アカシア書房

おやすみ、スターダスト

#11 はし、それから

 はじめて肌を重ねたときのことは今でもしっかりと覚えている。二人の想いが通じ合って……なんてものじゃなくって、上手いこと口車に乗せられて、みたいな感じで。
 できたてほやほやの新人につけ入るのは今思い出してもひどいと思うし、その話題を蒸し返すと彼は申し訳なさそうに縮こまる。反省してるならいいの、なんて許してしまう私も大概だと思うけれど。
 始まりはぐずぐずで、でもどうにかこね直して形を得た私たちの関係は、あの件を境に二つに分かれてしまった。
 主が定めた役目に阻まれながらも続いてゆくふたり。
 造られた意味から解き放たれて真に通じ合った、これから消えゆくふたり。
 アカシア書房という木に縛られた蝶である私たちはもうここにはいない。お気に入りの蝶の髪飾りはどこかで失くしてしまったし、エリーもいつものループタイを置いてきてしまったと言っていた。
 自らの在りようを忘れないために身に着けていた青い蝶は、今頃どこかで野の花に埋もれて眠っていると思う。

 私たちがたどり着いたのは、世界の果て――としか表しようのないところ――だった。花に覆われた土地は突然途切れ、崖がどこまでも広がっている。包丁か何かで大地をまっすぐに切り落としたらこんな感じになりそう。
 崖から暗闇に向かって、広い橋がかけられている。私たちは何かに呼ばれるままに橋を踏みしめ、先へ先へと進んでいった。
 エリーに手を引かれて亀裂を飛び越える。石造りの橋はあちこちが欠けていて、どうやってその身を支えているのかわからない状態になっていた。敷石だけが宙に浮いているようにしか見えない場所も多々。進むにつれて橋はだんだんと朽ちていって、浮島のような塊を最後にとうとう途切れてしまった。
 橋がかかっていたはずの向こう岸は見えない。でも、それでいいんだと魂が理解していた。私は一度だけ振り返り、花畑がもう見えなくなってしまったことを確かめてから、落っこちないよう石床に膝をついて橋の下を覗いた。
 広がるのは底の知れない闇。エリーも一緒になって闇を覗いて、顔を見合わせた。
「この先だ」
「そう、みたいだね」
 私より強く呼ばれているはずの彼が言うんだから間違いないんだろう。
 ここが二人のデートの――そして踏みにじられてから、摘まれてから、最後に少しだけ見ることができた、きれいな夢の終着点。
 私たちは浮島の端から少しだけ離れて腰を下ろした。
「たぶん……いや間違いなく、僕たちはここで」
「消えてなくなる。……だよね?」
「……ああ」
 ぽつり、ぽつりと、言葉にして確かめた。誰に教えられたというわけでもないけれど、私たちはこのことを知っていた。行き着いた先で消え失せるという予感は、街を歩き回るうちにどこかから自然と染み入ってきたもので、いつの間にか私はそれをごく当たり前のこととして受け入れていた。
 恐怖は湧いてこない。気持ちが全く揺らいでいないといえば嘘になるけれど、胸に渦巻くものは恐れではなくて、たぶん寂しさだと思う。この一日で得た思い出が消え去ってしまうことへの。
 作り直されたほうの私はきっと今も書房で働いている。新しいエリーも、きっと同じように。でも生きている二人は、しまいこんだ想いを口にできないまま、これまでと変わらぬ日々を過ごしているのだと思う。
 愛してるって言われちゃったよ、言っちゃったよ、ってもう一人の自分に自慢したかったなあと思う。でも私がそれを言われる側だったら、羨ましすぎて泣きじゃくってしまいそう。ままならないなあ。
 思い出をどこにも持ちだせないのなら、私が消える瞬間まで大事に抱えておこう。そう決めて、私は隣の肩に身をよせる。幼子をなだめるように、優しく頭を撫でてくれる温もりが心地良い。
「ラビ、僕はさ」
「うん」
「今稼働してるほうの僕に、ラビを娶ったって自慢して、ぶん殴られたかった」
「っふふ」
 つい笑ってしまう。なんで考えてることがそんな方向で被るかなあ。
 やっぱり私たちは似ているんだなあって思った。まじめで、貧乏くじばかり引いていて、愛のためにすべてを投げ出すことのできなかった私たち。もっと愚かだったなら楽になれただろうか。それとも、もっと苦しんだのだろうか。今となっては試すすべもないのだけれど。
「……そろそろ、行こうか」
 甘やかな声が耳をくすぐる。魂の最期に聞くものがエリーの声で本当に良かったと思う。
 私は頷いて立ち上がり彼の手を取った。指を絡ませて、強く、とても強く、握った。
「新しい僕たちは、きっとうまくやっているはずだ」
「そう、だね」
 だから、安心して僕らは消えよう。……ということ、だと思う。深淵を見つめる彼の横顔は、今まで見た中で最も美しかった。私はその芸術の手を引いて、浮島の端へと導く。あと一歩踏み出せば奈落へ真っ逆さまの場所まで。
「こうやってくっついていたら、消える間際にちょっと混ざったりできるかな」
「破片が入り混じるような感じ?」
「うん。そんな風にちょっと思った、だけ」
 私の根も葉もない希望を、エリーは真摯に聞いて、微笑んでくれた。この顔が好きで好きで仕方なかったんだ。
「そうだとしたら願ったり叶ったりだ」
 彼の手が私を抱き寄せる。そのまま吸い寄せられるように口づけを交わして、また見つめあった。愛しい顔をじいっと見て、目に焼き付けた。
「こういう時、なんて言えば良いのかな」
「ご冥福をお祈りします?」
「もう冥福しちゃったよ」
「それもそうだな……じゃあ」
 エリーは少しだけ考えて、すぐに答えを出してくれた。温かな想いに、今まで何度も聞いたあの言葉を添えて。
「愛してるよ、ラビ。おやすみ」
「うん、私も愛してるよエリー! おやすみなさい!」
 彼の足が床を蹴った。とん、と軽快な音をたてて、私たちの身体は宙に投げ出された。
 落ちてゆく。どこまでも、どこまでも深く。
 私は離れ離れにならないように彼の身体にしっかりとしがみついて。
 彼は私を手放さぬように私をしっかりと抱きしめて。
 かき消えるにしても、砕け散るにしても、その瞬間まで私たちはずっと共にある。

 ――おやすみ、ひとときの甘い夢スターダスト
 私たちはきっと、幸せだったよ。