城の周りでは群れないはずの黒い姿が、脳裏にずらりと並んで休みなく声をあげていた。口々に何かを訴えるかのように、耳障りな響きで、どこか悲痛ささえ感じるほどにせわしなく。
目を覚ました少女は、力なく上体を起こしてぼんやりと周囲を見回した。
「なに……ここ、は」
紡いだ声はかすれている。喉がひどく乾いており、痛い。
少女が横たわっていた寝台は、見慣れた柱も天蓋もないものだった。見知らぬ部屋で眠っていたらしい。
地下室と思しき、窓のない部屋だった。狭苦しく、家具は飾り気のない寝台とテーブルのみ。机上には青く光る何かで満たされた花瓶が置かれ、硝子越しに部屋を薄暗く照らしていた。
少女の他には誰もいない。しかし唯一の出入口である扉の向こうから、けたたましい鴉の鳴き声が響いていた。夢うつつの意識で幻視した鴉は、この異様な環境のせいで生じたものらしい。
空気はひんやりと湿っている。かびと埃のにおいがしそうな部屋に見えたが、もっと強いにおいがそれらを塗り潰していた。
手にしていた掛け布、そしてなぜか剥き出しになっていた胸にべったりと染み付いていた、血のにおいが。
「ひっ!?」
驚きと恐怖に、喉がひゅうと鳴った。慌てて寝台から飛び出すと、裸足で何かを踏み付けてしまう。石の床に転がっていたのは、布製の人形たちだった。そのいくつかは布団と同じように血を浴びている。
自らの身体を見下ろすと、着ているネグリジェ――見覚えのない、おそらく自分のものではないもの――の胸部が無残に引き裂かれていた。あらわになった肌は血で染まっているが、傷や痛みはない。治癒の術を施されたのだろうか。
乾いたどす黒い血の中には、ひとつ鮮やかな赤が混ざっていた。薔薇が咲いている。胸の膨らみの間、肌にぴたりと張り付いた一輪の薔薇は、なんと肌から生えていた。
それは引き抜こうとすると体の一部として痛み、握ると早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。心臓から生えているかのようだ。
少女は薔薇の除去を諦め、肌を汚していた血を掛け布でぬぐった。乾いた血をぽろぽろと床にこぼしながら、どうしてこんなことになったのかを必死に思いだそうとしていた。
彼女の名はロザリンド・フォン・キール。キール王国の第一王女である。蜂蜜色の髪とアクアマリンの瞳、そして穏やかな気質をもって浮かべる笑顔は、多くの国民に愛されていた。
近頃の彼女の生活は慌ただしく、持てる力すべてをもってして国事と勉学に励む日々を送っていた。島国であるキール王国は、海上貿易の中継点として常に狙われる立場にある。大陸で近年急激に力を伸ばしているテイルラント王国と国交を深め、争いを避けることは急務であった。
急ぎ足で進められた婚姻は手早く進み、城を出る日が明日に迫っていた。そんな中。
(そうだ、たしか庭で薔薇を摘もうとして、そして)
――何者かに背後から刺されたんだ。
陽が雲に隠されてしまったのか、突然暗くなった瞬間のこと。背中に冷たさと未知の痛みを感じて、なすすべもなくその場に倒れ伏してしまったのだ。
血まみれの何かが胸を貫いて飛び出したことを思い出し、恐怖で歯ががちがちと鳴り出した。
誰に襲われたのか。なぜあの怪我で生きていられたのか。胸から生えた薔薇は一体何なのか。ここはどこなのか。なんで、どうして、と呟いて震えるだけでは答えは出なかった。
わかっていることを単純につなぎ合わせ、ひとまず安直な答えを導き出すことにした。何者かが庭で自分を刺し、この部屋に拉致して、傷痕に薔薇を植え付けたのだろう、と。
人間の身体に植物を接ぐすべなど聞いたことがない。草木の精霊から力を借り、花で身を飾る術は体得しているが、あくまで肌に纏うだけのものである。
何より、薔薇から精霊の気配を全く感じない。力の残滓すら嗅ぎ取れない異物は、馴染み深い精霊術で施されたものではないことを語っていた。
精霊の不在は己が体に留まらなかった。部屋はおろか、その周囲のどこにも精霊がいないようなのだ。生まれついたときから共にあった存在と切り離されたと気づき、身にぞわりと寒気が走った。
精霊術に代わる技術を研究しているというテイルラントなら、このような空間を作り出せるのだろうか。どうあれ長居はしたくない。ロザリンドは引き裂かれていたネグリジェを脱ぐと、寝台のシーツを剥ぎ取り体に巻いた。
血に汚れた布ではあるものの、ひとまず裸身を隠せたことに安堵する。意識を失っていた間に、自身の体が穢されていないことを願った。
「道をお示しください、精霊王様」
震える声で祈りを捧げてから、扉に触れた。鍵は意外にもかけられておらず、きしんだ音をたてて開く。その瞬間ロザリンドはまた息を呑むこととなった。
鴉と目が合ったのだ。
暗い廊下にたむろしていた鴉たちは、即座に鳴くのをやめてロザリンドをひたと見つめた。しかし襲ってくる気配はない。
不思議なことに、もっと遠くから聞こえていた鳴き声もいっせいに止み、当たりは静寂に包まれた。
よくよく見れば、鴉たちは異様ないでたちをしていた。脚が三本あるもの、頭が二つあるもの、小さな角が生えたもの――恐怖がもたらした勘違いであってほしかったが、どれも現実のものだ。
「わっ、わたくしは、あなたたちの敵ではありません……きっと……だから、その、通してくださいね……?」
小さな声で語りかけながら、裸足で廊下を進んでゆく。鴉たちがその道行きを遮ることはなかった。時折乾いた鴉の糞を踏み、顔をしかめることになったが、多くの鳥がいる場所にしては汚れていないように思えた。
廊下にはキールで常用されている精霊灯がなく、代わりに青く光る小瓶が転々と設置されていた。薄明かりに照らされた壁と床は、ロザリンドが目覚めた部屋よりもずっと汚い。半ば廃墟と化しているようで、物置らしきほかの部屋もかびのにおいを纏っていた。
相変わらず人の気配はない。鴉たちに見つめられながら歩むうちに、地上へ向かうと思しき階段を見つけた。ここから外に出られるかもしれない。一縷の希望を胸に足を踏み出した瞬間、
(誰かがいる!?)
その向こうから近づいて来る足音にすくみ後ずさった。急ぎ足で、行く手を塞ぐように階段を下りてきたのは、見知らぬ者――であるどころか、人間であるかどうかすら怪しい何かだった。
大柄な男、のように見えた。騎士の隊服らしきものに身を包んでいるが、どこもかしこも血で染まっており階級すら読み取れない。
顔を見ようと見上げた先には顔がない。首から上がきれいさっぱり消失しており、そこに乗っていたと思われる頭を片手に抱えていた。
肌には生気がなく、今しがた血を拭ったような跡がある。漆黒の髪の一部が頬に張り付いて不気味さを助長していた。
ロザリンドは呼吸をするのも忘れ、現実味に欠ける姿を前にただただ硬直した。
「姫様」
生首が声を発した。ひどく掠れた低い声を。
胴体と切り離されて苦しいのか、それとも生者への恨みでも抱えているのか、険しい顔をしている。暗色の瞳はまっすぐにこちらを睨んでいた。
「部屋……戻ってください。今、あの……あれを……」
たどたどしい言葉を聞き遂げる前に駆け出していた。きびすを返し、元来た道を一心不乱に。鴉につまづきそうになりながら。
逃げおおせる策があるわけではない。ただ一時でも早くこの場から逃れたくて、体が勝手に動きだしたに過ぎなかった。
しかし無計画な逃走は早々に行き詰まる。目を覚ました部屋こそがこの地下通路の最奥であり、結果として元いた場所に立て篭もるしかなくなってしまった。
扉に鍵はなく、加えて外開きである。出入口の封鎖も叶わぬまま、ロザリンドは部屋の隅で縮こまり、あの化け物が追いかけてこないことをただ祈った。
「う、う、ううっ……!」
床にへたりこむと同時に、膨らんだ恐怖が弾けて涙が溢れ出た。
キール王家を狙う誰かと対峙するかもしれない、という覚悟は決めたつもりだったが、血まみれの化け物が出てくるなど予想できるはずもない。
あの男は私をどうするつもりなのだろう。首を斬り落とし同朋に引き入れるつもりか。あるいはただの使い走りでしかなく、上にもっとおぞましい何かが控えているのかもしれない。恐ろしい想像がいくつも浮かんでは涙となって流れてゆく。
ロザリンドは美貌をぐしゃぐしゃに歪ませ、追っ手に怯えながらただ泣き続けた。しかしあの男がすぐに追いかけて来ることはなく、また響きはじめた鴉の鳴き声が嗚咽を掻き消していった。
首なし騎士と再び相まみえたのは、ひどく長い――ように感じたけれど実際はそうでもなかったかもしれない――時間が経った後のことだった。
鴉たちが落ち着きを取り戻してすぐに、彼が静寂に足音を刻みながら現れた。意外にも紳士的に、扉をノックして「失礼します」と声をかけてから。
部屋に踏み入ってきた首なし騎士は、先ほどの姿から一転し、血に汚れていない服を纏っていた。装飾品を留める場所がいくつか誤っているが、そのデザインには見覚えがある。キール王国の騎士に支給されているものだ。右肩には目が三つある鴉が乗っていた。
「服を、お持ちしました」
男は片膝をついてロザリンドを見上げ、どこかぎこちない動きで袋を差し出してきた。
「あ……ええ、ありがとう」
恐る恐る受け取り、入っていた布を広げてみると、城の侍女たちが着ていた動きやすい服であることがわかる。袋の底には下着と肌着が用意されていたが、明らかに関係のない布きれも一緒くたに押し込まれていた。
「後で湯をお持ちします。先に、お部屋を片付けます」
首なし騎士はそう淡々と告げると、自らの頭をテーブルに置いて寝台を整えはじめた。首の断面は平らになっているらしく、頭が勝手に転がることはない。テーブルに血が流れだすこともなかった。
彼の髪は眉の上と顎の下でまっすぐに切り揃えられていた。キールでこのような髪型をする男は幼子か聖職者ぐらいだが、そのどちらかであるようには到底見えない。
ロザリンドは少しのあいだ息を呑んで男を観察したのち、意を決して口を開いた。
「あの……あなたは、何者なのでしょう」
「姫様の騎士です」
まさか。頭が取れている男を従えた覚えはない。
「なぜ私をここへ?」
「外は、危ないから、です」
信じられない。何かを屠ってきたばかりの化け物がいる地下室より危ない場所があるだろうか。
「その服を着ているのはなぜです、キール騎士団との関わりが!?」
「……それは、その……」
問い詰めると相手は口ごもってしまった。会話が途切れたまま、男は新しいシーツの端を布団に挟み込んでゆく。置いてけぼりの頭は、テーブルから自らの体が行う作業を見守っていた。
その様子を見てふと気付く。これは逃げ出す絶好の機会なのではないかと。
やるしかない――そう決断してから行動を起こすまでは早かった。今は先ほどよりも若干冷静でいることができている。
ロザリンドは着替えが入っていた袋を構え、生首に勢いよく被せた。驚きの声をあげた頭を素早く袋の底に押し込み、それを抱えて部屋の外へと飛び出したのだった。
どのような仕組みであの姿のまま生きているのかはわからないが、おおよそ人の形をしている以上、目隠しをされてしまえば思うように動けないはずだ。そう踏んで。
「姫様! だめです!」
袋の中で叫ぶ声に呼応するように、鴉たちが一斉に羽ばたき行く手を塞いだ。ロザリンドは無我夢中で袋を振り回しながら通路を突き進む。
華奢な背をもうひとつの足音が追う。頭を奪われたにも関わらず、首なし騎士は体だけで駆けてきた。壁に衝突することもなく、辺りがよく見えているかのような動きで。
「止まってください!」
「いや!!」
絹を裂くような声で拒絶して、階段を駆け上がる。最後の段を跳んで駆け込んだ先は開けた空間だった。広い部屋のあちこちに生活用品と木箱が乱雑に置かれている。
そしてその真ん中に、見覚えのあるものが鎮座していた。キールで信仰されている、四対の翼を広げた精霊王の像が。
「どうして……」
その姿には見覚えがあった。それゆえに困惑し足を止めてしまった。
駆けてきた追っ手が飛び掛かってきたのはその瞬間のことだった。袋が手元を離れ、床にぶつかって痛そうな音をたてた。
「ひっ!?」
体格の差は大きく、ロザリンドはたやすく男の腕に抱え込まれてしまう。それでもどうにか逃れようと身をよじった結果、きつく結んでいたはずのシーツがほどけて滑り落ちてしまった。
「い……いやぁ……っ」
頭からさあっと血の気が引いてゆく。下穿きのみの姿になってしまった姫は、歯をがちがちと恐怖に鳴らせて震えた。体に力が入らず、考えうる最悪の未来が脳裏をよぎった。
しかし首なし騎士がその予想をなぞることはなかった。彼は床から布を引ったくると、慌てた様子でそれをロザリンドの体に巻き付けていった。後を追ってきたらしい鴉たちに囲まれながら。
少女の柔肌は隠れたが、すっかり身動きが取れなくなってしまった。男は蛹のような姿にされた姫を片手で支えつつ、もう片方の手で袋を漁り、自らの髪を掴んで頭を引っ張り出した。
「申し訳ない、です、私は、また……」
ぼそぼそと告げる声は上ずっていた。表情は伺えないが、泣き出しそうな顔をしているのではないか……と思える、弱々しい声だった。
「『また』? 何をしたというのです? まさか、眠っているわたくしを、その……辱めたと」
「はずかし……? 肌に触ってしまったこと、ですか」
どうも意図を解されていないようである。女を辱めるということを理解していない口ぶりであるように思えた。
首なし騎士は姫を抱いて来た道を戻っていった。逃げ出したことへの怒りはないようで、整えたばかりの寝台へと運び込んだ後も、何らかの罰を与えられることはなかった。それどころか、着替えを終えるまで律儀に通路で待っていてくれた。
彼は見た目こそ恐ろしいが、自分に危害を加えようとする者ではないらしい。信じがたかったことがようやく身に染み入ってきた。
「……ごめんなさいね、話も聞かずに出ていってしまって」
「いえ……仕方ない、と、思います。こんな、体だから……怖いだろうな、と……」
男は今にも消え入りそうな声で答え、視線を誰もいない方向へとさ迷わせる。――そのしぐさに、漆黒の髪とダークブルーの瞳に、既視感を覚えた。それをどこかで目にしているような気がする。
「ええ、恐ろしいわ……でもあなたは、話の通じる人。そうでしょう?」
「え、ああ……たぶん……」
小脇に抱えられた生首は、ばつが悪そうに答える。少なくとも今は無害であるとわかったおかげで、対話をする勇気が出てきた。
「ですから少しずつでも、あなたに許された範囲で教えてほしいの。……ここは、キール王城なのね?」
「……そう、です」
先ほど駆け込んだ広間は、間違いなくキール王城の聖堂だった。毎日祈りを捧げた精霊王の像を見紛うはずがない。ロザリンドに与えられたこの地下室は、姫様が立ち入る場所ではありませんとついぞ入れてもらえなかった懲罰室だったようだ。
「どうして、あんなに荒れ果ててしまったの……父上と母上は、兄様たちは、城のみんなはどこにいってしまったの?」
「姫様が、そのお姿のまま眠っているあいだに、たくさん、時間がたちました。城の人は……」
首なし騎士が言葉を詰まらせる。ロザリンドは手をきつく握りしめながら、彼の言葉を聞き届けた。
「みんな……化け物になるか、化け物に殺されて、死にました。人も、精霊も。残ったのは……ううん、死ねなかったのは、姫様と私だけです」
嘘だ、と言えたならまだ気を保てたかもしれない。ロザリンドは糸が切れた操り人形のように倒れこんだ。
キール王国の領土である島には多くの精霊が住まう。人々を導き、癒し、時に利用する彼らは、国民たちにとってかけがえのない隣人であった。
その息吹が全く感じられないということは、首なし騎士の語ることは事実なのだろう。すべての国民が島の外に移り住んだとしても、土地に根付いた精霊は動かないはずである。ともすると、精霊をも殺しつくすような、未曾有の天変地異に襲われたと考えるほかはなかった。
意識を取り戻したロザリンドは、得た情報を少しずつ咀嚼しながら、膝を抱えてまた泣いた。ここで涙を枯らせてしまいたいと思いながら。王家の人間が自分だけなのだとしたら、いつまでも悲しみにくれているわけにはいかない。再興の可能性がこの細腕に委ねられてしまったのだから。
どうにか嗚咽を収めたところで、床をも汚していた血が拭い取られ、選んでくれと言わんばかりに靴が並べられていることに気がついた。
テーブルには手紙が残されている。色あせた羊皮紙の上で、姫の騎士を名乗るにしては拙すぎる文字が躍っていた。
「聖堂にいます。起きたら教えてください。ごはんがあります……」
メッセージを小声でなぞり、彼の行動とその理由について考える。
生き残り、あるいは死にぞこないであると言っていたが、あの頭をきちんと首に乗せている姿をどこかで見かけたことはない。しかしその怜悧な目つきと低い声には覚えがあった。騎士団長のアルフレート卿に似ている気がするのだ。
しかしその齢は四十を超えており、死にぞこなって雰囲気が変わったにしても顔が若すぎる。彼ではない。あのダークブルーの瞳は、もっと間近で覗いたことがあるような気がする。
そう、先ほど対峙したときのように覗き込んで、 見上げられたことが。
「……まさか、あの」
ロザリンドは目を見開き、置き手紙をまじまじと見つめた。そして汚れた顔をぬぐい、できる限りの凛とした顔を作って部屋を出ていった。
「食事の前に、城を見せていただきたいの。あなたと一緒なら良いでしょう?」
聖堂――首なし騎士の生活スペースとなっているようで、かなり散らかっている――を訪れたとき、彼は安堵の表情をもってロザリンドを出迎えた。そして願いにも応えてくれた。絶対に離れないでください、と念を押してから。
出発に際して、男は腰にメイスを提げてから、植物のつるらしきものを自らの首に巻き付けた。するとどのような仕組みか、肌に触れた部分が癒着し一体化する。
「それは何? 痛くはないのかしら」
「馬小屋に出たお化け草のつるです。痛いけど、慣れました。頭を落とすと困るので、紐代わりに使います」
「そう……よね。でも、頭がなくても走っていたような」
「鴉の目を借りています」
「どうやって?」
「……私の肉を、食べさせています。血や肉をやると、その……ええと、あの、体が繋がるというか、いうことを聞くようになるものが、ここにはたくさんいて。あ……でも、私は平気です、切ってもすぐに直るように、なってしまったので。……たぶん、姫様も」
男がたどたどしく語る情報は、どれもおぞましく痛々しいものだった。彼はあの地下室を守るため、血を流し肉を削ぎながら戦ってきたというのか。人ならざる姿となった彼が言う、彼以上の『化け物』と。
「姫様? 何か、痛いところでも」
「あっ、ううん、大丈夫です。体は……」
苦い顔をしてしまったらしく、首なし騎士が心配そうに様子を伺ってくる。痛むのは身ではなく心だ。彼が人間らしさをなげうって戦っている間、呑気に眠りこけていた自分が憎かった。
二人はゆっくりと歩みを進め、廃墟と化した城を巡った。鴉たちがその後をついてゆく。
床は汚れ、壁は風化を始めていた。崩落している場所もある。城を彩っていたはずの調度品たちは、残骸となって所々に集められていた。無事だったものは隣の自称騎士がかき集めて倉庫に押し込んだらしい。
「服とか、布とか、食器とか、使えそうなものはなるべく集めました。壊されると困るので、いくつかの場所に分けて置いています」
少し滑らかになってきた従者の話に耳を傾けながら、ロザリンドは硝子の消えた窓から庭を覗いた。
血のように赤い霧が立ち込めた空の下、庭の主として茂っていたのは、見慣れた薔薇の木立ではない不気味な植物だった。人の頭ほどもあろうかという大きな薔薇を咲かせ、枝をぐねぐねとうごめかせている。あの棘に刺されたせいで自分は一度死に、薔薇の蕾を生やした異形の姿として蘇ったのだという。
聖堂に帰り着くと、少し歩いただけなのに、疲れがどっと押し寄せて足が痛んだ。
「本当に何もかも変わってしまったのですね」
「……はい」
男は暗い面持ちで答え、首に巻いたつたをむしり取った。力任せの行いで皮膚が剥がれ血が滴ったが、すぐに新たな皮膚が生成され傷痕を掻き消してゆく。ただ首の断面だけは墨を塗ったように黒いまま変わりがない。
「姫様」
彼は自らの頭を差し出しながら、今まで以上に真剣な様子で告げる。
「私の体は、いつもは死ぬことを忘れています。でも、頭をもとの場所に乗せると、首を切られて死んだことを思い出します。だから私が、悪いことを……姫様が許せないような悪いことをしてしまったら、その……乗せて、ください。強く押さえれば、たぶん、死ぬ」
回りくどい言い方だが、伝えようとしていることはわかった。ロザリンドはそれを聞き届けると、
「命を粗末にすることは許しません。お説教をしますので、部屋へ」
ぴしゃりと言い放って頭を奪い、早足で地下室へと歩んでいった。
首なし騎士は慌てた様子でその後を追う。そして姫に命令される形で寝台に座った。頭を欠いた体は、動きだけでひしひしと困惑を伝えてくる。ロザリンドはその隣に腰掛け、両手で彼の頭を持ってその顔を覗き込んだ。
「姫様、ごめんなさい、私は……」
うろたえる様子に、過ぎた日の姿が重なる。きまりが悪い時、彼はいつも地面をちらちらと見ながら上着の裾を握るのだ。姿が大きく変わり、人ならざる存在になっても、それは変わらなかった。
つい先日――だと思っていた、おそらく十年も二十年も昔になったあの日――のことを思い出し、噛み締める。姫は彼のために薔薇を求めて庭に向かったのだ。
「ヴィルヘルム」
彼の名を呼ぶ。できる限りの優しい声で。
首なし騎士――ヴィルヘルム・フォン・ローレンツは、驚きに目を見開いた。
「大きく、なりましたね」
ロザリンドが知るヴィルヘルムは、齢六つの少年だった。騎士団長アルフレート・フォン・ローレンツの末の子供であり待望の長男、いずれ騎士団を背負って立つかもしれない期待の星。生真面目で心優しいヴィルヘルム坊やは、ロザリンドにとてもよく懐いていた。幼い恋心を隠しきれず滲ませるほどに。
テイルラントへの輿入れを翌日に控えたあの日、彼は姫との別れを呑みこめず、挨拶に来た本人の前で泣き出してしまった。そんな彼のために、ロザリンドは庭の薔薇を摘んで渡そうとしたのだった。遠からず枯れる花とともに、彼の恋心も花びらを畳み、思い出のひとつになればと。
しかし前触れもなく訪れた災厄により、すべてが狂ってしまった。
「姫様、いつから」
「見ているうちにわかりました。どうして名乗ってくださらなかったの?」
「それは……」
ヴィルヘルムは震える声で答える。幼い頃の面影を残した顔で。
「姫様の胸の薔薇が、昨日、急に咲いていて……香りをかいだら、頭がぼうっとして。気がついたら、姫様を傷つけて、血を舐めて……今までは獣の血で我慢できたのに、急に……」
潤みだした彼の瞳をじいと見つめた。生き血を啜る化け物への恐怖を、胸の痛みが塗り潰してゆく。彼の気持ちを思うと、心臓が張り裂けてしまいそうだった。
「私は、姫様を守りたかったのに、こんなことをして……もう生きてる意味がない、死んだほうがいい、と思って。首に頭を乗せたけど苦しくて死にきれなくて……困っていたら姫様が目を覚まして、でもおはようも言えなくて、私は、こんな」
「もういい……もういいの。許すわ、ヴィル。血が足りないならいくらでもあげる。だからもう、わたくしのためにひとりで耐えないで」
主を傷付けた罪を濯ぐためにいつか死ぬつもりでいたのだろう。名を明かさず、一人の化け物として。
ヴィルヘルムは本当に真面目な子供だった。悪事や失態を許す大人がいなくなった世界で、彼がその責任感の強さをこじらせてしまったことは想像に難くない。
ロザリンドは異形への怖れを理性で捩じ伏せ、ヴィルヘルムの頭を抱きしめた。
「明日、あなたをわたくし直属の護衛騎士に任命します。明日からですよ。今日は……今は、わたくしのかわいい弟分でいてくださいね」
切り口が傾いている髪をそっと撫でる。その途端、置いてけぼりだった体がロザリンドの身をかき抱いた。
抱かれながら抱いている、奇妙な抱擁。胸に顔を埋められる形となったヴィルヘルムは、大人の低い声で子供のように泣いた。姫様、寂しかった、とこぼしながら。
二人が共にあること、二人しかいないことを確かめる時間は、ヴィルヘルムが泣き疲れて眠るまで続いた。
「造船所に行けば使える小舟があるかもしれないわ」
ロザリンドの予想を確かめるため、二人は港への道を歩んでいた。
城の外には化け物がたむろしているため、群れに出くわさぬよう慎重に行動した。時折襲ってくる好戦的な獣や不気味な肉塊を、ヴィルヘルムは慣れた手つきで撲殺してゆく。
飛び散る血と脳漿に顔を歪めながら、姫はその一部始終を目に焼き付けた。いつか自身も武器を取り、最低限の護身ぐらいはできるようになるために。驚異的な治癒力を得てしまったこの体でならできるはずだ。
「強くなったのね」
「ずっと、こればかりしてましたから」
「これからは他のこともできますわ。帰ったらお勉強の続きをしましょう」
ロザリンドが目覚めたことにより、ヴィルヘルムは地下室を守り続ける役から解き放たれた。残存する書物から情報を引き出すこともできるようになり、取れる行動の幅は一気に広がった。
島を出て大陸に渡ることも、新たに生じた可能性のひとつである。空を飛べるかたちの化け物は、テイルラントの方角からよく飛んでくるそうなのだ。向かえばこの大災厄についての何かがわかるかもしれない。
「ねえ、ヴィル」
「はい」
「必ずキールを再興させましょうね。あなたとわたくしがいれば、絶対にできますわ」
「……はい、かならず!」
小脇に笑顔を抱えた従者の手を握る。
もう手放さないように、もう迷わせないようにと、強く、強く。