本来ならもっと閑散としているらしい夜の船着き場は、今は溢れんばかりの人でごった返している。私たちは人の流れに乗ってここまで来たけれど、やっぱり一度この場を離れることにした。行列が解消されるまでどれくらいかかるんだろう。
「どんな船かぐらい近くで見たかったなあ」
「やっぱり人が減ってからにしよう。時間はまだあるはずだから」
聞きなれた、私の大好きな声は、雑踏の中でもきちんと拾うことができた。その声色はどこか嬉しそう。私と過ごす時間が延びることを喜んでくれたのかな。都合のいい解釈をした私は、彼の手を握りなおしてその温かみを確かめる。指を互い違いに絡めて。
人ごみを離れ、少し歩いた場所のベンチに腰かけて一息。隣に座る彼の顔を見ると、ぴたりと視線がかみ合った。
「ね、エリー」
名前を呼ぶ。なんとなく、口にしたくなって。彼は「なに?」と笑顔で応えてくれた。
私の同僚であり、親友であり、家族であり、あと……夜の寂しさを溶かしてくれる人。私や他の同僚たちは、エリルベートという名前を少し縮めてエリーと呼んでいる。私もそっちのほうが呼びやすいしかわいいと思う。
「どこか、時間潰せるところありそう?」
「ああ。下調べなら済ませてる」
そう言って彼は得意げに左の目を細めてみせた。眼帯の下にしまい込まれたもう片方の目も同じ形になっているんだろう。
まっすぐ几帳面に切り揃えた髪と、いつも眠たそうに見える目が特徴的な、私の大切な人。昔はもっと髪を伸ばしていたんだけど、短くするというからその前に少し遊ばせてもらったら、この頭をすっかり気に入ってしまって、以降おおよそいつもこんな感じだ。
「……何やってんの?」
急に懐かしさがこみあげてきて、彼の髪を指先でいじってしまっていた。でも、嫌な顔はされない。
「その、そういえば最初にぱっつり切ったのってどれくらい前だったっけ……って思って」
「髪?」
「髪」
「何だよ急に」
「いいじゃん別にー」
エリーはくすぐったそうに笑って私に肩を寄せた。もっと好き放題してくれって言っているみたいに。二人きりだと結構甘えん坊だよね。
なんて思っていると、彼はぐいと身を乗り出して顔を近づけてくる。不意打ちで唇を重ねられて、驚いた私はさぞ間抜けな顔をしてたんだろうなと思う。キスをするのはもちろん好きだけど、
「ここ、公衆の面前……」
浮かれた感じのないこの街では、衆目はどうしたって気になるわけで、このバカ。
「でもほら、暗いし、タイミング見計らったし」
言われて辺りを見回してみると、確かに私たちを見ている人はいないようだった。人の群れは船着き場に集まっていて、こちらは閑散としている。私たちに背を向けて歩み去ってゆく者が少しと、暗くてよく見えないところに立っている者が少し。
「おとなしいと思ったらまたそういうの企んでる!」
「でも僕としては、手でお菓子とか直接食べさせてくるほうが恥ずかしいと思うんだけど」
うん、それは思い当たる節があるよ。主にする側で。けどキスするほうが恥ずかしくないって何かおかしくない?
「そうかなあ……」
「じゃあ続きは後で、ゆっくり」
「……うん」
してやったりと言わんばかりの楽しそうな顔が癪に障ったので、視線を逸らしてやった。身を傾けて、私より少し背の高い彼の胸に頭を預ける。そして薄めの胸板に頭をぐりぐり。ぐりぐり。肋骨をいじめるような感じで。
「痛い、乳首もげる」
「もげちゃえ」
「ひどい」
先ほど心で呟いた言葉が私にも降りかかってくる。バカが二人に増えてしまった。それも揃って仲良くニヤついているバカが。
照れ隠しの頭突きに飽きた私は、肩を抱かれながら船着き場を静かに眺めた。すらりと伸びた桟橋は、相変わらず人でごった返している。彼らを見下ろしているのは満天の星と、月齢の異なる二つの月。おかげで夜の河は明るい。人々の中には灯りを手にしている人もいて、地上で輝く星のように見えた。
「離れちゃったけど、目当ての場所は見えたね」
「これも計算のうち」
「嘘だー」
彼らが目指しているのは桟橋に泊まる小舟。私たちも同じだ。帆のない、灯だけを掲げた小舟は、対岸から戻ってくるなりすぐに次の客を乗せて出発する。一度にひとりふたりしか乗せられないようで、待っている人たちはなかなか減らない。
「本当に乗れるのかな?」
「気長に待てばいけるさ。あの船、ラビが来るちょっと前まで止まりっぱなしだったから混んでるんだ」
「そっかー」
先にここに来ていた彼が言うんだから間違いはないと思う。私たち、本当に運がない。一緒に遊びに出ると、二回に一回は何かしらのトラブルに巻き込まれているような気がする。
でもエリーは、こんな厄介ごとを乗り越えてでも、私と小さな船旅を楽しみたいみたい。対岸が見えない大きな河は、ゆるやかに流れながら私たちを待ってくれている。もっと人が減ってから渡し舟の列に並ぼう。二人でそう決めた。
黒い水面は月光を受けて絹のようにきらめいている。なんでも、この河には星屑が溶け込んでいるのだとか。隕石の類とは違う、星の魔力を帯びた粒がどうとか……そこら辺のお爺さんから聞いた話は半分ぐらい忘れてしまった。でも、知りたくなったらまたお喋りな人が教えてくれそうだから、これでいいやということにする。今は細かい理屈は抜きにして、目の前の光景を私の感性のままに楽しみたい。
「綺麗だね」
「ああ……でも、対岸もすごいらしいよ」
エリーの声が耳をくすぐる。耳元で告げられると、さぞかし素晴らしい眺めが広がっているんだろうと心から思えてしまう。私はこの声が本当に好きなんだなあ。
「ラビ」
不意に名を呼ばれて、私は「なあに?」と甘い声で応えた。愛嬌を振りまこうと思ったわけじゃないけれど、つられたというか、なんというか。
「これから、よろしく」
「これから『も』でしょ?」
「それもそうだったね」
ふふ、と二人で笑って、さらに身を寄せ合った。眺める景色は宝石のようにきらめいていて、暗いのに眩しかった。
私はラビィステフ、数多の世界を跨いで活動する出版社『アカシア書房』に所属する記者。……だったけど、今この場での私は違う。長い髪とあまり特徴のない顔を持った、ただの女だから。
そしてここは花と星屑の街。私たちはこれから、この街で小さな冒険をする。