ある風のない日のことだった。
稀にではあるが、洞窟に流れる冷たい流れよりも、広い水場で喉を潤すことがある。
雪山の麓に流れる川水を、気が済むまで飲みたい。ふと思い立って、フルフルはねぐらから這いだしてきた。
降り立った地面からはほんのりと草が薫り、空気はやんわりと暖かい。時々やってくる雪山の麓は、雪に閉ざされた高所や、湿った空気に覆われた沼地とは違う匂いに満ちている。いつ来ても新鮮ではあるが、獣や竜の匂いが若干嗅ぎ取りづらく、少々不安になる場所でもあった。
歩みを止めれば、ゆるやかに水の流れる音が聞こえる。水辺は近い。
水場へと歩み寄り、地に手と膝をついて顔を浸せば、頭から足の先まで目覚めるような、爽やかな冷たさが感じられた。凍りついた洞窟を流れる水とは違う、柔らかい味わい。そう思える。
思う存分に水を飲んで顔を上げた。長すぎる前髪が顔に張り付くが、厭うことはない。元々彼の両目は光を映さないゆえに。
不便ではないかと問われることは多いが、元より視覚というものを知らないため、彼にはいまいちぴんと来ない質問であった。聴覚と嗅覚、触角、そして勘があれば足りないものなどないのだ。
冷たい雫を袖で拭い、起き上がろうと地に着いた手に、何か硬いものが触れた。
始めは石かと思ったが、手触りはざらざらしており、擦ると表面に付着したものが剥がれ落ちた。
つんと鼻を突く、鉄に似た匂い。ハンターの持ち物のようだが、普段の戦いの中で感じる匂いとは少し違っていた。
そっと手に掴めば、意外にも小さく、軽い。元は刃物だったようだが、劣化しきったそれは既に殺傷能力を失っている。
顔を寄せると、より強く香る。どこかで嗅いだことのある香りのようだった。
記憶を探る。思い出せる限り遡ってみるが、それらしいものは出てこなかった。とうに忘れてしまった、幼い頃の記憶なのだろうか。
理由は良く解らないが、懐かしいものが胸をくすぐる。
思い出してみたい。この温かみのルーツを。
きっかけは、そんなある日の気まぐれからだった。
◇◇◇
結局、あの鉄の塊は沼地の寝床まで持ち帰ってしまった。そして一晩が経ったが、進展は何一つとしてない。
鉄臭い武器の亡骸を手に入れたのは良いが、それを枕元に置いてみたところで、ただ悶々と眠りを妨げるだけであった。
どこかで知ったはずなのに、思い出せない。小骨が喉につかえたかのような、もどかしい感覚だけが残る。
何か特定の物事について、こんなに考え込んだことは無かった。だからこそ、昨晩は体を動かしてもいないのに疲れてしまったのだろう。
気ままに狩って、食べて、寝てを繰り返す普段の生活に、いつもと違うものを持ち込んだだけでこの有様だ。
同じ沼地に住む者に、お前は何を考えているのか解らないとよく言われているが、実を言えば何も考えていないのが事実だった。頭の回転が遅いのだろうとは思うのだが、その反面余計な悩みを抱えなくて良いので、このままで良いと彼自身は思っている。
(外、出よう)
それでも彼なりに、ここで寝転がっていても仕方がないという結論を導き出した。
重い腰を上げ、翼を具現化させれば、ふわりと体が軽くなる。広いとは言いがたいねぐらから身を乗り出して、外へ飛び出した。洞窟の天井に開いた風穴が、フルフルにとっての玄関だ。
羽ばたく音に、洞窟内をうろついていたアイルーがびくりと身体を強張らせる。が、飛び去っていくフルフルの姿を視認し、ほっと息をついた。
特に当てもなくねぐらを飛び出し、たどり着いたのは湿った草原だった。細い川が流れており、時々水を飲みに訪れる場所だ。
陽があまり射さないためか、いつ訪れても空気がどんよりと淀んでいるように感じる。川の水はそれなりに美味しいが、雪山の水には劣る程度のものだ。泳ぐ魚も少ない。
水溜りを震わせながら着地し、一息。洞窟の冷えた清澄な空気が一番落ち着くが、この湿った空気も嫌いではなかった。
これで一人の時間を邪魔するものがいなければ完璧なのだが。
まず感じ取ったのは、ゴムような匂い。とは言えども、本物のゴムの木を嗅いだことがないため、フルフルは『あいつの匂い』とだけ認識している。
続いて、段々と近寄ってくる羽ばたきの音。また面倒くさいのが来た、とフルフルは頭を抱えた。
「よう、モヤシ野郎! そろそろ決着付けねぇか!」
すぐ隣に降り立ったのは、灰色の毒怪鳥・ゲリョスだ。
身の丈はフルフルと同じ程だが、身体のラインが良く出るゴム質の衣服と、お世辞にもガラが良いとは言えない顔つきのため、かなり刺々しい印象を覚える。前髪をおでこの上で一つに束ね、鉱石をあしらった髪留めで留めているのだが、これは本人曰くチャームポイントらしい。
「……毒臭い。ゴム臭い。邪魔臭い」
「おいおい引き篭もりすぎて挨拶の仕方も忘れたのかよ」
沼地を拠点のひとつとしているため、こうやって時々顔を合わせることになる。そして会うたびにこうしていがみ合ってしまうのだが、なぜかゲリョスはちょっかいをかけにくることを止めない。
むしろそれが目的で、フルフルが訪れる水場に顔を出しているようにも見えた。
「昨日は姿が見えなかったからよ、ついにハンターにふん縛られて連れて行かれたのかと思ったぜ」
「お前じゃないんだから、そんな間抜けはしない」
モンスターがハンターに捕獲される、という事態は珍しいことではない。罠と麻酔薬によって無力化された人型のモンスターは、大抵は連れて行かれた先で、ゆっくりと身包みを剥がされることとなる。時々沼の外から酷い格好で帰ってくる者がいるのはそのためだ。
ゲリョスもフルフルも未だ捕らえられたことはなかったが、この頃ハンターが怪しげな薬入りの球体――吸うと急な眠気に襲われる――を投げつけてくるようになったため、あの全裸の犠牲者たちと同じ道を辿るのも時間の問題といった状態だった。
フルフルさん、あいつら酷いんスよ……と泣きついたドスファンゴの姿が脳裏に浮かぶ。そして同時に、つるりと剥かれた自分を指差して笑う、ゲリョスの嫌みったらしい顔のシミュレーション図までもが。
想像するだけで腹立たしいが、ここで殴りかかっても疲れるだけなので、話題を変えて苛立ちを振り払うことにした。
「昨日は、雪山に行ってた」
そっけなく言い放って、顔を逸らした。
「雪山? よくンなバカみてえに寒いところ行けるよな」
「蒸し風呂みたいな密林に遊びに行けるほうがバカだと思う」
話題を変えても、相変わらず調子は噛み合わない。思い起こせば出会った時から噛み付きあい続きだ。
何がきっかけだったのかは覚えていないのだが、二人の交流は殴り合いから始まった。
フルフルが得意とする放電、ゲリョスが得意とする髪留めの鉱石を打っての閃光、そのどちらもが互いに通用しなかった。光の射さない目と、電撃を遮断する装束に遮られて。その結果、フルフルが鼓膜を破壊しかねないボリュームの咆哮をあげながら、苦しみながらもゲリョスが撒き散らした毒霧に身を焼かれる、壮絶な消耗戦へと発展。最終的には、弱りきった二人の竜が素手で殴りあう泥沼の戦いとなった。
それ以降も幾度も拳を交えてはいるのだが、未だ決着は付かない。
「おめーは本当に出会ったときから変わってねえな、そのかわいくねえところが」
「……出会ったときて、いつだっけ」
「なんだ、覚えてねえの?おめーがこの沼にやって来た時だよ」
「やって……きた?」
思わず訊き返した。
フルフルの持つ最も古い記憶は、ゲリョスとの殴り合い、そして沼地の洞窟で寝泊りした感触だ。それゆえ、てっきり自分は沼地で生まれ、育ったものだと思っていたのだが、
「自分で言ってたじゃねえか。山を降りて来たって」
意外にも記憶力の良い腐れ縁が、あっさりとそれを覆した。
「あの頃はまだ俺もおめーも小さかったしな。しかし当時から頭が良いことが俺の良いところ」
「そうか、道理でここで考えても解らない……ちょっと、出かけてくる」
「おい人の話聞けっつーかドコ行くんだよ!?」
何かを思い出したかのように、唐突にフルフルは立ち上がり、翼を具現化させる。思い立ったことをすぐ実行に移せるのが、深いことを考えない者なりの良いところだ。
状況が飲み込めない様子のゲリョスを置いて、上空へと羽ばたいた。後で不思議ちゃんだとか、女との約束でも思い出したのかと揶揄するだろうが、そんなことは今はどうでも良かった。ただ思いついたままに、極寒の地へ。
どこか腑に落ちないものを感じながら、ゲリョスは小さくなる後姿を見送っていた。
◇◇◇
再び訪れた雪山は、いつも以上に激しい吹雪に見舞われていた。
大粒の雪が横殴りに、容赦なくフルフルの肌を叩きつける。寒さに強い身体はしているのだが、雪が纏わりつく感覚は好きになれなかった。本来ならこんな日は、雪の入らないところに籠って惰眠を貪っているはずだ。
ひとまず一休みをしようと、降り立ったのは洞窟。雪山の最も大きな洞窟には、度々世話になっていた。ひときわ静かで、地面に散らばった何かの骨が、クッション代わりとなってくれる。移動や戦いに疲れたときには丁度良い休憩場所だった。
ここの辺りならば、実は幼い頃に住んでいた……という事実が有り得るかもしれない。そう考えて、嗅覚を研ぎ澄ませる。
(……違う)
しかし、探していたあの匂いを感じられることはなかった。盛大にあてが外れてしまい、脱力感が身を襲う。
今日は一旦帰ろう。そう考えて翼を広げようとした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
何かが高速で、すぐ近くまで近づいてきている。先ほど自分がくぐった空洞からその気配を感じ、身構える。
間髪を入れずに、その影は降りてきた。舞い降りたと言うよりも、降ってきたと言った方が正しい。空中で翼を畳んでしまったのか、突然飛び降りて脚で着地したといった様子だった。足元の骨や枯れ枝が折られ、衝撃で四方八方に吹き飛ぶ。
飛び降りてきたのは、凶暴さに目をぎらつかせた飛竜の男だった。着込んだジャケットには虎模様が描かれており、その目の鋭さと相まって、肉食らしさを存分に漂わせている。
こうやって対峙したことはないが、遠巻きに匂いを嗅いだことはあった。砂漠の飛竜、ティガレックスだ。
寒さに強いわけではないのにも関わらず、好物のポポを食べるためだけに雪山に訪れるという、凄まじい無謀さと根性を持ち合わせた男だと聞いている。暑いのは嫌だからと、沼地や雪山にしか出没しないフルフルにはとても真似できない芸当である。
そんな逸話を持つ男が、本当にポポの匂いを連れてやってきたのだから、驚きもする。
ティガレックスがフルフルの顔を見据える。見つめられている側に視覚はないが、それでも気迫で刺されているような感覚はぎりぎりと伝わって来た。真に強い竜は、纏う空気に覇気が滲んでいる。
しばしティガレックスはこちらの様子を伺っていたが、フルフルに敵意がないと判ると、ぷいと顔を背け、抱きかかえてきたポポ族の青年の服を乱暴に剥ぎ取り始めた。
「ひゃ、やめ……っ」
「黙ってろ」
今すぐこの場で事を始めるつもりのようだ。
目の前の竜など居なかったとでも言うように、冷たい地面に押し倒し、喉元に吸い付く。ポポの青年の口から、恐怖とも喘ぎともつかない声がこぼれた。
(うわああああ!)
見えない目のやり場に困り、フルフルは顔を背けた。
ティガレックスについては数多くの伝説がある。ハンターの心を最も多くへし折った竜だとか、一度に七人ものポポを侍らせて肉欲の限りを尽くしただとか、そんな類のものが。その一つに『想像を絶する傍若無人さ』もあったような気がする。我が道を行き過ぎである。
邪魔にならないうちに退散しよう、とフルフルは抜き足で歩み始めたが、ふと気にかかるものを感じて足を止めてしまった。
あの鉄の匂いがする。
その元は突然の来訪者、もしくはその連れらしいが、近づいてみないことにはどうにも解らない。かと言えども、凶暴さで知られる轟竜の食事を邪魔するほど無謀ではない。
状況に困り、その場を離れられずにいたフルフルを、ティガレックスが一瞥した。
「混ざりたいのか」
「いや、違っ……」
「やらんがな」
なら訊くなよ、と突っ込みを入れたくなったが、恐ろしいのでその言葉は呑み込んでおいた。ゲリョス相手と同じノリで接して、無事に帰れる気がしない。
なら、何故この場を離れない。そう疑問に思ったティガレックスは、フルフルの注意がある一点に向いていることに気がついた。
「欲しいのはこれか」
言い放って、掴んだ布を投げつけた。フルフルの足元に落とされたのは、ポポから毟り取った衣服の一部だった。
慌てて拾い上げれば、長く手触りの良い毛皮に、何か硬いものが絡まっていることに気がついた。
鼻をくすぐる、古い鋼の匂い。
「……これは、どこで」
「山頂近くで捕まえた」
自分が探していたのは、これかもしれない。だとしたら、この場にもう用はない。何が楽しくて他人の情事など覗かなくてはならないのか。
毛皮を強く握り、慌てて上空へと舞い上がった。地上から聞こえるポポの悲鳴が、そこはかとなく気持ち良さそうなものに変わりつつあるが、聞かなかったこととする。あまり関わりたくはない。
再び吹雪に晒される中、落としてしまわないようにと毛皮から件の金属を摘み上げる。
無残にも錆び付いた鱗のようなものだった。
◇◇◇
求めていた手がかりを得て、沼地へと帰り着いた頃には、既に陽が暮れてしまっていた。
まっすぐにねぐらへと向かうはずだったが、途中で良く知った気配を感じた。予定を変更し、寄り道と洒落込むこととする。
凍った洞窟の同居人、ショウグンギザミだ。フルフルが狭い場所にねぐらを構えているため、広い場所に転がりたがるギザミとは寝所の奪い合いがなく、仲は良好である。
ばさついた青い髪に、どこか攻撃性を感じさせる顔立ち。身に纏った青いアンダースーツはかなりの頑丈さがあり、ハンターを苦しめていると聞く。その上から羽織ったコートは、鎧竜グラビモスから貰ったお下がりなのだと、何度も自慢げに聞かされた。
その同居人が大笑いをする声が聞こえたので、思わず気になってしまった。すぐ隣にあのゲリョスが居るようだが、今は気にしないこととする。
「な、何でおめーがここに……っ」
「何って、帰ってきただけ。ただいま」
「っふ、お帰りフルフル……ぶふっ、くははははっ!」
何がおかしいのか、ギザミは息も絶え絶えといった様子で笑い続ける。状況が飲み込めず、フルフルは首をかしげた。
僅かに香ったのは、血の匂い。ゲリョスが少々怪我をしているようだ。ハンターとでも一戦交えた後なのだろうか。
「どうしたの、そんなに笑って」
「ああそっか、フルフルは目見えてないんだもんな……じゃあ教えてやるよ、こいつが今」
「だー!言うな!言うなって!」
楽しそうなギザミに対して、ゲリョスはひどく取り乱している。ギザミに慌てて掴みかかるが、口を塞ぐことはできなかった。
「ハンターに何でかスーツの下だけもぎ取られてさ、下丸出しの……ぶふっ!」
言い切れず、途中で噴出してしまうギザミ。ゲリョスが絶叫で隠そうとはしていたが、フルフルの耳にはしっかりと聞こえてしまっていた。
「うわ、変質者」
「違ええええよ!」
この腐れ縁を一方的にからかえるときほど楽しい時間はない。無表情が基本のフルフルの口に、思わず笑みが浮かんだ。興奮するとすぐに涎をたらしてしまう癖のせいで、いささか不気味に見えてしまうのだが。
ゲリョスは悔しそうに歯を食いしばりながら、残されていたゴム質の上着を脱ぎ、股間を隠すようにしてそれを腰に巻き付けた。彼なりの苦肉の策ではあるのだが、
「ふ、ふんどし……ぶふっ」
すっかり笑いの壷にはまってしまったギザミには、かえって滑稽に見えてしまう結果となる。
「てめっ……じゃあ何すりゃ満足すんだよ」
「もう満足してるって、あんたは今の姿が一番輝いてる」
「一生それでいればいい」
「すっげえニヤニヤしながら言うんじゃねえよバーカ!」
気分が落ち着いてきたのか、ギザミはようやくまともに言葉を発せられるようになった。時々笑いすぎて泡を吹くことがあるため、周りからは心臓に悪いと言われているのだが、今日は踏みとどまったようである。
「よし、十分笑ったし帰るか」
「ああ帰れ帰れ、クソして寝ろ」
妙にすっきりした顔で、ギザミが二人に手を振る。そして両手で勢い良く地面を掘り返し、地中へと消えてしまった。
彼がどうやって軽々とあの固い地面を掘り返しているのかは、竜の翼の仕組みと同様、この世界の大きな謎と言われている。
その姿がきれいさっぱり地中へと消えてから、辺りは途端に静かになってしまった。
「で、探しもんは見つかったのか?」
不意に、ゲリョスが問いかけた。
「ああ……半分だけ、見つかった」
「半分?良く解んねえけど、あんまり急に居なくなんなよ」
ゲリョスの視線が宙を泳ぐ。どうにも顔を見つめていられないといった様子ではあるが、フルフルの四感では、そんな機微などは解らない。
「どうして」
「何でってその……ハンターに剥かれて帰ってくるんじゃねえかって期待しちまうだろ」
「そんなに丸出し仲間が欲しいんだ」
「うっせぇよ!」
珍しい注文に、何か企んでいるのかと勘ぐってしまったが、思わず声を荒げてしまうゲリョスの様子は普段通りだ。昨日から色々と考えすぎたせいだと納得して、フルフルは悪友に背を向けた。
「僕も帰る、また今度」
「あ、ちょっ」
有無を言わさず飛び立って、ねぐらを目指す。くだらない話に興じるには疲れすぎていた。
「いやー、見事にフラれたでござるなぁ」
「なっ!?」
またしても取り残されたゲリョスに、背後から声をかける者がいた。
ゲリョスが声のしたほうを睨みつければ、一瞬だけ帽子を被った男の姿が浮かび、すぐにかき消える。
「もしかして、さっきからずっとそこに居たんすか」
「うむ」
誰も気付かないのも無理はない。先程からこの古竜――霞竜オオナズチは、自らの姿を透過し、息を殺していたのだから。
プライドが高く、あまり他者と関わりを持ちたがらない古竜の中では、オオナズチは変わり者であった。気さくで好奇心が強く、こうやって姿を消しては人の話に首を突っ込みたがる。また、ゲリョスの手癖の悪さの師であるという事実も、彼の俗っぽさを表すエピソードの一つであった。
「おぬしももう少し素直になっても良かろうに」
「……何すか、素直って」
「ははは、若いとは素晴らしいことでござる」
ふてくされるゲリョスに、オオナズチが笑いかける。姿を消したままのため、それを伺い知られることはないのだが。
「まあ、これでも飲んで気を取り直すと良いでござろう」
そう告げると同時に、何もなかったはずの空間から、一本の小瓶が表れた。
拾い上げて中を覗けば、蜂蜜色の液体がなみなみと入っている。ハンターからくすねた滋養強壮剤、いわゆる元気ドリンコだ。
「……あざーっす」
師のむずがゆい心遣いに一応の感謝をしつつ、口をつけた。液体のようでいて、喉ごしは若干ねっとりとしている。
整理のつかない自分の頭の中に似ている、とゲリョスはぼんやりと考えた。
◇◇◇
斯くしてフルフルは、三日連続で雪山を訪れることとなった。
三日目の天気は快晴。先日の嵐が嘘のような、澄み渡った空をしていた。髪を撫でつける風も、冷たくはあるが昨日よりずっと優しい。
握り締めてきたものの感触をもう一度確認する。主に飛竜が好んで衣服にあしらう飾りのようだが、手にしたそれは無残にも錆び付いていた。その錆びた鱗が、手元に二枚。誰かの服から剥がれ落ちたものなのだろう。
ティガレックスは、この鱗(が毛に絡まったポポ)を山頂付近で捕らえたと言っていた。その情報を元に山頂へとやってきたのだが、そこにはハンターが立てた旗が一本立てられているだけであった。
最も高い場所から飛び降り、一段低い場所へ。着地して辺りの空気を大きく吸うと、何故か知っている場所のように思えた。
「あっ……」
思わず声をあげる。僅かにだが、あの錆の匂いを感じ取ったのだ。
一歩一歩を踏みしめて歩けば、そこは確かに知っている場所だった。幼い頃を過ごした、思い出の場所。長く離れすぎていて、そんなことも忘れてしまっていた。
何か大きなものに包まって、いつも空を見ていた。晴れの日も、雪の日も、吹雪の日も。いつかこの冬空の向こうに旅立ってみたいと思っていた。
身体が大きくなった頃、その夢は果たされた。そして同時に、描いていた夢のことを忘れてしまったのだ。
しかしこの雪山も、寒さに強いフルフルにとっては、沼地の洞窟と同様に居心地が良い。何故、旅をした後、再びこの地に戻ってこなかったのか。
記憶を頼りに辺りの探索を始めた。固まっている雪を強引に掘り返し、撒き散らす。単純な作業を暫く続けていると、探していたものがついに顔を出した。
それは長い年月を経てぼろぼろに弱りきった、一着の外套の切れ端だった。
金属質の素材で覆われており、握り締めたままのものと同様の鱗飾りもついている。しかし表面はすっかり錆び付いてしまっており、古い匂いが鼻をついた。とても懐かしい匂いだった。
破れていると言えども、それなりに重量感のある外套を摘み上げる。
この外套こそが、幼い頃のフルフルが被っていた服であり、家だったのだ。
雪山へ帰ることがなかったのは、老朽化したこの外套が破れたからであった。家を失った地にもう用はない、幼い頃の自分はそう考えたのだろう。
錆の匂いが強まったのは、こうして過去に思いを馳せていた瞬間のことだった。
錆を纏ったものが近づいてきた、と言うのが正しいだろう。目の前のものに集中していて、気がつかなかった。
すぐ近くに近づいていた竜の存在に。
「あなた、は」
圧倒的な威圧感に潰されそうになりながら、やっとのことで発した声は震えてしまっている。
そこに立っていたのは、長身の竜。鋼竜クシャルダオラと呼ばれている古竜だった。
長い髪、羽織った外套、広げた翼、その全てが銀に似た色で、陽の光を浴びて光輝いている。精悍な顔立ちと相まって、身体全てが鍛えられた鋼でできているのではないかと思う者もいると言う。光の無いフルフルの世界にも、気迫だけは痺れるほどに伝わった。
唯一つ毛色が違ったのは、片手に掴んだ物体だけであった。クシャルダオラが纏っている外套と同じデザインのものだったが、色は赤茶色にくすみ、錆びきっている。今フルフルが手にしている切れ端の、かつての姿だった。
青い瞳がフルフルを見据える。魂の底まで覗かんとするような、鋭い眼差し。
「ずっと昔に、僕に住処を与えてくれた人ですか」
光を映さぬ目が、まっすぐにクシャルダオラを見つめた。
「……そんな覚えはない。要らないものを棄てただけだ」
言い放ったその内容に嘘はないのだろう。たまたまその場に幼いフルフルが居合わせて、住処にした。ただそれだけのこと。
さして興味もないと言った様子で、クシャルダオラは手にしていた外套を放り捨てた。
「好きにしろ」
身を翻し、大きな翼をはためかせる。巻き起こる風圧で、降り積もった雪を吹き飛ばしながら、クシャルダオラは上空へと昇っていった。
残されたフルフルは、打ち捨てられた錆の外套をそっと拾う。
自らの体躯には不釣合いなそれに包まれば、まるで幼い頃に戻ったかのような気分になった。錆の匂いがつんと鼻につくが、不快ではない。
ぼんやりと懐かしさに浸りながら、遠ざかる香りを気が済むまで感じていた。
探していたのは、あの鋼の背中だったのだ。