本と言えども決して読みごたえがあるとは言えない厚さのものである。依頼を受けてからの三日間で取り急ぎ上司から許可を取り、下書きを仕上げて推敲し、紙に書き付けて製本を行ったのだ。時間が無い割にはよくできたほうだと男は思っていた。
ひとりでにめくられ続けていた本は今背表紙にたどり着き、棺の上で静かに処遇を待っている。読者の言葉を待っているのは著者もまた同じで、全く表情を読むことのできない相手を前に緊張を募らせていた。
気に入って貰えただろうか。顰蹙は買っていないだろうか。この場で自分もろとも灰にされたりしなければ良いが。考えがすぐ良からぬ方向に行ってしまうのは悪い癖ではあるが、常に最悪の事態を想定し対処法を思案すると言う安全策の裏返しでもある。目の前の棺に収まっている相手を怒らせてしまえば、逃げようと思う暇すら与えられぬまま消し飛ばされることが予想されるため、今は心構え以上の意味を持たないのだが。作り直しの利く便利な身体をしているとは言っても痛い思いはやはり避けたい。
しっとりと嫌な汗の滲んだ手を握り、男はただ静かに雇い主の反応を待った。
『ええ、面白かったわ。ありがとう』
澄んだ女の声が聞こえた。しっかりと聞き取れるが空洞に響くことのないこの声は、実際に音として発せられたものではなく、送りつけられた思念を声として頭が処理したものだ。男は今すぐに胸を撫で下ろしたい気持ちを抑えながら深く息を吐いた。
今回の仕事は雇い主のために本を書くというもので、読みたい話の傾向を問うと「たまにはぞっとするような話が読みたいわ」と要求された。しかし元より空想することを苦手としており、必死に頭を捻っても話らしい話は浮かんでこなかった。そのため体験談を記すという逃げの一手に転じたが、それは意外にも上手く行ったらしい。
棺の上、何もない空間に波紋が浮かび、その先に見えるものが揺らぐ。そして地と垂直に生じた偽りの水面から、死人のように褪めたか細い手がすっと現れ、本を掴んで再び空間の歪みへと消えた。
『後でもう一度読むわ。ところでこれ、実話なの?』
「全て実際に体験した仕事です」
『そう、苦労してるのね』
棺の女がくすくすと笑った、気がした。頭の中に響く声は上機嫌で、労っているようにも面白がっているようにも聞こえる。あるいはそのどちらも。
『昔はね、私のために本を書いてくれる人がたくさん居たのよ。恋の話が読みたいと言えば乙女の甘酸っぱい思いを。心躍る冒険が知りたいと言えば勇敢な戦士や探検家の話を。皆こぞって私に捧げてくれた』
封じられたその姿を窺い知ることはできない。過ぎた日を懐かしむような口ぶりは、彼女の心を、姿を、歩んできた道を、好き勝手描くに足るキャンバスとなった。しかし本当にただ夢想するだけ。一介の傭い人が首を突っ込むべきではない、と今までの経験が強く語っている。
『……こんな話をしたってしょうがないわよね。ねえ、エリー……同じ仕事は二度請けられないのかしら?』
しかし寂しがりの相手をするぐらいは許されるだろうとも思えた。
彼女が真に言いたいことは質問の向こうに透けて見えている。男は小さく息を吐き、落ち着きのある声で答えた。
「いいえ、経験があれば断ることができると言うだけです。二度目以降は取材にはならないのでなるべく避けていますが、楽しければ私的な時間を使ってまた従事することがありますよ」
『そう! ならまた、いつか』
「はい、貴女のための本を届けに来ます」
浮かべる笑みは自然とこぼれ出たもの。
仕事の合間に仕事をすることになるが問題は無い。
彼にとってはそれが一番の休息なのだ。
(職歴三三一・神格直属文筆家)