まだ幼い新米の魂渡しは、ある地の深海に住まう蛸に似た身体をはためかせて、雪の上を飛んで跳ねてを繰り返していた。岩と雪が形作る空間は、彼にとってはとても魅力的なものだ。群れから離れ道草を食ってしまうのも致し方ない。なにせ地面に降り立つこと自体が初めてだったのだから。
彼らは様々な世界の空を、それも生物が大抵上ってこない高所を飛び続けている。眠るときは仲間に牽引して貰い、卵を産む時ですら宙を舞いながら。孵った子はしばらく母に抱えられているが、十日も経てば自ら空を泳げるようになる。子供は泳ぐことに特化した姿をしていた。
魂渡しは呼び集めた魂を導きながら気まぐれに唄を歌う。死せるものにのみ届くその唄には、それぞれの世界の理から逸れてしまった魂を呼び寄せる力があった。魂渡したちはあての無い旅を続けながら、魂たちが持つ記憶と感情を少しずつ食べてゆく。生命と切り離されたそれらは情報として消費された。抱えていたものを食べ尽くされ、まっさらの状態になった魂は、新たな命を得るために地上へと降りてゆくのだった。
蛸に似た新米の魂渡しもまた、そばに五つの魂を引き連れ、それらが居なくならないよう彼なりに目を光らせていた。この魂たちが抱えたしがらみを食べつくし、行くべき場所へ至るまでを見届けることが、小さな身に与えられた大きな使命だ。しかし初めて遭遇した高山にはしゃいだ彼は、僅かな間ではあるがその使命を忘れていた。もう少し経てば自らの役割を思い出し、同胞たちの残り香を頼りに全速力で群れに戻る……はずだった。
雪を集めて自らに似た山を作っていた魂渡しの子供は、魂たちを待たせていた場所に、見知らぬ姿が一つしゃがみこんでいることに気がついた。どこからともなく現れた何かは、魂たちに向かって何かを話しかけているらしい。自分たちですら会話は難しいのに、随分と無駄な努力をするものだと思った。
その者は自分よりずっと背が高いものの、親や他の大人たちと大きく違う、鱗もひれも軟体も無い不思議な姿をしていた。肌はそこらの雪を少し汚したような色をしていて、ひらひらとした薄っぺらいものを身体に巻きつけている。頭からもそれを深く被っているため、首の横から流された紺色の毛髪と、時々何かを語る口元だけが見えた。生きた人間を見るのは初めてのことだ。しかしこの高地が並の人間では辿り着くことすらできない場所であることは知らなかった。
「ぷい、ぷぃにゅ、にゅっ」
群れと合流するために魂たちを呼びつける。見物人には悪いがそろそろ店じまいをしなくてはならない。魂たちは次々と招集に応え、四つのぼんやりと輝く球体が子供のもとに侍った。が、足りない。
「ぷぃー! ぷいっぷいっ!」
強く呼んでも、残り一つの魂が寄って来ない。業を煮やした子供は、他の魂を背中にくっ付けてから、早足ならぬ早泳ぎで残り魂の元へと近寄った。しかし白く光る小さな球は合流を拒み、人間の背後へと逃げ込んでしまう。その様子を見た人間が、口の端に薄く笑みを浮かべた。
「こいつは今日から俺のもとで働きたいそうだ。なあ」
子蛸の親よりもずっと低い、どこか得意げな声だった。白い魂は同意するように人間の頬に寄り添う。つい何日か前に旅に加わったばかりの、塩っ辛くて少し苦い魂だ。あんなに従順だったのにどうして、という困惑、そして新入りを横から掠め取って行こうとしている者への怒りがこみ上げる。
「ぴー!! ぷいぷい、にゅっぴ!」
「そう怒るな、悪いようにはしないさ。お前は残りの奴らを連れて群れに帰れ」
「ぷいっぷぷ!? ぴー!!」
人間は子蛸の言葉を理解しているようだった。それどころかほぼ言葉を持たぬはずの魂の声まで聞き取っているように見える。先ほど人間が口にしていたのは、一方的な語りかけではなく対話だったらしい。人間にこんな能力があるだなんて聞いたこともなかった。
こうなったら実力行使してでも連れ戻すしかない。子供は言うことを聞かない魂を追いかけ、魂は子供から逃げる。自らの周りをぐるぐると回られた人間は可笑しそうに口元を歪めた。
「楽しそうな所悪いがそろそろ時間だ。諦めろ、チビ助」
人間が立ち上がり、白い魂を握ってもう片方の手で指を鳴らした。するとその目の前の景色が揺らぎ、水面のように波打つ。人間は軽い足取りでその波紋の中へと飛び込んだ。服の端にしがみついた小さな魂渡しを連れて。
水面を抜けて降り立った先は、先ほどまで二人がいた雪山ではなかった。壁も床も天井も無い暗闇に、宙に描かれた光る文字のようなものと、長い長い敷物だけが浮いている奇妙な空間。人間がまっすぐ伸びた赤い敷物に降り立つと、それは歪むことなくしっかりと体重を受け止めた。裏側に硬いものでも貼り付けられているのだろうか、と一瞬疑問に思ったが、今はそんなことを考えている場合ではない。
「ぴーっきゅ! ぷぃにゅ! にゅぴー!」
子蛸の抵抗は続く。人間に向かって繰り返し体当たりをかけながら、自らが背負った使命を主張した。
今まさに連れ去られようとしている白い魂は、まだ生前の記憶と執着が多く残っている。そんな状態の魂が新たな生命を得れば、捨てきれなかったものが何かしらの諍いや災いを招く。故に我々は魂が裸になるまで見守るのだ――と親が言っていた、と。どのような甘言で魂を口説き落としたのかは知らないが、とにかく黙って見過ごすわけにはいかない。子蛸は蛮勇に突き動かされていた。
人間は小さな追っ手の攻撃を無視してすたすたと歩いていたが、ぴぃぴぃぷいぷいと訴える声は甲高く耳に障る。ち、と舌打ちが一つ。ついに立ち止まったかと思うと、片手を上げ、
「少し忘れていろ」
とだけ告げて、その手で小さな魂渡しを叩き落とした。
手首の動きだけで払われたはずなのに、何らかの魔力が篭っていたのか、かなりの勢いで軟体が吹っ飛んで行く。その身にきらきらと輝く力の残滓を纏って。
子供の身体は敷物には落ちず、何も無い空間でせわしなく回転して、宙に描かれていた大きな文字の一つに触れる。そしてそのままめり込み姿を消してしまった。
「ぷにゃっ!!」
次に彼を襲ったのは、何か硬いものにぶつかる感触だった。衝突の衝撃で背負っていた魂たちが吹き飛び、どこか遠くへ散ってしまったが、追いかけることは叶わない。
魂渡したちは皆物理的な衝撃には強く、子供もまた同様であるはずなのに、何故か意識が朦朧とする。ここはどこなのだろう、皆は迎えに来てくれるだろうか……考えはそこで途切れ、冷たい瓦の上で気を失ってしまった。気絶するだなんて産まれて初めての経験だ。
建物の屋根で力なくのびてしまった軟体を風が優しく撫でる。いつもより長い夏が過ぎてようやく涼しくなった、セレストラの優しい夜風だった。