんと握ってろよ?」
「はいっ!!」
ミオは硬い声で返事をして、彼の手をしっかりと握った。それだけで口元が過度ににやけそうになるのを堪えながら。かわいく笑う、かわいく笑う、と自らに言い聞かせるも、どうしても嬉しさが前面に出たしまりのない笑顔になってしまう。自分に嘘はつけなかった。
ちらりちらりと相手の表情を窺っていると、相手もこちらを気にかけているものだから何度も目が合う。向けられる笑顔は陽光よりも眩しくて、ミオはロセロの顔をなかなか直視できないでいた。
見つめられるだけで胸が高鳴ってしまい、思うように話ができない。男はそんな少女の心情を察してか、自ら他愛もない話題を投げかけた。第一の目的地であるカフェに着くまで、ミオはがちがちに緊張したままだった。
月影が射す図書館での一悶着の後、うわのそらの状態で帰宅したミオは、家に入る前に裏手の郵便受けを開いた。箱の中で少女を待っていたのは、いつもの封筒ではなく、メモ帳か何からしき一枚の紙切れ。そこにはいつもよりも雑な、焦りの見える字で用件のみが綴られていた。
用件の一つは、謝りたいことや伝えたいことがあるからもう一度会いたいということ。
そしてもう一つは、そのために暇な日をいくつか教えてほしいということ。できれば丸一日たっぷりと時間を割ける日を。
ミオは急いで伝言を自室に持ち帰り返信を出した。明後日とその一週間後がまた休日である旨に、手書きのカレンダーと、「今日はここ!」という注釈を添えて。彼の住む地とは暦が違うという話を思い出しての一手間だった。
その後、母が作ってくれた蜂蜜牛乳を飲んで気分を落ち着けた……ものの結局あまり眠れぬ夜を過ごすこととなった。手土産にと渡されたダミーの魔術書を開いてしまったのがまた良くなかった。
魔力を帯びていれば何でもいいという理由で選んだらしいあの本は、音声を書き留めることができる魔術書だった。浮かび上がった文字をなぞることで再生された音声には、ミオの想いは誰にも渡さないと宣言するロセロの声も入っていて――そんな代物を繰り返し聴いてしまっては、安らかに眠れるわけがない。
そんな長い夜を超えた後、返信が届いていることを確認して、ようやく週末の逢瀬が約束されたのだった。
「わ、わっ! 甘っ!」
「あーうん甘いよな、甘すぎたかもな……苦手だったら違うの頼むから言ってくれ、そっちは俺が貰う」
「ううん、大丈夫です大好きです! ただ何というかこう、こんな贅沢していいのかなって……チョコがぷちぷちでナッツがなつなつ……」
セレストラでは味わったことのない食感の、飲料ともデザートともつかない、透明なカップに入った甘味。ミオはそれを一口ストローで吸っては幸せそうに微笑んだ。惜し気なく投入されたチョコレートソースにコーヒーの苦みがアクセントとして加わり、更にごく小さな氷の粒が食感をさっぱりとさせている。
未知の味に少女はすっかり虜になってしまったようで、その喜びをどうにか目の前の男に伝えようとしている……が、上手く言葉が出てこない。その結果、蕩けた顔で「おいしいですー」と何度も口にする少女が出来上がってしまった。
「そっか、ならいいんだ。口に合ってよかった」
ドリンクを奢った張本人は、安堵を帯びた笑顔でその様子を見守っていた。甘いやつと香りがいいやつどっちがいい? と訊いておいた甲斐があったと思いつつ。合流した直後からずっと緊張していた様子のミオだったが、カフェの席について飲み物を口にしたことでようやく気持ちも解れてきたらしい。
少女は男の笑顔が眩しくて仕方ないと思っていたが、それは相手にとっても同様のこと。先々日とは違う、橙色のフレームの眼鏡――確か昨年のデートでもかけていたような気がする――は、彼女が纏っているパステルカラーの長袖ワンピースによく似合っていた。
咲いたばかりの若い花のような、か細くもその全身に生命力を湛えた姿は、昨年の姿と比べて一気に大人びたように見える。
「なんか、成長したよな」
「そうなんですよ、去年から背が四ミッジ伸びてですね」
指先で小指の爪ほどの幅を示してみせながら得意げに告げる。
「そうじゃなくて、いや背伸びたのももちろんめでたい訳だけど、何つーか雰囲気がさ」
「へ!? それはその、ええと、そんなことは……ううん、ありがとうございます」
ミオは謙遜の言葉を呑みこみ、それをドリンクで流し込んだ。久しぶりに会った彼が言うのだからそうなんだろう、と思うことにして。
「……それで、改めて聞いてほしいことがあるんだが」
機を見計らって真剣な面持ちを見せるロセロ。ミオは手にしていたカップをテーブルに置き、両手を腿に置いて言葉の続きを待った。
「すまなかった。こんな、ただ長々と待たせるようなことをしちまって」
昨日の話の続きだということはすぐにわかった。手紙のみで繋がっていた日々のことを、彼なりに申し訳なく思っているのだろうと。
「そんな、ロセロさんが気に病むことじゃないです! 私だって昨日は騙すようなことしちゃったから、謝らないと」
「それは俺も気にしてないから、えーと」
「ロセロさんにはロセロさんの事情があるんだと思ってますし、そもそも文通でしつこく粘るって言い出したのは私だし……これからも続けてもらいたいし……でも」
思い出すのはつい一昨日のこと。あの日、書架の魔女の提案で芝居を打ったとき、彼の怒気に満ちた声を初めて聞いた。ミオの想いは誰にも渡さないと宣言したあの声が、胸に突き刺さったままずっと抜けないでいる。
「ロセロさんが駆けつけてきてくれたとき、本当に嬉しくて、頭が真っ白になるくらい嬉しくって……ちょっとズルしてでも会うチャンスを作れて良かった、って本当に思ったんです」
ミオは花のように微笑み、一瞬遅れてやってきた気恥ずかしさに負けて、視線を手元に落としてしまった。そしてまだ半量残っている、チョコチップ入りの飲料を吸って気持ちを落ち着かせる。やはり美味しい。
「それでいいんだよ。ミオは真面目すぎる節があるだろ、搦め手も混ぜていくぐらいでちょうどいいと思うぞ」
「うーん、そうかなあ……」
「そうそう」
ロセロもまた謀られたことへの怒りはないようで、少女を優しい眼差しで見ていた。座ってもなお高い視点から、見守るように。
「ただなあ、こないだの件は……」
「どうしました?」
「未だに解んねえんだよ。他の同僚ならとにかく、なんでよりにもよってアリアがあんなこと企んだのか」
あいつはそんなキャラじゃないし、人の色恋沙汰にも首を突っ込まない。そうぼやきながら頭を掻くロセロを前に、ミオは少しだけ首を傾げた。どうしてわからないんだろう、とでも言いたそうな面持ちで。
「あの……アリアさん、自分で言っていたじゃないですか」
「何だっけ、かわいいから渡さないとかそんな奴だったか」
「違いますっ、ほら、最近彼氏ができたって」
少女が自信満々に導き出した答えを、男はすんなりと呑みこむことができなかった。
「……それ関係あんの?」
「大アリです! すてきな人と出会えるって、キャラが変わるぐらいの一大事ですよ!」
「ああ、そういう……」
力説を受けたロセロは、ミオの顔をまじまじと見つめてから、まだ割り切れていない顔をしつつも頷いた。
しかしその主張に当てはまるのは少女自身もまた同じである。墓穴を掘ったことに気付いたミオは、視線をあちらこちらにさ迷わせてから、小さな手提げ鞄を掴んで席を立った。
「あ、あのっ、お手洗い行ってきます」
「わかった、水流すのはレバーか一番大きいボタンだぞ」
「任せてください!」
いまいち噛み合わない答えを残して、そそくさと店の奥に消えてゆく少女。その背を見送ってから、男は小さくため息を一つ。そしてテーブルに両肘をついて頭を抱え、今度はもっと大きなため息をついた。
ミオが悩みに悩んで選んできた服は、彼女が知らない街においても浮いてしまうことはなかった。行き交う人々のものと比べるとやや珍しいほうではあるものの、衆目を集めるほどでもない。悪目立ちをするようなら、それを口実に服を買おうと提案することを考えていたロセロだったが、企みは失敗に終わった。理由があれば遠慮されても押し切れると思ったのに。
「ロセロさんこれ、すごいですよ! 何の術もかかってないみたいなのに絵が動くんですよ!」
少女が手にしているのは、絵本コーナーに見本として置かれた仕掛け絵本。ショッピングモールの衣料品店を巡り、雑貨店を歩き回って変わり種の眼鏡ケースを買い、その直後にミオが吸い込まれていったのは大型の書店だった。文面は読めなくともその表紙を見ているだけで楽しいらしく、冒険気分で店内を歩き回っている。ロセロはバイクに纏わる雑誌を手に取ったりしつつ、少女がつい遠くに行ってしまわないようにゆっくりとその後を追っていた。
「あとこのへんの本、ここでは一冊いくらぐらいなんでしょうか……すごく豪華なのに、なんだか扱いが雑なような」
「そういやセレストラってここまで印刷技術進んでないんだったか。これ、さっきの俺らの飲み食いより安いぞ」
「ひぇっ」
少女は素っ頓狂な声をあげ、誌面のほとんどがフルカラーのファッション誌をまじまじと見つめた。この手のものは輸入品としてセレストラの街でも販売されているが、いかんせん値が張る。入荷の手間に加え関税がかけられているらしく、店に並ぶ頃には学生が気軽に買える価格ではなくなっているのが常だった。
「頁がばらばらになってるのはお手頃な値段で売ってるんですよ。折ってブックカバーにしたり、切り取ってノートに貼ったりするんです」
「へー。使い道あるんならたまに送るか? 個人的に一冊二冊ぐらいなら輸入絡みの法律にも引っかからないんだったろ」
「うん、私が一人で見るなら、たぶん」
彼から貰ったものは、人に自慢するよりも自分だけで楽しみたい。そう思っているし、今までもそうしてきた。
「ロセロさんが本気出して悪だくみしたら、貿易の会社がどんどん潰れちゃいますね」
「たまにそういう奴がいるから法が整備されてんだろうし、取り締まる奴も飯食えてんだろうな。俺は顔出して歩けない地域が増えるのは勘弁だ」
「お尋ね人になるような心当たりがあるんです……?」
「まあ仕事の都合で不法侵入とか……まあそんな感じの……」
男は居心地が悪そうに目を逸らした。深く訊かないほうが良いと判断した少女は、意識を平積みの本に向け、色とりどりの表紙を追う。そして雑貨についての本に目を留めると、並んでいた二冊を指さした。
「そうだ、私次の誕生日プレゼントはこれとこれみたいなのがいいです!」
「随分安上がりだな!?」
「私の街じゃお高い品ですよー、プレミア品ですよー」
得意げな顔をする少女の姿は、大型書店のやや賑やかな空気によく似合う。しかしロセロは彼女の魅力を更に引き立たせる場所に覚えがあった。夜の静謐と知性の光を混ぜ合わせたような、そんな空間に。
ちょっと、と声をかけられ、少女は手を引かれて店の外へと出た。向かう先は他のテナントではなく、建物の出入り口。幾度めとも知れぬ肌の触れ合いに、慣れきることもなく胸をときめかせながら後を追う。
「こないだの一件で、本屋とか図書館とか怖くなっちまってたらどうしようと思ったんだが。要らん心配だったみたいだな」
「はいっ、全然平気です!」
元気よく答え、脳裏にあの図書館の光景を思い浮かべた。月の光に照らされたあの空間は、薄暗さと朽ちた姿がもたらす不気味さこそあったものの、館の主に似た不器用な優しさを持っていた……と今では思える。心象を映すという世界がなぜ廃墟のような状態になっていたのかはわからないものの、少なくとも彼女は、それを忌むべきこととしては捉えていないように見えた。むしろ肯定的な、思い出深い何か。単なる廃墟愛好家である可能性も捨てきれないが。
「なら、見せたいところがあるんだ。ちょっと目瞑っててくれるか」
「へ? あっ、はいっ」
建物を出て少し歩き、人目のない細い路地に差し掛かったところで目を閉じた。視界が閉ざされた中、しっかりと握った手と、ロセロの足音だけを頼りにひた進む。いつもより少し踵の高いパンプスが奏でる足音が、ある一点を境に突然消えてしまった。足先に伝わる感覚が、柔らかな敷物か何かを踏むものへと変わっている。
「何……?」
先ほどまで歩いていた場所と地続きではない、異なる場所に連れてこられたのだとわかった。背後から聞こえていた車のエンジン音が、突然すうっと遠くなり、絶えた。空気の匂いも変わったようで、新築の建物らしい、真新しい木材の香りを感じる。それに加えて何か、上手く言い表せそうにない懐かしい匂いも。
ロセロはミオに少し待っているよう告げると、「灯り灯り……」と呟きながらどこかに行ってしまった。程なくして空間がすうっと明るくなり、瞼越しにそれを感じることができた。
「お待たせ。目、開けていいぞ」
言われたままに目を開くと、そこには少女が知っているものよりも小規模な、本棚が整然と並ぶ部屋が広がっていた。
「わぁ……!」
はじめは恐る恐る、やがて我慢が利かなくなり速足で通路を歩んでゆく。学校の図書館や一昨日さ迷った図書館よりはずっと規模の小さい、館と言うよりは図書室と呼んだほうがふさわしい空間だった。しかしそのどちらにも負けず劣らずの魅力を漂わせている。頭上に吊るされている照明器具は天井に光を放っており、反射した優しい光が部屋全体を包み込んでいた。その色合いは月の光に似ている。
言葉も忘れて辺りをうろつくと、見つけやすい位置にセレストラ語の本が集められていることがわかった。ミオが、もしくは同郷の者がここを利用することを想定しているのだろうか。考えを巡らせて、一昨日の衝撃で忘れかけていたことを思い出した。
「あの、ここってもしかして!」
「うちの第二図書室。来月からそっちの学校の生徒にも開放するやつな」
ロセロは図書室の中央に立ち、目を輝かせるミオの姿を見守っていた。ここに連れてきても良いものかと迷いはしたが、直接訊いて良かった……そう安堵しながら。
ミオは一通り室内を見て回り、窓際で足を止めた。カーテンのない大きな窓の外には夜の帳が下りているが、星も月も出ていないために空模様すらわからない。草も生えていないのっぺりとした地面が、少なくとも建物の周りに存在していることを確認し、窓から離れた。
「ここはアリアさんの図書館とはまた違う仕組みなんですよね?」
「ああ、陽の射さない土地に建ってるってだけだ。うちの本社もそうだな」
「本社……あっ、そういえばあの、案内したいけど勝手に部外者入れられないって言ってませんでしたっけ」
「分館は大丈夫、お目付け役がついてりゃいいんだ。それに」
ロセロは深く静かに息を吐くと、本棚の間に立っていたミオに歩み寄った。あまり近寄りすぎると互いの顔が見づらくなるため、少しだけ距離を置いて。
「二人きりで話すんなら、ここが一番いいと思ったんだ」
「えっ……あの、利用者さんはまだいないとして、他の社員さんは」
「今の時間は担当の奴はいないし、さっき転移装置切っといたから気まぐれで来た奴も入れない」
「職権乱用!」
「まあその話は置いといてだな」
男は悪戯っぽい笑みをすぐに収め、まっすぐに少女の顔を見つめた。少女もまた彼の瞳に視線を吸い寄せられ、身動きが取れなくなる。金の瞳はどこか野性的で、獲物を狩る側であることを言葉なく語りかけてくるようだ。
閉ざされた場所で、二人きり。この状況への理解がようやく進み、ミオの顔に血が上る。頬が赤みを帯び、熱が篭った。
「文通を始めた時は、お前がいつか俺みたいな奴のことを諦めて、もっと真っ当な奴のところにいけばいいと思ってたんだ。ゆっくり、火が自然に消えるみたいにさ、こう、じわっと」
「じわりたくないです」
「だよなー。待っても待っても全然へこたれないし、飽きさせないようにあの手この手を尽くしてくるし。俺も手紙がすっかり楽しみになっちまって……何より」
ロセロは大股で詰め寄り、背を丸めた。そして自らの胸ほどまでしか背丈のないミオに、覆い被さるようにぐいと顔を近づける。
「わ……!」
ミオは思わず息を呑み、彼の話の続きを待った。
この距離まで近づくことを期待していなかったわけではないが、心の準備ができているかどうかとなるとまた話は別だ。二人で出歩くことが決まる以前にも、何度も空想しては枕にとばっちりを喰らわせていた。実現されるあてもないまま繰り返し行ったイメージトレーニングは役に立ちそうにない。
「気が付いたら、絶対に他の奴に渡したくないって思ってた」
鼓動が跳ねる。心臓が破裂してしまいそうだとさえ思った。
「俺みたいなろくでなしがが手を出しちゃならねえ、でも誰かが掠め取っていくのは絶対に許せない……どっちを優先したらいいのかわかんなくなって、答えを先延ばしにして。……本当に、悪いことをした」
今にも鼻が触れてしまいそうな距離で囁かれる告白が、身体の芯にまで染み渡ってゆく。いつもよりも少し低い、ビターチョコレートのようなほろ苦さを含んだ甘い声。
「ううん、それはもうよくって、あっ、ええと」
対するミオの声は上ずるばかりで、軽やかな返事をすることができないでいた。息をするのもやっとの状態では、気の利いた受け答えなどできるはずもない。
「俺の事情で何か迷惑をかけることがないように全力を尽くす。万が一の時には必ず駆けつける。だから」
少女の背に大きな手が添えられる。そっと……というには力の篭った、今にも抱き寄せたくて仕方がないかのような動きで。
ミオはうん、うん、と目を潤ませながら頷き、彼の腕に身を委ねた。顔が、身体が、ただひたすらに熱い。今までに味わったことのない、幸せな苦痛だった。
「恋人になってくれないか。好きなんだ――お前の、ミオの全てが欲しい」
なってくれないか、などという言い回しが建前に過ぎないことを、少女は肌で感じ取っていた。細い体を抱き寄せる腕も、瞳の奥底を覗きこんでくる目も、逃がす気など欠片もないことを語っている。
もうどこにも逃げられない。それが、嬉しい。
「私もっ……私も! ロセロさんのことが! 大好き! です!!」
やっとの思いで叫ぶように口にした言葉は、かつてどうしても言えなかったもの。
緊張と羞恥、そして何物にも代えがたい喜びに潤んだ視界を独り占めして、愛しい人が微笑んだ。伸ばした手がついに届いたんだ――そう思った瞬間、全身から力が抜けた。
「あ……」
立っていられなくなり、そのままロセロの腕に体重を預けてしまう形となる。彼はその場に片膝をつき、難なく少女の体を受け止めた。相変わらず近いままの顔には僅かな不安が浮かんでいる。
「大丈夫か?」
「だいじょぶ、です、ちょっと緊張しすぎちゃって」
「ならいいんだ、なんか力入れすぎちまったな……ごめん」
少女は首を横に振り、微笑みながら涙を零した。感情が昂りすぎて混乱している。ロセロは指で少女の涙をぬぐい、いつもの調子で話を続けた。
「そら深呼吸ーよく吸ってー」
「すぅー」
「吐いてー」
「はー」
言われるままに深く呼吸をする様子には、まだまだ幼さが残っている。ロセロはミオを抱き上げて運び、そっと椅子に座らせると、優しく頭を撫でた。子供らしさを確かめるように。踏み入ることができる境界線を定めるように。
少女の呼吸はすぐに落ち着き、手足にも力が戻ってきた。男はその様子に安堵しながら、自らの胸ポケットをまさぐり小さな包みを取り出した。贈り物らしくない簡素な袋を、テーブルに置いてあったミオの鞄に有無を言わさず押し込む。
「俺が守るって言っといて対策もなしじゃあ何だからこれ持っててくれ。万が一……っつーか俺の気にしすぎだとは思うんだが、とにかく何か助けが要るとき。全力で魔力注ぎながら俺を呼んでくれりゃいいから」
「わかりましたっ、あっあとその」
「あと」
「あ、お先にどうぞ」
「いやそっちからお先に」
「じゃあ……もう一つ欲しいものというかお願いしたいことが」
「何だ?」
ごく最近になって湧き上がった欲求をこねあげて掲げる。少女にとっては重要な事柄だった。
「私も、ロッシェさんって呼びたいです!」
男を見上げる少女の眼差しは真剣そのもの。アリアさんが羨ましいんです、と吐露してしまいたい衝動を堪え、表情で訴えかけた。しかし相手はきょとんとした顔をして、
「それ今俺も言おうとしてた……」
と告げる。二人の間に少しの沈黙が流れ、やがて笑いに変わった。
「ま、そういう訳でよろしく頼むわ。それ、内輪のあだ名みたいなもんでさ。同僚以外にそう呼んで貰いたいって思ったの初めてなんだよ」
「そうなんだ……ロッシェさん」
「どした、ミオ」
「ロッシェさん!」
「ミオ」
「ロッシェさーん!」
「ガキか俺ら!!」
全く内容のないやりとりがおかしくてたまらない。二人はひとしきり、無邪気な子供のように笑った。
ミオは自らの鞄から引っ張り出したハンカチで目元を拭く。先ほど拭ってもらったはずの涙が、笑った拍子にまた出てきてしまった。満ち足りた困りごとだった。
「しかしまあ、本当に俺で良かったのか? なんかいまいち実感湧かないっつーか、湧きすぎて一周して良くわかんなくなってる」
「私はロセ……ロッシェさんがいいんです。他の人じゃ、だめ」
「ああうん、それは何回でも言ってほしい……っつーのは置いといて。今すぐじゃねえけど最終的にこう、本棚みたいなデカさの奴と色々することになるんだぞ」
ミオはただ黙って頷いた。『色々』が指すものを考えるとまた頭が真っ白になってしまいそうなので、一旦思考から追いやることにして。
その様子を見届けたロセロは、床に膝をついて椅子に身を寄せ――不意打ちに近い形で、ミオの唇を奪った。軽く触れるだけの、そよ風のようなキスだった。
「例えば、こういうのとか」
魂が体から離れてゆくような心地を味わいながら、少女はまた頷いた。
二人を取り囲む膨大な数の書物たちも、彼女らの行く先を未だ知らない。