ぴちゃりと音を立てて、吐瀉物が湿った地面を叩き、沈黙する。少女は深く息を吐いて、ほろりとこぼれた雫を手で拭った。
「ごめんなさい……」
ぶちまけてしまった汚物は、口にしたばかりの食料だったもの。今や貴重になってしまったそれを無駄にしたことに、少女はひどく胸を痛め、懺悔の言葉を紡いだ。
「仕方ありませんよ、この有様ですから」
そばに控えた妙齢の女が、少女の背をさすり、できる限りの許しを与える。それが気休めにしかならないと理解しながらも。
清流を川底ごと閉じ込めたような、澄んだダークブルーの瞳が、従者をひたと見つめた。
「申し訳ないと思うのなら道を急ぎましょう。儀式さえ行うことができれば解決します……きっと」
「そう……ですね、弱気になっている暇はないのですものね」
少女は手をぐっと握り、前を見据えた。何度か訪れたことのある静かな森は、すっかりその形を変えてしまっていた。
多くの植物がしおれ、悪臭を放っている。嗅覚を蹂躙し、生命の営みを妨げようとする。
原因は葉や地面にまとわりついた毒の泥だった。触れた者に病をもたらすという、呪いに満ちたこの泥が、世界を脅かし滅ぼそうとしているのだ。
神乞いの巫女は、神殿に属する歌姫の中から選ばれる。
エモ・コは讃美の歌を捧ぐ者として、そして民の生活に彩りを添える者として、よく通る高い声で日々歌い続けた。そして今日、神乞いの儀を行う巫女として指名され、急遽洗礼を受けたのだった。
心優しく見目麗しく、そして誰よりも高らかに讃美歌を響かせることのできる彼女こそ、神へ嘆願する役に相応しいと誰もが認めた。
輝く大きな眼とつややかな肌は、どこにいても注目を集め、称賛の的となる。それでいて驕ることなく、あらゆる者に慈愛をもって接する少女は、神殿の宝と言える存在だった。
「かしこまりました。私の命に代えてでも、成し遂げてみせます」
任命に応える声は震えている。しかしそれでも、渦巻く不安に絡みつかれながらも、エモ・コは儀式に挑む決意を固めたのだった。
「神餐の蓄えはいつまで保つのでしょうか」
「日頃と同じように食べて二日、節制を促して六日というところですね……倉庫の多くが毒に呑まれてしまいましたから」
エモ・コは自らの手をきつく握りしめる。神殿長の、そしてこの世界に暮らすすべての民の期待に、応えなければと。
神から授けられる『神餐』は、どれも美味で栄養価が高く、民の娯楽であり命綱でもある重要な物資である。この地に住まう者たちは、定期的に授けられる神餐を蓄え、日々の糧としていた。
ときに神餐が現れないこともあるが、皆で集まり祈りの歌を捧げると、飢える前にはまた神餐が与えられる。
この地は神の寵愛を受けた楽園であった。
先日、神餐が降る約束の地に、毒の泥が流れ込むまでは。
「エモ・コ、少し休みなさい。神殿の戦士たちが手を尽くしても、毒に侵された道を切り拓くにはまだ時間がかかりますよ」
「ですが、まだ毒に侵された者の手当てが……」
「そちらは他の者に任せましょう。貴方は旅立ちに備えるのです、道は険しいものになりますからね」
老齢の神殿長が、優しい声色で諭すように命じる。少女は小さく息を吐き、己の短慮さを恥じ入るように、「はい」とだけ応えた。
毒の泥と呼ばれているものは、この世界に存在する泥とは全くの別物である。約束の地になだれ込んだその災厄は、大地を広く汚し、この世界を急速に弱らせていった。
毒が流れた集落は、二度と立ち入れぬ呪われた地となり、汚泥を浴びた者は次々と病に倒れた。
すべての民を脅かす災厄に立ち向かうため、神殿の者たちは古から伝えられる儀式――神乞いの儀を執り行うと決めたのだった。
災厄の獣現われしとき、あるいは、大地が穢れに満ちしとき。霊峰の頂上に位置するという神乞いの地で、神の世界へと続く門を巫女ただ一人でくぐり、命を懸けて嘆願を行うべし。
さすれば神は応え、災厄の獣を討ち取るだろう。あるいは箱舟を遣わし、すべての民を新天地へ導くだろう。
エモ・コは言い伝えが示す通り、神乞いの地へと向かおうとしていた。
神殿の戦士たちは、集落を襲う獣を駆逐する使命を帯びている。
しかし今は武器を板に持ち替え、固まり始めた毒の泥をかき分けることを役目としていた。
寝ずの作業を続けた結果、神乞いの地へと続く道はおおよそ拓けた。毒の悪臭に包まれながら、巫女とその供たちは汚れた道を進む。
泥が身を汚す不快感に顔をしかめながらも、一歩一歩、世界を救うために。
呼吸をするだけで身を蝕む毒に耐えること暫く、エモ・コとその護衛たちは、ようやく毒溜まりを抜けることができた。霊峰の麓へと差し掛かかったのだ。
この大地が抱える山はどこも低く、寒さへの備えがなくとも登りきることができる。一団は疲弊した体に鞭打って坂をひた登った。
毒の臭いは今や世界全土を取り巻いており、毒溜まりを抜け霊峰に登ってなお追いかけてくる。エモ・コは従者と手を取り合い、ひっきりなしにこみ上げる吐き気と戦いながら、霊峰を登り続け――ついに神乞いの地へとたどり着いた。
「ここは、本当に神のおわす地のそばなのですね……天蓋がこんなにも近いなんて」
エモ・コが暮らす世界は、平らな天蓋を備えている。神は時々この天蓋を持ち上げ、巨大な体で世界を覗き込むのだった。
神の地へと続く門は、その天蓋にへばりつく形で存在していた。
「私たちが足場となりましょう。歌姫様……いいえ、巫女様、よろしくお願いします」
「……はい。必ずや、すべての民の平穏を取り戻してみせます」
弱気を身の内に押し込め、門を見上げる。この先にどんな困難が待ち構えて居ようとも、少女はそれを乗り越え、家族を、友を、すべての者を、救い出さなければならなかった。
寄り集まった戦士たちを足場にすると、門の取っ手を掴むことができた。がこん、と無機質な音を立てて開いた小さな門に、エモ・コはどうにか身を押し込み、トンネル状の狭い通路を歩んだ。この形を見ているとなぜだか心が躍る。
暗闇の中、埃の積もる通路を進み続ける。この道がどこまでも続いているのではないかと不安になったころ、風の流れを感じ、少女は歩みを速めた。
「ここは……」
たどり着いた先は、暗闇のまっただ中。天蓋らしき平らな地面を踏みしめ、エモ・コは辺りを見回した。彼女の住まう世界には存在しない、赤や緑に光る星が、いくつか遠く光っている。
不可思議な空間は、一握りの冒険心と、それを覆い隠すほどの恐怖を呼ぶ。ここは世界を造りし神のお膝元なのだと、否にも応にも実感してしまう。
エモ・コは大きく息を吸い、神々の住まう地に来てなお漂う毒の臭いを感じながら、力の限り声を張り上げた。
「神よ、天上におわします神よ! 我らの声をお聞きください! 大地が毒に侵され死に絶えようとしています!」
喉が潰れても構わない。命を摘み取られたとしても致し方ない。愛する故郷のため、愛する者たちのために、少女は声を張り上げる。
「どうか怒りをお鎮めください、私めの命を捧げます! どうか!!」
静寂の中、エモ・コはすべてを賭して嘆願を続ける。ただひたすらに祈り、叫んで、そして――
「えっ……ひゃあっっ!?」
物音と共に、あまりにせっかちな夜明けが訪れたかと思うと、神の世界の天蓋が輝きだし――世界が眩い光に包まれた。
「来たぞ! 鍵ぐらいかけろ、不用心すぎ」
真夜中、日暮れよりも夜明けのほうが近い時間。焦りと怒気をはらんだ声が、マンションの玄関に響いた。
ごくごく普通の会社員である渓太は、明日(正確にはすでに今日である)も朝から仕事だというのに、悪友からの通信によって叩き起こされ、友の部屋まで駆け付けたのだった。
自動運転のタクシーに揺られ、十分ほどでたどり着いた友の部屋には、鍵がかけられていなかった。それどころか、脱ぎ散らかした靴がドアに挟まり、戸締りすらできていない始末。
「ナツどこ、起きてたら返事して」
靴を脱ぎながら、短い廊下の先、友がいるであろう部屋をねめつけて名を呼ぶ。扉の向こうで、ぴぃー、ぴぃー、と甲高いアラーム音が鳴り続けているようだった。
ドアノブに手を伸ばしたところで扉が開き、渓太をここに呼びつけた張本人が、床に手をついて這いだしてきた。
「けーたぁ……」
彼は頬を涙で濡らし、弱々しく呻いている。
この夏樹という男は、二十代半ばとなっても未だ高校生と間違えられるような、若々しく整った顔立ちを持っていた。
小さく纏まった輪郭にぱっちりとした眼、すうっと伸びた鼻筋。その愛らしいかんばせを活かし、ファッションモデルを務めている。しかし今このときばかりは、若者の憧れとは程遠い姿となっていた。
色素の薄い肌は酒で赤らみ、眼もまた泣き腫らしたことにより充血している。薄い唇から、そして静かに開いたドアの向こうからは、胃酸の悪臭が漂った。渓太は安堵の表情を見せたのも束の間、臭いに顔をしかめることとなった。
洗面所からタオルをひったくると、友のそばにしゃがみこみ、呆れながらも汚れた顔と服を拭いてやる。命に別条がないことはすぐにわかった。
「意識はあるな。何が起こったんだ、助けてだけじゃ解らないぞ」
「う、うう……もっちーを助けて……」
音声通信で渓太を叩き起こした夏樹は、酔いつぶれ錯乱しながら、「助けて」と泣きじゃくったのだった。
何らかの事件に巻き込まれたのではないか。警察を呼ぶべきか。しかし夏樹が酒でしょうもない失敗をして泣きついてきたことは以前にもあったな……そう考えを巡らせた結果、まずは自分の目で状況を確かめることにした。その判断は正しかったらしい。
「よくわかんないけど、もっちーがやばいんだな?」
頷いた夏樹を横向きに寝かせ、洗面器と枕代わりのバスタオルを宛がってから、惨事になっていると思しき部屋に立ち向かった。
まずは電気をつけ、足元の安全を確かめる。いきなり吐瀉物に足を突っ込んでしまってはかなわない。
意外にも汚れていなかったフローリングを歩み、夏樹が示したもの――『もっちー』の飼育箱を覗いて、「うっ」と呻き顔をしかめた。
夏樹が飼っている『もっちー』こと人造生命体コロニモチは、専用のテラリウムで飼育し、姿を観察して楽しむためのペットだ。夏樹は大掛かりなテラリウムを自宅に設置し、傍目に気持ち悪いほどの愛情を注いでいた……が。
「こんな所に吐くやつがあるかバッッッカ野郎!」
細やかに管理されていたはずの飼育箱は、こともあろうに吐瀉物によって汚されていた。それもコロニモチの住処である内部が。
マジックミラーとなっている飼育箱の上部、餌を入れるためのハッチは開きっぱなしで、汚物をこびりつかせて異臭を放っている。流し台か何かと間違えたのか、ここに胃の中身を吐き出してしまったようだ。
ケースの上部には、ハッチの他にコントロールパネルが備え付けられている。吐瀉物の付着具合から察するに、錯乱したままパネルを弄ったらしい。
こいつは音声入力に対応していないようで、酔いすぎた脳で蓋のロックを外すことができなかったと見える。
そしてパネルの隣には、パイプで内部と繋がっている、樹脂の網でできた透明なドームがあった。
人造生命体であるコロニモチは、飼育環境が著しく悪化した際に、ここに飛び出して飼い主に助けを求めるようプログラムされている。鳴り続けているアラーム音――だと思っていたものは、テラリウムから抜け出してきたコロニモチの鳴き声だった。
全長五センチほどの、うっすらと透けた白い大福のような体。短い足に触手めいたひょろ長い手。そしてつぶらな単眼と小さな口を備えた、スクイーズタイプのマスコットのような生物が、休みなく鳴いていた。
まん丸いダークブルーの眼が、渓太をひたと見つめた。
「ぴ! ぴぃー! ぴぃー!」
「おーよしよし、もう大丈夫だからな……」
「ぉぷ」
ドームを開けようと手を伸ばすと、鳴いていたコロニモチはぽてんと転び、口から白い液体をこぼした。嘔吐したのだろうか。状況が状況だけに、弱り果てていても仕方がない。
「げ、ごめん」
「ぴ……ぴぃ……」
渓太は慌てて手を引っ込め、携帯端末で飼育トラブルの対処法を調べだした。世話のしかたは大まかに知っていたものの、緊急時にどう扱えばいいのかまではさすがにわからない。
筒状のものを用意すると入ってくれる、という知識を得た渓太は、食品ラップの芯を使った避難装置を拵えた。
試しに目の前の一匹に向けてみると、それはおずおずと筒を覗いて入り込んだ。段ボール箱で拵えた避難所へと運ぶことができ、救助者一号となる。
つぶらな瞳が渓太を見上げ、ぴぃ、とまた甲高く鳴いた。
「お前、他のやつより目でっかくて美人だな」
「ぴぴぃ……」
「その鳴き声……いちばんかわいいやつ……嫁にはやらない……」
振り返ると、洗面器を手にした夏樹が、床を這うように近づいてきている。
友の助力を得て希望を見出したのか、顔色は若干よくなっている、ように思えた。
「だいじょぶ、そう?」
「ああ、どうにかできそう。ナツは寝てて」
「ありがと……けーた大好きぉぶぅぇっおぼぼご」
「だから寝てろって!」
洗面器に胃液を吐く友を叱咤し、作業の続きに取り掛かる。なぜ泥酔するまで酒を飲んだのか、後によくよく問い詰めると決めて。
埋め合わせに何を奢らせるかを考えながら手を動かす。飯を食べながら、何か悩みがあるのなら聞いてやろう、と思いを巡らせた。癒しを求めてペットを飼うのはいいが、それだけで鬱憤を発散しきるのは無理がある。
「もっと早く頼れよな……」
コロニモチの避難とテラリウムの清掃は朝方まで続いた。
エモ・コが神乞いの儀式をやり遂げたことにより、すべての民が救われた。
神が遣わした箱舟に乗り、施された神餐を食べて待つことしばらく。神は大地を浄化し、泥と共に多くのものが取り除かれた地に、再び民を送り出したのだった。
弱っていた者たちも、清潔な水で身を洗い休むことにより回復した。殺風景になった集落を復興するべく、多くの者がせわしなく働いている。住処を作るための資材が与えられたため、資源不足への不安も解消された。
「お母さん、神様の話してよ!」
「また? ふふ、本当にその話が好きなのね」
のちに子を産んだエモ・コは、小さな命の頭を撫で、優しい声でかつての冒険を語った。せがまれて何度も、世界を救った美しい声で。
「――それでね、神様は私に何かを語り掛けたの。神様の言葉だったから、何を言っていたのかまではわからないけど……きっとすてきな、とてもすてきな言葉だったのよ」
「すごいすごーい!」
時間は穏やかに過ぎてゆく。世界を囲う果ての鏡の向こうで、この世界を管理する神が二柱に増えたことを、誰も知りもしないまま。
小さな生物たちの生活は、その後ずうっと、平穏無事に続いたという。