星も月もない夜空の下、色とりどりの光を水に溶いてぶちまけたような川が、さらさらと優しい音をたてて流れている。
水に何らかの魔術がかかっているのか、それとも光る石でも敷き詰められているのか。川はとにかく眩く、立ち尽くす男を照らし続けていた。
若く、逞しい男だった。地味な色あいの厚手の服に、なめし革の鎧を重ねて守りを固めている……が、それは無残にも引き裂かれている。しかし血で汚れた服の残骸の下、男の浅黒い素肌には、なぜだか傷ひとつついていなかった。
男は自らの胸を撫で、首をかしげる。装備がずたずたになった理由は覚えているが、なぜこの身が無事なのかがわからない。
「死んだはずじゃ……」
呟きに応える者はいない。虫の声すらしない川べりで、男はただ呆然と立ち尽くしていたが、やがて上流へと向かってゆったりと歩きだした。他にすることがなかった。
川は対岸が見える程度の幅で、水面を虹色にきらめかせながら、ゆるやかに流れ続けていた。
寄り添う川岸に草木は一切生えておらず、獣の気配もない。川の水以外に明かりがないため、川を離れて遠くに行くことはできそうになかった。
灯火の魔術を教わっておけばよかった、と悔やんだ。仲間にみっちりと叩き込んでもらったとしても、実用的な灯りを作れるかどうかは怪しいところだが。
魔術に詳しい仲間の顔が脳裏にちらつく。彼は生きて帰ることができただろうか。祈るぐらいはしてもいいだろうと思い、立ち止まって胸に手をあてた。目を閉じ、仲間の無事を精霊に祈ってから、また歩き出した。
川原はゆけどもゆけども変わらぬ景色が続いていたが、やがて向かいから人影が現れた。男よりもずっと小柄な誰かが、川原での散歩としゃれこんでいるらしい。
駆けては驚かせてしまうだろうかと考え、男ははやる気持ちを抑えながらゆっくりと近づいていった。
やってきたのは、人形のように小ぎれいな姿をした少女だった。長袖のワンピースを身に纏い、長いブロンドの髪をきらめかせながら歩いている。齢は十と少しといったところだろうか。
少女は男の存在に気づいても足を止めず、すたすたと目の前まで歩み寄ってきた。
そしてぱっちりと開いた目で男を見上げ、ほほ笑んだのだった。
「こんばんは! 珍しいこともあるのね!」
「えーと、ああ、こんばんは」
全く物怖じしない様子に、かえって男のほうが面食らってしまう。
これだけ明るければ、血で汚れた服に気づかないはずはないだろう。この少女はただの子供ではないに違いない。
心の隅にいまだ留めていた、『運よく生き延びてどこかへ流れ着いた』という可能性は川に流してしまうことにした。
「あの……ここ、どこっすか。死者の国とかそういうとこかな」
「そうじゃないけど似てるかも? でもそっちは行ったことないから、あまりわかんないや」
「へー。じゃあ君はもしかしてあれか、冥府に行く前の案内人みたいな」
少女は鈴の鳴るような声で「うーん」と鳴くと、どこからともなく短い棒を取り出した。先端に星光を模した装飾が施された、おもちゃのようなものを。魔術を行使する杖にしてはデザインが幼い。
「見てもらったほうが早いよ、そーれっ!」
小さな手が杖を振った。男に向けてではなく、悠々と流れる川に向かって。
虹色に輝いている水面の一部が、突如異なる色へと変わった。川面がどこか異なる場所を映し出したのだった。
水や鏡を使って精霊や魔の者と交信する手段があることは知っている。しかし虹の川が男に見せたのは、複数の人間――それも男がとてもよく知っている者たちだった。
豪快に酒を飲む男。幸せそうに串焼き肉を頬張る女。話に夢中になっている男と少年……見間違うはずがない、ここしばらく行動を共にしてきた仲間たちだ。彼らと共に荒事を含む頼まれごとをこなすことで男は生計を立ててきたのだった。
酒場の卓を囲む者たちは五人。自分以外の全員が揃っている。最も気にかけていた魔術士の男も、ちびちびとジョッキの中身を啜りながら何かを語り続けていた。音は置いてけぼりを食らっているようで、会話の内容はわからない。
彼らの姿が偽りであるようには見えなかった。この特異な状況が、水面に映る光景に説得力を持たせている。己の知識の外側にあるこの川なら、自分には想像も及ばない方法で奇跡を成しえるだろうと。
「よかった、生きて……」
まず浮かんだのは安堵だった。仲間たちは無事だった、よかった……という思いが胸をじんわりと熱くさせる。しかしその直後、男はあることに気づいて言葉を詰まらせた。
仲間たちは楽しそうに酒盛りをしている。浮かれすぎではないのか。自分が死に、彼らの輪から欠け落ちたというのに。
なんで、と自身に問う。彼らが自棄を起こしている様子はなく、いつもの調子であるようにしか見えない。しかし仲間の死を揃って無視できるほど薄情な連中ではなかったはずだ。
あまり賢くはない頭をひねっていると、ひとつの推論が浮かんだ。
「もしかして、俺が死んでからだいぶ時間が」
経った? と訊ねようとして、水面に映り込んだものに阻まれた。酔った友が得意げに持ち出した、人の頭ほどもある大きな巻き角によって。
「うえっ、何だこれ、えー」
見間違うはずがない、あれは自分を引き裂いて殺した巨獣のものだ。高く売れるであろうそれを換金していないということは、この酒盛りは討伐依頼の打ち上げなのだろう。日を跨いですらいない。
男はうずくまり頭を抱えた。そうする他なかった。
「俺、そんなに存在感薄かったっけな……」
渦まいた寂寞が胸を締め付ける。自分が今まで感じていた絆とはいったい何だったのだろうか。
ああー、とうめく男の肩を、小さな手が叩いた。
「お兄さん、勘違いしてるよ」
隣を見上げると、少女が杖で頬を強くつついてきた。星を模した飾りは意外にも鋭く肌に食い込む。
「あっ痛い痛いやめて勘違いって何」
少女は水面を指さした。男はやむなくまた立ち上がり、宴会の様子を注視して、素っ頓狂な声をあげた。映像にできたてのローストチキンと、それを掴む見覚えのある手が映り込んだゆえに。
護りの術がかけられた腕輪と、親から継いだ浅黒い肌、そして治癒魔術でも消えない古傷……間違いなくあれは、
「俺!?」
「だいせーかい!」
少女が手を叩いて満足げにほほ笑む。男は唖然として川を見つめていた。そうするしかなかった。
「えーと……俺、死んだんじゃないの」
他に頼るものもなく、隣に佇む少女に尋ねる。彼女は見せつけるように杖を振って、その先端で男の鼻を小突いた。
「あなたは星なの」
「星?」
「うん。ひとはみんな生まれつき星を持っているの。輝かしい未来の灯が消えそうになったとき、星はあるじの代わりに流れて落ちるの」
「ほあー……」
間の抜けた相槌を打ちながら話を咀嚼する。
自分は星。星は主の代わりに流れる。今ここにいる自分は、少女の言う「輝かしい未来」に辿り着けなかったもの。
己の最期を思い出す。実にあっけなく死ぬものなのだなあと、意識が潰える瞬間に思った。
流れ落ちる星ではない、その主たる自分だったら、あの時どうしたのだろうか。上手いこと巨獣に目潰しでも喰らわせられたのだろうか? 仲間たちと酒を酌み交わしている自分は、きっと何かしらの方法で窮地を切り抜けたのだろう。
「あっちでメシ食ってる俺が本物で、こっちの俺にはもう未来がないっつーことか」
ぽつりとこぼすように問うと、少女は「うん」と頷いて、男の手をそっと握った。小さな手は柔らかく温かかった。
「あなたはここで終わるけど、星は死なないの。この川を流れていって、辛いことや苦しいことをみんな水に溶かしてから、また誰かのもとへいくの。星を待ってる赤ちゃん、いっぱいいるのよ」
感嘆の声をあげつつ川に視線を戻すが、水面はただ虹色にきらめくばかりだった。仲間たちの姿はもう二度と見ることができないらしい。しかしそれでいい、それがいい、となぜだか思えた。
「あなたのあるじも、あなたのあるじの仲間も、たくさん星を持ってるみたい。きっと英雄になれるよ」
「マジか、そいつはいいや」
優しく語りかけてくる少女の声がとにかく心地よい。ふわりと体から力が抜けるような心地を覚えて、男はその場に尻餅をついた。痛くはなかった。
少女は男の背後に回り込み、背に体を寄せて、いかつい身体に覆いかぶさった。男の頭に顎を乗せて、片手で視界を奪いながら、幼子に言い聞かせるような調子で言葉を連ねた。
「でも、あなたは形を持ってきちゃったうっかりものの星だね。これじゃあ川で転がれないよ」
「俺もそう思う」
「わたしが何とかしてあげる、ふわーってしててね」
ふわーってするって何なんだ。普段の自分ならそう返していたところだったが、今では不思議とその意図するところがわかった。体から、そして魂から力を抜いて、自身の存在を薄れさせてゆく。自分が自分から離れてゆく。
そのしるべとなったのは、少女が口にする言葉の群れだった。半透明の蔦。柱の枝。雲の切れ間から見える青い太陽。五本足の鳥が夜明けを謳い、卵が伸び縮みしながら転がり坂を上る。
ありもしないものたちを追ううちに、男の意識はすっかり霧散してしまった。同時に体――のような形をしていた、記憶の残骸――も消え失せ、少女の足元に緑色の石だけが残される。男に似たごつごつとした形の石が、淡く光って地面を照らしていた。
少女はそれを拾うと、精一杯の力で川に投げ込んで、ほほ笑みながらまた川下へ歩いていった。