フライパンにサラダ油を垂らしながら呟く。とろりと流れたそれはすぐに粘度を失い、さらさらであつあつの液体となって行き渡った。今回はにんにくは入れない。
そこに収めるためのステーキ肉を取ろうと手を伸ばすと、メイはボウルを手にしたまま後ずさって避けた。まな板ごと持ち上げた肉は、室温でゆっくりと温めてある。
「ギューシ?」
「牛の脂。肉焼くのとかに使えんの」
「へー。どれくらい昔? うちじゃ見たことないけど」
「二十年ぐらい前かな。十かそこらの誕生日の時に母ちゃんが使ってたのだけは覚えてる」
「私まだ幼児じゃん」
俺を見上げる視線が『おじさん』と語っていたが見なかったことにする。三十路なら少なくとも職場では若手だ。今のうちに食っとけよ……と上司に言われた大きな肉もまだ食える。だからじゅわじゅわと油が唸る音も心地よかった。
すじを断ち、ミートテンダーでたくさんの穴をあけたステーキ肉は、粗挽きの黒こしょうを纏って焼き上がりを待っている。
換気扇を回していてもなおよく香る、肉の焼ける匂い。二人で使うには狭いキッチンにすぐ充満した。
「ちょっと肉の袋取って」
一言頼みこむと、メイはふかし芋を潰す手を止め、シンクに追いやられていたものを渡してくれた。
肉が入っていた透明な袋には、調理法を示したシールが貼られている。そこに『ミディアムレア』と書かれていることを確認し、記憶が間違っていないことに安堵した。焼き上げてからしくじりに気づいても遅い。
「今月はこれ以上やらかしたくないんだよなあ」
焼き色がついたらすぐにひっくり返し裏面も焼く。厚い肉の中まで火を通す必要はないし、火を通してはいけない。これは必ずミディアムレアに焼き上げなければならない。
牛でも豚でもないこの肉は、手にした時からその焼き加減が定められていた。
「余裕ができたらメイも練習してみなよ」
「ええー」
メイは器にラップをかけながら露骨に嫌そうな顔をする。そんな表情もかわいいけれども、肉を焼けないのではこの先が少々心配だ。
「ベリーウェルダンならできるし」
「あれ硬いじゃん……」
「っていうかほんと細かすぎ」
だん、と電子レンジのドアを力強く締める音。彼女の怒りの矛先は俺ではない。焼き加減がこと細やかに決められていることに不満を洩らしているだけだ。
俺だって注意書きのない肉を買ってやりたいが、今月は財布が許してくれそうにないので我慢してもらうしかなかった。ちゃんと節約して、旅行、行きたいだろ。
バットに敷いたアルミホイルに肉を乗せる。両面に焼き目が付いたそれを手早く包みながら、スマートスピーカーに話しかけてタイマーを設定した。
香ばしい匂いと熱をぎゅっと押し込んで待つ、それが正確に焼く秘訣だ。
「こいつらはさ」
メイが皿にカットサラダを盛ってゆく。肉焼きは苦手だというものの、それ以外の手際がよいことにはとても助けられていた。
「もうちょっと謙虚さを覚えてほしいよ」
「一番最初は焼き加減の注文が二十二段階だったらしいぞ」
「もっとクソじゃん」
二十二段階。それでは職人の店か工場でしか扱えないし、なかなか焼きたてを食べられない。それでは困ると調整が図られた末に、この肉の焼き加減は十段階に定められた。そう聞いている。
生の状態がロー、表面を炙っただけのブルーが続き、もう少しだけ焼いたブルーレア、鰹のたたきに似た状態のものがレア。その次がミディアムレア。
家庭で調理できる『特定食用肉』はミディアムレア以上の焼き加減を指定されたものだけだ。俺はなるべく柔らかいのが好きだから、大抵ミディアムレアを注文するようにしていた。一番調理に慣れているからという理由もある。
日本語ではこの分類を網羅できないらしい。大昔の日本人はステーキを食べていなかったそうだから仕方ないんだろう。
「付け合わせ全部乗せたよ」
「ありがとさん」
そう礼を告げたところでタイマーがぴろぴろと鳴った。アルミホイルを開くと、湯気と共にジューシーな香りが改めて広がる。それを手早くカットし、皿に盛り付けて、温めて貰ったピリ辛オニオンソースをかけて完成だ。
分厚い肉が横たわる皿は、特別な食事でもなんでもない。幼いころはごちそうだったはずの大きな肉は、今や節約料理へと変わっていた。
「ごちそーさま」
「ん」
最後のひとかけを白米とともにかきこみ、よく噛んで、飲み込んで、軽く手を合わせる。
俺の取り分は一枚強、メイは一枚弱。分厚く赤身の多い肉は、きれいさっぱり胃の中へと消えた。
新しく買ってみたピリ辛オニオンソースとの相性は上々。とろみの強いソースは、柔らかく温められた肉とうまく絡んだ。
飽きが来ないようにするにはソースやスパイスを次々変えていくしかない。次は久々にわさびで食べるか……なんて思いを巡らせていると、テーブルの真ん中に置いてある丸っこい機械が喋りだした。
『特定食用肉の満足が確認されました。ポイントが付与されます。満足度87%、評価は良好です』
それは緑色のランプを点滅させながら、俺の手腕を無機質に評価し、静かになった。食卓には空の皿と静寂だけが残される。
「私が来るとだいたい八割超えてるね」
「そりゃあ俺の腕前がいいから」
「まあ美味しいけどさ」
メイはどこか悔しそうに告げて食器を片付け始めた。美味しい、と言って貰えるのは素直に嬉しい。きっと胃も心も満たすことができたんだろう。
しかしこの機械が計測しているものは、ステーキを食べた人間の満足度ではなかった。
焼かれて食べられた肉から発せられる何かを検知している、らしい。
「……あっ」
何の気なしにテレビのチャンネルを変えると、ちょうどこの肉の出所についてのニュースが流れていた。
特定食用肉自治区がまた少し縮まった、と。続けて流れたコマーシャルは政府からのもので、特定食用肉の消費を求める恒例のものだった。
「これ私たちが生きてるうちに本当に消えるのかな」
「わからん」
特定食用肉、通称は特肉――遺伝子改造により作り出された、自己増殖する食用肉が開発されたのが二十年ほど前。
それが突然意志を得て暴走し、途方もない量に増えてしまったのが十八年ほど前だったはずである。
特肉たちは脳を持たないはずなのに意識を持ち、兵器で応戦する人間たちと一進一退を繰り返しながら、やがて一か所に集まり独立を宣言した。
それで奴らが何を要求したかと思えば、人間を追いやるでも支配するでもなかった。ただ「我々が望むがままに加熱され食べられたい」という理解に苦しむ要求を突きつけだしたのだ。そしてこの要求を突っぱねる限り我々は増え続けるとも。
食糧難のない世界のために行われた研究が、食を強制する生き物を生み出してしまった。今の小学校の教科書にはそう書いているらしい。
しばらく世界は混乱を続け、順応し、人間と特肉の間で取引がなされた。人間が特肉を調理して食べること、および特肉たちの被食欲求が満たされた数だけ特肉の体積を減らすこと。俺たちの要求を呑めば大人しく消えてやろう……という訳だった。
肉を食って世界を救え。そんなスローガンがあちこちに溢れ、あっという間に世界中に浸透した。
俺としては別に世界を救おうなんて気持ちはない。ただ政府が流通させる特肉が格安で、さらに稼いだ満足度に応じてキャッシュバックがなされるからというだけの話だ。
貧乏人の食べ物は炭水化物から肉へと変わった。畜産業界は阿鼻叫喚だ。食べられることを約束された特肉は、増殖することなくパッケージの中で大人しくしている。
テレビの中では特肉をモチーフとしたキャラクターが踊っていた。名前はトニー。メイはその脱力系な顔を見つめて、ぽつりと呟いた。
「この世界で特肉食べたことない人ってどれくらいいるのかな」
「結構いるんじゃないか? 金持ちなら食わなくていいし、宗教上の問題でダメって人もいる」
「じゃあ特肉食べたことある人間が全員トニーになっても全滅はしないね」
ホラー映画かよ。なんて口にしてから、そういえば昔は散々警戒されていたなあということを思い出す。慣れとは恐ろしい。
そもそも肉を満足させられれば増殖を阻止できる、だなんて世界になってしまった理由がよくわからない。事実は小説よりも奇なりと言うけれども、これはいくらなんでもぶっ飛びすぎだろう……と当時の俺は思っていたはずだった。
「トニーになる前にできるだけ肉を成仏させとこ」
「なんでトニー化すんの前提?」
注文の多い肉。その望みを満たしてやれば増えない肉。成仏した、ということなんだろうか。輪廻転生から逃げ出すために人間を巻き込むのはやめてほしい。
メイが冷凍庫を除いて特肉の在庫を数える。週末に残ってたら私も焼いてみるよ、とそっけなく言って食器を洗い始めた。
わがままな肉に振り回される日々はまだまだ続きそうだ。