終の地への流刑を言い渡された。
手記ぐらいなら持ちこんでも良いと言われたので、今日より新しい日記を付けることとする。
私の行いも、お父様の研究も、間違っているとは思えない。
神の教えとはこのような小娘が異を唱えるだけで揺らぐものなのか。そうに違いない。
だからこそ私を追放しようとしている。神の加護のない、呪われた地とやらへ。
敬虔な信徒にとっては、主が愛した地を離れることは、死よりも重い罰らしい。
一方的な裁判の場でふんぞり返っていた者たちは、私がこの日記帳に、後悔と懺悔の言葉を書き連ねて死んでゆくことを望んでいるのだろう。
奴らの望み通りになってやるつもりなどない。
どんな過酷な環境であっても必ず生き延びて、本当の歴史をこの世に残してみせる。
私の行いも、お父様の研究も、間違っていなかったと証明してやるのだ。
ぽたり、と雫が頬を濡らす感触に顔をしかめる。滴った朝露の冷たさが意識を取り戻させた。
まだ少しぼやけた視界に広がったのは、深く茂る木々と、その葉の隙間から覗く青い空。森の中だろうか。辺りは草木と湿った土の香りで満たされている。しっとりとした空気を大きく吸いこんで、迷い子は自分が何者なのかを思い出した。
女だった。物憂げな眼に紫水晶の瞳を抱いた、程よく熟れた身体の。名はリリアノーラといった。
起き上がろうと地面に手をつくと、焼けるような痛みが手の甲に走った。本当に焼けた痕があった。罪人であることを、それも神の教えに強く背いた者であることを示すための、大きな烙印だった。蜘蛛に似た罪の印を見ていると、焼きごてを押し付けられたときの屈辱がありありと蘇る。――なんて忌々しい。
行いを悔い、異端に添う心を捨て去って、神の名のもとに命を掛けて許しを請えば、お前は罪の印から解き放たれるだろう――リリアノーラへの烙印を命じた尊大な審問官はそう言っていた。嘘ではないわね、と呟いて手についた土をはらう。無惨な死をもって神にへつらえば、烙印が消える日はいずれ来るだろう。獣に手を食いちぎられて、または皮膚が腐り落ち骨だけになって、ようやく。
リリアノーラはどうにか立ち上がり、辺りを見回した。つい先ほどまで教会の地下にいたはずなのに、今は見知らぬ深い森の中でひとりきり。ここが『終の地』で間違いないようだ。どこまでも続く不毛な荒野、もしくは枯れた木々を抱えた毒の沼……そんな場所ではないかと考えていたリリアノーラの予想は見事に外れた。ここには生命が存在し、限りある命を絶え間なく循環させている。腐りかけの落ち葉を踏みしめながら実感した。
大きく息を吸うと、新鮮な空気が肺に満ちた……はずなのに、どこか息苦さが抜けない。胸に何かがつかえるようだった。山の上は空気が薄いと言われているし、ここはとても高いところに位置する森なのかもしれない。
教会にもみ消されかけていた真の歴史を求め、旧い書物の海に潜り続けた結果、見知らぬ山に打ち上げられてしまった。なんと滑稽な魚だろう。釣り上げられた魚が小刻みに尾を振るように、リリアノーラは慣れない裸足で森の中を歩んだ。
「……そうだ、日記」
ふと思い出し、来た道を引き返した。追放の儀式を受ける直前に持たされた巾着袋は、目を覚ました場所のすぐ近く、背の高い草の陰に落ちていた。粗末な袋を拾い上げて中身を確認すると、日記帳とインク瓶、ペンの入った包み、そして木彫りの聖印が入っている。リリアノーラは聖印を引っ張り出すと、自分が知る限りで最も汚い罵り文句と共に、烙印のないほうの手を振ってそれを投げ捨てた。品がないと叱ってくれる者はもうどこにもいない。
「行かないと」
どこへ? という疑問は口に出さないようにした。あてなどなくとも、とにかく歩かなければならないような気がして。草と枯葉が足の裏に張りついて不快だが、目をつむるほかはない。白くつややかな脚はあっという間に汚れてしまった。
リリアノーラは歩きながら考えた。ここが山中ならば体調を崩す前に下ったほうがよいこと。住人がいるようなら接触を試み、生き残るための術を教えてもらったほうが良いこと。協力を得られず、身を危険に晒してしまう可能性もあるが、ただひとり森を彷徨い続けるよりはましだと思った。森に棲む肉食獣にとって、森をよく知らない女は捕らえやすい親切な食事となることだろう。生きたままはらわたを食い荒らされる自分を想像してしまい、身が震えた。
歩む地面はじっとりと湿っていて滑りやすく、土からせり出した木の根が、侵入者の足を引っ掛けようといたるところで待ち構えている。女は何度か転び、生成りの服を泥と草の汁で汚しながら、道なき道をあてどなく進み続けた。
昼になってようやく景色に変化が見えた。小川に突き当たったのだ。
リリアノーラは小川に沿い、下流に向かって進むことにした。水の流れに従えば、山を下ることができるかもしれない。一縷の希望が見えてきた。
しかしより低い場所へと移動し続けているはずなのに、朝に感じた息苦しさは徐々に増しつつあった。途中で少し休憩を挟んでみたりもしたが、どうにも具合はよくならない。顔も若干熱を帯びているような気がする。風邪をひくほど体を冷やしたわけでもなく、妙だと思った。淡い朝焼け色の髪が、汗ばんだ肌に張り付いてひどく不快だった。
変調は時間が経つにつれ顕著になる。日が暮れかけたころ、リリアノーラはまっすぐに歩くことができなくなっていた。いくつかの小川と合流して広がった川の近く、節くれだった不気味な草の茂みに隠れるように、地べたにへたりこんだ。
体が熱く、重い。深く息を吸っても、巾着袋に口をつけて呼吸をしてみても、息苦しさは全く治まらない。体を地に縫い付けられてしまったかのようだ。
朦朧とし始めた意識に、せせらぎと草むらで鳴く虫の声がじわりと染み入る。かつてこの地に流された罪人たちも、今の自分のように、自然に抱かれながらわけもわからないまま力尽きていったのだろうか。道理でこの流刑地から帰ったものがいないわけだ。
帰還したものがいない理由には納得がいったが、このあまりに早い決着には納得できるわけがなかった。もし明日目を覚ますことができたら、もう少しだけ歩いてみよう――そうぼんやりと考えて、せめて夜のうちに獣に食われないようにと、草の陰で身を丸めた。嗅ぎ当てられてしまうことにまでは考えが至らなかった。
リリアノーラが育った街とは違う、一切の灯かりのない地から見上げる夜空は、憎たらしいほどに美しかった。またたく無数の星々が今にも降り注いできそうだ。
(これが最後に見た景色になりませんように)
目を閉じる。長い睫毛に縁取られた目蓋から、雫がひとつ、滴った。
痛い、と思った。何かに強く叩かれた頬が、ひりひりと病んで眠りを妨げる。
「起きれ! 死ぬぞ! 起きれ!」
野太く声量のある、男らしい声。どこかの田舎の方言のような、少々おかしな、けれどもどうにか伝わる言葉。
重たい目蓋をどうにか持ち上げると、でこぼこの石でできた天井と、こちらの顔を覗きこむ誰かが見えた。ぼやける視界の中央で、深い緑色の髪をした男がこちらを見つめている。ぼさぼさの髪には木の葉のようなものが絡んでいて、男の動きに合わせてざらりと音をたてた。
「起きたか! 寝るなよ! 動くか!」
褐色の肌を持った半裸の男は、逞しい体躯から容赦のない平手打ちを繰り出してくる。その表情は真剣そのもので、どうにかして目の前の女を起こそうとしているのだということがわかった。
「起きた……痛い、やめて……」
「うお、すまね……でも仕方ない、また寝たら死ぬ」
リリアノーラがどうにか声を絞り出すと、男は申し訳なさそうに手を引っこめた。
眠りにつく前よりも体調の悪化が進んでいるらしく、手足が持ち上がらない。目を開けていること、力のない声をあげることだけで精一杯だった。
医者にでも拾われたのなら希望が持てたかもしれないが、目の前の男はとうてい病の仕組みを理解する者には見えなかった。体躯は大柄であるが、顔立ちにはまだ少し幼さが残っている。おそらくは年下だろう。 引き締まった肉体に革の腰巻だけを巻いた姿は、おとぎ話に出てくる蛮族そのものだ。
「目ぇ開けてろよ」
「ここ、どこ」
「おれのねぐら。おまえ、川で倒れてた。よそ者だな」
「……ええ」
「森も野っ原もよそ者さ拒む。仲間にならねと死ぬ」
死人のような顔色で横たわるリリアノーラに、男は絶え間なく声を掛け続けた。そして彼女の視界の外で、何やらがらがらと音を立てて作業をしていた。積んであるものでもひっくり返したのだろうか。
「おまえ、星が祝ったな。おれのねぐらの近くに倒れてた。おれが通らねえとこだったら死んでた」
頭の下に手を差し入れられ、半身を強引に起こされる。生命力で満ち溢れた瞳が、リリアノーラの意識を射抜いた。
「飲め」
そう言って男は木彫りの器を差し出した。口元に押し当てられたそれには、液体がなみなみと注がれている。薄暗くて色はよくわからないが、錆びた鉄のようなにおいがした。
わけもわからぬまま、言われるままにそれを口に含もうとするも、唇が思うように動かず端からこぼれてしまう。どうにか少しだけ喉を通った液体は、水のようだったが僅かに血の味がした。
自力で薬を飲めないと見るや、男はそれを自らの口に含み、リリアノーラの口を太い指でこじ開けた。そして有無を言わせず唇を重ね、鉄くさい何かを強引に流しこむ。
「んっ……」
その不味さに顔を歪めながらも、リリアノーラはどうにか薬を飲みこんだ。本当に薬なのかはわからないが、その手の類のものなのだと信じることにして。
男は液体を少しずつ口に含み、その都度口移しで飲ませてゆく。吐き出してしまわないよう、少しずつ、ゆっくりと。
小さな器が一つ空になった頃、リリアノーラは呼吸が少し落ち着いてきたことに気がついた。やはりあの鉄くさい水は薬だったのだろうか。とても薬師には見えない男は、客人を抱きかかえてその背を優しくさすった。亡き父を思い出させる、温かい大きな手だった。
「今のは、何?」
「おれの血だ。水で薄めた。おまえがここで生きにゃあ、おれらの仲間になるしかねえ。全部はだめでも、すこしだけ」
「あなたは……人では、ない……?」
「おれらとおまえは違う。おれらはいつか土に根を張って伸びる」
そう告げて、男は自らの腕を見せた。よく日に焼けた肌の一部が、樹皮のような組織で覆われている。伸ばしっぱなしの髪に絡む緑の葉も、よく見ると髪から直接生じていた。土に根を張るもの、という説明は間違いではなさそうだ。
恐ろしいとは思わなかった。この地においてはリリアノーラのような人間のほうが異形のものなのだろうに、彼はどこの誰とも知らぬ女を手厚く介抱してくれている。どんな思惑があってのことなのかはわからないが、今はとにかくその好意に甘えるほかはなかった。
「無理すんな、黙って寝てろ。血はまたあとでだ」
「ありがとう……」
目蓋がひとりでに下りる。温かな闇に、意識が深く沈んだ。
快復したのは二晩が過ぎてからのことだった。小分けに取りこんだ彼の血が作用したのか、息苦しさはなくなり、手足も動くようになった。慣れない環境で寝ていたために体がかなり痛いが、じきに慣れるだろう。
男がねぐらとしていたのは、川にほど近い場所にあるほら穴だった。外に出て空気を思い切り吸いこむと、瑞々しくとても美味しい。手足の末端にまで森の精気が行き渡るようだった。一昨日はあんなに激しくよそ者を拒んでいたというのに。
「おまえ、珍しいヒトだな」
「そう?」
歩けるようになって早々に辺りの探索を始めようとしたリリアノーラを、男は不思議そうな顔で見下ろした。きびきびと歩く姿は、男が思い描いていた人間像とは大きく異なっていたらしい。
「ここに来たヒト、はじめはどいつも泣いて、森に怯えて過ごすたあ聞いた」
「私だって正直泣きたいわ。でも、しなければいけないことがあるから」
この地に文明があるのか、私たちのような人間が住んでいる場所があるのか……という旨を尋ねると、男は手を引いて案内をしてくれた。相手を必死に追っているうちに、歩幅の違いに気付いて歩みを緩めてくれた。
「誰から聞いたの? 私の他にもここに来た者がいた?」
「おれひとりだ。ヒトを見んのは初めて、でもオヤから教えてもらった」
「親……あなたの仲間はどこに」
「根っこ張ってないやつはおれだけだ。おれらはオヤが落とす実を食ってなんでも教えてもらう。おれのオヤはだいぶ前、雷が当たって焼けちまったけどな」
「そう……」
けろりと言い放つ様子を見上げ、言葉をつぐんだ。「ごめんなさい」も「こちらもよ」もこの場にそぐわない気がして。リリアノーラが敬愛していた父は、教会に禁書とされた書物たちを守るため、慣れない剣を取って抵抗し切り捨てられた。父を切り捨てた聖騎士は、自ら振るった剣を裁きの雷であると言ったらしい。本物の雷に打たれたほうがまだましであったかな、と思う。
脳裏に浮かび上がる憎い顔を振り払うため、恩人の横顔を見つめた。目的地を遠く見据えた眼は凛々しく、もっと間近で覗きたくなるが、頭ひとつ分の背丈の差がそれを許さなかった。
「私、リリアノーラというの。あなた、名前は?」
「ナマエ?」
名乗りを踏み台に近づいてみようとしたものの、出鼻をくじかれてしまう。
男は少し考えこみ、ああ! と何かを思い出したように声をあげた。
「おれ、ナマエねえんだ。誰にも呼ばれねかったから」
「……そう」
「んだから好きに呼んでくれ、リラ……リアっ、リリラリーラ」
「リリアでいいわ」
ふふ、と笑い、歩みながら考えた。男の頭から爪先までを視線で撫で、記憶の字引からかみ合う名を引く。ぴんと来る名はすぐに見つかった。
「そうね……ガルフ、なんてどうかしら。ある英雄の名なのだけれど」
英雄譚から拾い上げたその名を、男は何度か呟き、照れくさそうに笑った。
森で獣に育てられた男が一国の姫を救い讃えられる話だ。古代史の研究に明け暮れ、女らしいことは何一つしてこなかった自分が姫になれるとは思えないが、それでも身の上と重ねてみたい気分になったのだった。
ガルフに連れられて訪れたのは、森を抜けた先の平地にある廃墟だった。その建物はリリアノーラの知らない素材でできていて、草木にすっかり覆いつくされながらも、その姿をある程度残して建っている。
家具の残骸が散らばる中を歩み、辛うじて形を保っているものを一つ一つ観察した。見慣れない様式のものが多く、謎めいた材質の物体を撫でたり軽く叩いたりしては感嘆の声をあげた。隣でその様子を見ていたガルフが目を細める。
「おまえ、ガクシャなんだろ。ガクシャが喜びそうなやつ、あるぞ」
そう告げて、リリアノーラの手を引き廃墟の奥へと導いた。
「おれと同じやつらがたくさんいたころは大事にされてたんだと。でも数が減ってから、放っとかれてる」
外れた扉を足蹴にして踏み入った一室は小さく、入り口よりも埃くさい。しかしリリアノーラは手で口を覆うことも忘れてその中へと踏み入った。薄暗い部屋の隅に、古びてなお形を残す本棚を見つけて。本棚には背の色を失った本がぎっしりと詰められていた。
「これは……!」
思わず駆け出していた。尖った木材の破片を踏んでも歩みは止まらなかった。
並んでいる本のうち一冊を手に取り、そっと開く。厚みの割りにやけに軽い本を捲ると、父の研究書で何度も見た文字が並んでいた。今の公用語の元になったと推測されている旧い言語だ。古文書を読み解く要領で解読できそうだった。
一旦本を閉じ、数歩下がって本棚全体を観察する。リリアノーラの故郷で禁書とされていた類の古書物が、事も無げに整然と並んでいる。
「……お父様、みんな……」
父の、彼と志を同じくした仲間たちの、今はもう見ることのできない顔が脳裏に浮かぶ。彼らが探し求めていた地は残っていたのだ。そこへ至るすべを教会によって隠されていただけで。
生娘だからという理由で直接の処刑を免れたのも、今思えば何かの巡りあわせだったように思える。教会の徒たちが崇めるような神は信じていないが、何か大きな力が追い風を吹かせているのを感じた。この流れに乗らなければならない。風を掴んで、強く。
決意の涙をぬぐうリリアノーラを、ガルフはただ静かに見つめていた。そして足が疲れたろうなどと理由をつけて抱き上げ、自らの寝床に連れ帰った。
どんな手を使ってでも、必ず生きて故郷に帰らなければ。改めて強く願ったリリアノーラは、ガルフにそのための協力を願い、自らの命を繋いだ綱を差し出した。寄り添う体温をひしと感じながら、寝床の硬さも忘れて泥のように眠った。
失われた時代の研究も、故郷への帰還も、まずはこの地に残る知識を紐解くところから始めなければならない。
ガルフの助けを得て辺りの散策を行った結果、この辺りは元々街であり、その多くが森に呑まれて消えたことがわかった。木々に侵食された家は傷みが激しく、漁れども実入りが少ない。まずはある程度形を残している建造物を調べ、手がかりを探すこととした。
「すげえなあ、字がわかりゃそんなことができんのか」
「ええ」
ガルフが心底感心した様子で何度も頷く。
広い廃墟の床に描いた地図は、インク代わりに潰した果実を使ったため酸っぱい香りがした。
瓦礫を片付けた跡に描いたそれは、倉庫だったと思しき廃屋から持ち出した大きな看板と、何か公共の施設だったらしい廃墟で見つけた紙の地図を照らし合わせたものだ。
この図を描くための情報を得るまでに七日かかった。
「まず、ここが役所跡。そしてこっちが学校。門に施設の名前が刻まれていたおかげでわかったわ」
「ほうほう」
「看板に描いてあった村の地図から読み取れたのはここまでだけれど、役所で見つけた地図と組み合わせると遠くの地形までわかるわ。ここから南南西に行ったところにもっと大きな街が、そこから海岸沿いに西に進み続けると大都市があるみたいなの」
ガルフは床に広がる図をまじまじと見つめ、首をひねった。
「そこまで行っちまうのか?」
「この辺りをあらかた調べつくしたらね」
淡々と答えるリリアノーラを、大男はひたと見つめている。そして、ん、とひとつ低く呟くと、
「んだらおれも行く」
とさらりと告げるのだった。
「いいの? あなたの故郷を離れることになるわ」
「かまわね」
澱みなく言い切る姿に、リリアノーラはほっと胸を撫で下ろした。案内人であり用心棒でもある彼がいたほうが良いのは勿論のことだったが、彼の裏表のない笑顔を見られなくなることのほうが痛手であるような気がする。慣れない生活から来る疲れで判断力が落ちているのかもしれないと思った。
「おれ、本読んでるリリア見てっとなんでだか楽しんだ」
「そんなに面白いものかしら……」
「自分じゃわかんねだろな」
妙に自信ありげな様子に、なぜだか胸の奥が熱を持つ。学業の妨げになるから、研究の邪魔になるから、と意識の外に追いやり続けていた感覚が、にわかに燃え上がろうとしていた。自らが背負い続けてきたものを、存在意義を、全て巻き添えにして。
身を焼かれぬよう水を浴びなければならない。この地には長年探し続けていた旧文明の遺産という泉があるのだから、そこに肩まで浸かり続けていよう――そう誓って無意識に握り締めた拳を、ガルフはたやすく解いてしまう。
「そろそろ暗くなる、帰ってメシだ」
「あっ、ちょっと、もう少し調べたいことが」
「夜ん中歩くと怪我すっぞ。危ねえことするより、昨日の話の続きさもっと聞かせてくれよ」
ずかずかと傍まで踏み入り、抱き上げて口伝の知識をねだる。親鳥と雛のようだと思った。拾い集めた文明の残骸を自らの中で溶かし、相手が受け取れる形にして流しこんでいるのだから。食事の確保という点では立場が逆になっているのがまた妙で、二人は共に親鳥であり雛でもあった。いずれ巣立ちの日が来ることを忘れぬよう、リリアノーラは毎日欠かさず日記をつけた。
リリアノーラは幼い頃より特異な力を持っていた。書物や手紙など、文章として書き起こされたものを読むと、その内容を正確に記憶できるのだ。
本と一字一句違わぬ童話をそらんずると、孤児院の小さな子供たちは無邪気に喜んだが、大人は少女を気味悪がり、二度とするなと食事を抜いた。賢すぎる女は魔女である、魔女になる、と信じる者は多かった。
しかしある日、教会より早く噂を聞きつけた男がリリアノーラを小間使いとして引き取りたいと申し出た。半ば厄介払いのような形で送り出された先で、少女は熱心な教育を施され、部屋を埋め尽くすほどの本を与えられた。孤児院で教わる簡単な読み書きでは物足りなかった彼女にとって、本当に願ったり叶ったりの待遇だった。少女は男をお父様と呼び慕い、学者である彼およびその仲間たちと共に異端の学問に傾倒した。この地を信仰で支配する教会の教えに逆らい、聖書に存在しないはずの旧文明を探り続けた。
表向きは小間使いの体を装いながら、生きた書庫として育てられたのだ。
「おまえ、使われてたんでねえ? なしてまだ本探す?」
身の上を話し終えると、たった一人の聴衆は率直な感想を述べた。月明かりが僅かに射しこむ洞窟で、敷いた革の上に並んで寝転んだ二人は、このねぐらで過ごす最後の夜をゆったりと過ごしていた。
「そうね、利用されていたのかもしれない……でも、私は幸せだったわ。研究は楽しかったし、お父様は尊敬できる人だった。優しくて、賢くて……ううん、大きな権力に目の敵にされて殺されたのだから、愚かでもあるのだけれど」
「オロカ?」
「頭が悪いということ」
リリアノーラの細い指が、どこか不満げな顔をするガルフの髪と葉を弄ぶ。手に押されていた烙印は、体が作り出した樹皮の手甲によってかき消されていた。足の裏もまた硬くなっており、落ちている鋭い枝もものともせず歩けるようになっている。ガルフの血を少しずつ摂り続けた体はこの地に適応しつつあった。
「私も同じ愚か者よ」
「リリアは頭いいだろ、何でも知ってら」
「そういう意味じゃなくって」
ガルフは薄く笑うリリアノーラを抱き寄せた。触れ合う素肌の心地よさに目を細める女の頭を、いかつい手が少々乱暴に撫でる。洞窟の壁を見つめる男の表情は、どこか沈んだものだった。
「……なあ。おれは、いや、おれたちは」
ぽつり、ぽつり、と搾り出すように呟く。いつもの陽気さのない声色に、リリアノーラは黙って耳を傾けた。
「つがいになって、一緒にいい土地さ見つけると、そこで一緒に根さ張る。根付いたあとは、そこいらの木と似た……似てるけどどえれえでけえ木に育って、こっこが入った実さつける」
子を成すために木になるということは聞いていたが、それ以外は初耳だった。根付くとは例えではなく本当に根を伸ばして張るのだろう。女は木の皮となった肌を無意識に撫でた。
「オヤになったやつは、知ってることを食える実に詰めて落とす。こっこがそいつさ食って育つんだ。おれはそれでオヤふたりのことを知った、んだけど」
「……けど?」
「片っぽはおまえみてえなよそものでさ。もう何もできねえ、何もねえ、ってぜんぶ諦めて、ヒトとして死のうとしてて。もうひとりがそれを嫌がって、無理やりつがいにした。貰った思い出はつらいもんばっかだった」
女の細腕を掴んだ手に力がこもる。縋るように強く抱きしめられ、リリアノーラは小さく呻いた。
「……おれは、相手の心を折ってまで、つがいになりたいたあ思わねえ」
「そう……」
「どうしたら、いいんだろな」
返す言葉は思いつかなかった。
こんなにも近く触れ合っているのに、彼女が彼女である限り、彼が彼である限り、二人のゆく道は交錯しない。肌に染みこむ互いの体温は、残酷に体ばかりを温め続けた。
心の深みを覗くことのないまま、二人は旅を続け、いくつもの街を越えた。
情報は街の規模に比例して増える。大きな街の跡には役所や教育機関の跡があり、それらは図書室を備えていた。災害や虫に荒らされているものが多かったが、中には状態の良いものもある。歴史書、学術書、技術書、息抜きに文芸書……リリアノーラは様々な分野の本を読み、解読できた内容を頭に叩きこんだ。季節が一巡りした頃には、旧い書物を読み解くことがすっかり容易になっていた。
旅の中で得た最も大きな収穫は、役所跡に残されていた資料だった。この地域一帯を襲った災厄についての詳細が記されている。発生場所、被害状況、その対策……書き手が内部での情報共有のために残したものが、長い時を越えてこの街の行く末を教えてくれている。
「で、おれらがその生き残り?」
「そのようね」
ぱちぱちと音を立てて燃える焚き火を前に、二人は在りし日の街に想いを馳せた。資料によれば、森が瘴毒を伴って肥大化を始めたとき、街はひどい混乱に包まれたらしい。いつ治まるとも知れない事態に治安は大変悪化したようだ。
「対策は二つ立てられたのだけれど、為政者たちの意見は真っ向から割れてしまって。最終的に民衆それぞれが自ら選ぶことになったみたい。森に順応するか、瘴毒が及ばぬ世界に移るか」
とりわけ移住を強く推したという為政者の名には聞き覚えがあった。知らぬはずがなかった。リリアノーラをこの地に追いやった者たちが崇める神、その教えを広く伝えたという大神官の名と一致したのは偶然ではないのだろう。
様々なものを残して移り住んだ先で、彼は信仰の力をもって人々を纏め上げようとした。保身のためか、真に民衆の団結を願ってか……真意はすでに闇の中である。
「おそらく、遠く……どんなに歩いても辿りつけないような場所まで、何らかの力を使って逃げ延びたのが私の祖先。今までの生活を捨て、体を作り変えてこの地に残ったのがあなたの祖先よ」
「でっけえ話だなあ」
「そうね、目眩がしそう」
リリアノーラは目を閉じ、頭の中に存在する書庫から、目的の一冊を探し引っ張り出した。先ほど噛み砕いてガルフに説明した資料の原文だ。
「……我々には後がない。新天地への移住を希望するものは直ちに荷を纏め王都に向かうべし。順応を望むものは街に留まり、正しく薬の到着を待つべし。手をこまねいていては我々は滅ぶのみ。私は救世主エレトリヤに全てを賭けることとする」
「なんだ、それ」
「街の長が出した触れの原稿らしいわ」
救世主と呼ばれる者についてもまた、資料からある程度情報を読みこむことができた。
滅びに瀕したこの国の長が行った救国の儀式により、この世ならざる場所から呼び出された魔術士。にわかには信じがたい話だが、不可能ではないのだろう。現に自分が謎の技術によりこの地へと送られている。
教会は古の技術を隠し持ち、外部の者による研究を禁じながら独占している――と確信が持てた。流刑される際に使われた術も神罰などではない。彼らが異端とした歴史から生まれたものなのだ。
しかしリリアノーラをわざわざここに追いやった理由が未だわからなかった。逆らう者を苦しめたいのなら、直接収監するか拷問にかけたほうが良いはずだ。誰の目も届かない場所に追いやってしまっては、どのような死に様をしたかすらわからない。
「リリア。……リリアっ」
「ん」
名を呼ぶ声で我に返った。思索の海から顔を出した女は、差し出された焼き魚を受け取り礼を言った。木の枝で串刺しにされた魚は香ばしく焼けていて、身に齧りつくと柔らかくほぐれる。海藻から作った塩が僅かに効いており、塩気と苦味をそっと添えていた。
「これ食ったらまた文字さ教えてくれ」
「ええ、焚き火が消えるまでね」
ここ暫く続けていた二人の習慣は実を結びつつある。小さい子供がする程度の読み書きができるようになったガルフは、そこらの木に二人の名前を彫りつけて遊ぶようになった。体ばかり大きい子供を見ているような気分だ。
魚を食べ終えたリリアノーラは、頭と背骨を捨て、残った枝で地面に字を書いた。ガルフはそれをまじまじと見つめ、自らの足元にも同じものを書いた。
「これは?」
「月よ」
夜空に輝く満月を見上げる。すらりと伸ばされたリリアノーラの背で、柔肌から生えた木の枝が翼のように揺れた。
エレトリヤと名乗る魔術士は、滅びに瀕した人々を哀れみ、遠い地への移住と森への適応を提言したという。国に残る者たちのための薬を山のように作った後、移民たちを導いてともに新天地に渡った。その後のことについては記録に残っていない。
彼は森が瘴毒を放つようになった理由はおおよそ理解しつつも、人の手で抑えられるものではないと断じた。そして一つの推測を残している。いつか遠い未来に毒は消え去り、再び人間が住める地になるだろうと。
ひと月をかけて王都へと移り、半年をかけて記録を漁ったリリアノーラは、己の仇敵に関するひとつの確信を得ていた。確信を得たゆえに迷っていた。
「最悪」
手を離れた石ころが、草むらとなった街路跡に叩きつけられる。女はぶつくさと呟きながら、しばらく石に鬱憤をぶつけ続けた。
森の瘴毒が消える日が来るということを、教会内の一部の人間は知っているのだろう。人間をここに送りこんだのは、毒が既に消えているかどうかを確かめるため。リリアノーラのような、元の世界に帰る手段を探せるかもしれない者をわざわざ選んだのは、再び住めるようになった世界に帰還の方法があるのかどうかを調べさせるためだ。
流刑者が帰ってこない場合は処刑を兼ねる。帰ってきた場合は、拘束してここでの体験を吐かせ、教会の勢力を広げるための足がかりとする。自分たちだけが自由な行き来をできるなら、資源を独占するのはたやすいだろう。
リリアノーラは考える。自分が故郷に戻った後のことを。持ち帰った知識は誰かに伝えなければ絶えてしまう。しかし半ば異形と化したこの体を隠しながら、どうにかして人と接触するのは無理がある。教会に見つかったら最後、自分は捕らえられ、拷問にかけられるだろう。そして終わりのない苦痛に耐えかねて全てを話し、瘴毒に耐える力を得るための薬袋として血を抜かれ、いつか死ぬ――想像すると体の芯が凍えるようだった。
問題は洗い出せたものの、対策が一向に浮かばない。王城の書庫跡から見つけ出した秘術書を撫でながら、迷える学者は日が暮れるまで考えこんだ。最終的に答えを出すことができたのは、月の満ち欠けが一巡りしてからのことだった。
獣の血、ある種の草の汁、未知の記号を描いた石。平らな地面にそれらで陣を描いた後、厚い本にして丸一冊にも及ぶ呪文を唱える。儀式は早朝から昼過ぎにまで及び、その間リリアノーラは飲まず食わずで秘術書を読み上げ続けた。顎が痛み、喉が切実な渇きを訴えるが、途中でやめるわけにはいかない。王家の秘術書に一縷の望みを託し、女は呪文を唱え続けた。
視野の外でガルフが落ち着きなく動き回っている。連れの身を案じる様子を思い出しながらも、儀式を中断することなく淡々と続けた。途中でやめてしまっては、今日の苦労は全て水泡に帰してしまう。
「……を閉じよ。記されざる書を閉じよ。解はゼロである。施錠せよ」
同じ言葉を気が遠くなるほど繰り返す呪文を読み上げ終わると、その瞬間に体から力が抜けた。立っていられなくなり、地面に膝をついたリリアノーラのもとに、ガルフがすかさず駆け寄りその体を抱く。がっしりとした腕で支えられる感覚に、リリアノーラは安堵の息をついた。すかさず差し出されたぬるい水を口に含むと、乾いた喉に痛いほど染み渡る。
「うまく、いったか」
「わからない……でも、手応えはあったわ」
「テゴタエ?」
「呪文を唱え終わったとき、私の中から何か……持っていかれたような気がした」
陣に吸い取られたと感じたのは、体を動かすための力、生きるための力、とにかくその類のもの。魔術など空想の産物だと長らく思っていたが、いざすがってみると確かな力を持つものなのだと実感できた。
「やりすぎて死んだりしねえでくれよ。んなことになったらおれは……おれは」
「うん……気をつけるわ」
掠れた声で答え、ガルフの胸に頭を寄せた。伝わる鼓動はやや早く、確かな生命力を感じる。
「それで、結果は」
陣を見つめる。手応えはあった気がしたのだが、複雑な文様は沈黙を守り続けていた。
儀式は無意味だったのか。そう思った途端に、なけなしの力が体から抜けてゆく。ガルフはそんなリリアノーラを強く抱きしめ、耳元で縋るように囁いた。
「……すまね、おれのせいかもしれね」
「どうして?」
「うまくいかねえでくれ、って思っちまう……おまえの願いよりもおれはずっと、おれは」
その時、一陣の風が吹いた。遥か遠く、空の彼方からやってきたものではない。もっと近くの……うずくまる二人のすぐ隣、儀式を終えた陣から生じたもの。
二人は息を呑み、怪しい光を放ちはじめた紋様を注視した。吹き付ける風は、何か懐かしい匂いを伴っている。――紙とインクの香りだ。薄暗さに守られた書庫の空気が、リリアノーラの髪をなびかせる。
「う……っ」
巻き上がる砂埃に顔を撫ぜられ目を瞑ってしまう。風が止んだのを見計らって薄く目を開けると、そこには見知らぬ人影があった。この地に送られてガルフと出会って以来、それ以外にはじめて見る人間の姿だった。
見目麗しい男だ。青年と呼ぶには年がいっているが、中年と呼ぶにはまだ若いように見えた。リリアノーラの故郷のものとは大きく違う、体にぴたりと添うよう仕立てられた服を身に纏っている。顔にかかった長い髪を払いのけると、翡翠に似た双眸があらわになった。どこか不機嫌そうな、険しい眼が目の前の二人を見据えた。
「何用だ」
威圧感のある低い声。ガルフが咄嗟にリリアノーラをより強くかき抱くが、庇われた当人はそれを拒み、残った力で連れの腕を押しのけて立ち上がった。そしてふらつきながらも男の前に進み出て地に片膝をつく。彼女の故郷における、目通りの際にとる姿勢だ。
「突然の喚び出しにお応えいただき痛み入ります。私はリリアノーラ、歴史学者でございます」
掠れた、精一杯の声で紡ぎだした言葉に、客人は静かに耳を傾ける。
「あなたを偉大な魔術士と見こみ、召喚の儀を行わせていただきました」
声が震えるのは疲れのためばかりではなかった。自らの発言、そして一挙一動が、己と己が抱えたものの未来を左右してしまう。眼前の男の機嫌を損ねてしまえば、今見えている希望は全て潰えることとなる。
薄氷を踏む思いで対話を試みるリリアノーラの後ろで、ガルフもまた倣って膝をついた。何かあればすぐに男に殴りかかれるよう、陰できつく拳を握りながら。
「遥か昔、この国の民を救ったという魔術士を喚んだ儀でございます。……あなた様は、エレトリヤ様をご存知でしょうか」
古の魔術士の名を告げると、男は「ほう」とだけ呟き、にやりと口の端を吊り上げた。そしてどこか遠くを見ながら少し黙りこんだ後、くつくつと笑う。
「救国の英雄か……あのお人好しがやりそうなことだ」
「お知り合いなのですか」
「兄弟のようなものだ。ここ百年は顔も見ていないがな」
百年、とこともなげに述べられ、リリアノーラは目を丸くした。自然の摂理を歪め、災厄を騙すほどの魔術士と通じる者ならば、人を遥かに超えた存在であってもおかしくはない。むしろそのようにあるべきだ。そう考えて身構えてはいたものの、こうもあっさりと存在を肯定されると複雑な心持ちになる。
何か、とてつもなく恐ろしいものを呼び出してしまったのではないか。背筋を悪寒が滑った。
「とにかく、私も同類だ。それで……奴が助けた民とやらはどこにいった? 都は廃れているようだがてこ入れも虚しく滅んだのか」
「エレトリヤ様は二つの致し方で民を救いました。移住を願うものにはその行く先と移動手段を、ここでの生活を望む者には木と混ざり災厄に適応する術を与えています。残った者は緩やかに滅びつつあります」
「では、その者らを再び救えと?」
返る声は冷ややかなものだった。見上げた瞳に射抜かれ、体が凍りつくような錯覚に囚われる。
しかしその傍からガルフが声を張り上げ、リリアノーラの緊張を僅かに溶かした。
「違う! たしかにおれらは消えそう……けども、そうなるもんなんだ。森になるたあ苦しいことじゃあねえ」
「ふむ……では何を救いたい、滅ぼしたい」
「移り住んだものは、内乱によってそれまでの歴史を失おうとしています。私はそれを阻止するべく、あなたのお力添えをいただきたいのです」
地についていた手が、知らずのうちに砂を握りこんでいた。魂を切り出すような訴えを聞いた客人は、いっそう歪んだ笑みを浮かべて、
「それが成すべき正義だとでも思っているのか? とんだ我欲の塊だな」
と言い捨てた。
リリアノーラの顔からさっと血の気が引いてゆく。選択を誤ったと感じた心が、絶望の淵に足をとられる。しかし彼女を引き上げたのは、他ならぬ魔術士本人だった。
「だが、そういった者は嫌いではないぞ」
「あ……」
「欲こそ人の本質だ。あらましと出せる対価を話せ、とりあえず聞いてはやろう」
ありがとうございます、と告げようとしたが、途中で喉に詰まり咳きこんでしまった。
ガルフがすかさず残りの水を飲ませ背を撫でる。魔術士は陣の上にあぐらをかき、小さく呪文を紡いで、自らの周りに限りなく透明に近い膜を張った。毒臭い場所に呼びつけおって、と悪態をつき、そして、
「私の名はミプルだ。覚えておけ」
宵闇色の長髪を弄くりながら話の続きを待った。
「要は真の歴史とやらの存在を伝えられれば良いのだろう? 教会がどんな処理を行おうと忘れられぬほどに、強く」
話を聞き届けたミプルが口にしたのは実に大胆な策だった。救世主エレトリヤの名を騙り、奇跡を起こして見せるのだという。国一つを丸ごと驚かせるような大掛かりなものを。
天にこの地の様子でも映してやろうか。それともこの街を少しくり抜いて送りつけてやろうか。悪戯でも図るかのような口ぶりで提案するさまを見ていると身が震えた。自分が矮小な虫になり、地べたに這いつくばりながら彼の靴裏を見上げているような、そんな気さえした。
「どうやったとしても、要らぬ争いの火種になり得るぞ。こんなはずじゃなかった、等と後から言うまいな?」
「……ええ」
リリアノーラは深々と頷いた。そこに迷いはない。今までに犠牲となった仲間たちの顔ばかりが脳裏に浮かんだ。
「それで、対価だが」
「私に支払えるものなら何なりと」
「何なりと、か。例えば……その男の目の前で私に犯された後、生きたままはらわたを食い荒らされるとしても?」
はい、と口に出したつもりが、うまく声を出せなかった。傍に控えていたガルフが並々ならぬ殺気を放ちだしたのがわかる。彼は顎がきしむほど歯を食いしばり、獣のように唸りながら魔術士を睨みつけた。今すぐにでも相手の臓腑を殴り潰せるよう拳を強く固めて。リリアノーラはそれを手で制止した。
「……私の命はこの野望のために在るものです。身を使い捨てられたとしても、叶うのなら、それで」
「そうか」
ミプルは小さく息を吐き、先ほどの相談のときよりも真剣な面持ちで話を続けた。
「覚悟を問いたかっただけだ、お前の体などに興味ない。欲しいのはここ……忠誠を誓い、魂を捧げろ」
そう告げて、自らの胸を軽く叩いてみせる。たましい、と言葉を繰り返したリリアノーラの目をまっすぐに覗いて。
作り話の世界、それも悪趣味なものに迷いこんだような心地だったが、彼の話を聞く限り嘘とは思えなかった。この男ならば人間の魂を抜き取って瓶詰めにすることだってできそうだ。
「魂を抜かれたら……どうなるのでしょう……何に、使われるの……?」
「体はまあ、数日のうちに死ぬだろうな」
返答は至極あっさりとしたものだった。
「書の扱いに長けた配下が欲しいと思っていたところでな。その記憶能力があれば仕事も捗るだろう」
「……配下……」
「一晩待ってやろう。覚悟が決まったらこれを鳴らせ」
そう言い残し、魔術士は風に吹かれた煙のように消え去った。幻でも見せられていたのかと思うほどにあっけなく、銀色に輝く小さなベルを残して。
緊張の糸が切れると同時に再び体から力が抜けた。疲労が目蓋を強引に下ろし眠りへと誘う。ガルフが魔術士に殴りかからず堪えてくれたことに感謝をしながら、リリアノーラは速やかに意識を手放した。名を呼ぶ声が遠く聞こえる中、夢も見ない眠りへと深く沈んだ。
目覚めたときには既に月が高く上っていた。ぼんやりとする意識の中、満月に近くも少し足りない月を見上げ、ふと気付く。自分が寝転がっている場所が、廃墟を利用したいつもの寝床でも、先ほど倒れた場所でもないことに。
半身を起こすと、まだ疲れの残る体が辛さを訴えたが、黙殺して辺りを見回した。
草木が生い茂った平地だった。公園か何かの跡地らしい、近くに廃墟のない広い場所だ。陣を敷いた場所からそう遠くないことは覚えている。木々の間から時折強く風が吹きこみ、リリアノーラのよくしなる枝の翼を揺らした。
「起きたか」
探していた者はすぐ傍にいた。座ってリリアノーラの寝顔を見ていたらしいガルフが、いつもよりも低い声で呟く。月明かりに照らされた顔は物憂げで、潤んだ目が月光を鈍く照り返していた。
「リリア」
「なあに、ガルフ」
「リリア……リリアっ、おれは」
男は繰り返し女の名を呼んだ。苦しそうに、陸に打ち上げられた哀れな魚のように。
「おまえをあんな奴に渡したくねえ! 渡したくねえんだ!」
力強く押し倒し、脳を揺らす力強い声で訴える。リリアノーラは相手の目をただじっと見つめた。いつも肌を重ねていたのとは違う、切羽詰った様子にも不思議と恐怖は感じない。苦しげでも何でもいい、とにかくその声を聞いていたいと思った。
「おまえは……おれがここで、おまえさ抱きこんで根っこ張ったら……お前さ木にしたら、恨むか」
「……恨まないわ、でも」
ぽたり、ぽたり、とリリアノーラの顔に雫が落ちる。口元に滴ったそれを舐め取ると、ひどく塩辛く、僅かに苦かった。二人で塩を作った日のことをふと思い出した。
「そんなことはしたくないと語ってくれた、あの日のあなたが死んでしまったことを、悲しむと思う」
「あの日の、おれを」
「愛していた……いいえ、愛しているわ」
なんとずるい女なのだろうと自ら思う。今までずっと言わずにいた、言えずにいた言葉を、こんな脅しに使ってしまうなんて。
「おれは……おれも……」
ガルフは鼻をすすり、腕で涙をぬぐった。リリアノーラの言葉は茨となり、ガルフの心身に絡み付いて棘を突き刺してゆく。今まで共に過ごした時間を縫いとめるように。
「きれいで、物知りで、やわこくて、でも頭ん中は固くて、オヤと仲間さ大事にしてて」
鼻声でぎこちなく語る様子は、どこまでも不器用で、愛しい。
「夢のためなら知らねえ奴に命やっちまうような、大バカなリリアが、何より、好きなんだ」
「……ありがとう、ガルフ」
最後に強く抱き合って、体温を手放した。せめて朝までとはどちらも言い出せなかった。
これ以上傍にいては心が崩れてしまう。己が信じるものを自ら壊してしまう。別れの口付けすら交わさぬまま、二人は袂を分かった。
振り返ることも、別れの挨拶も、しなかった。
1026年、青葉月、7日
――私はその魔術士に願いを託すと決めた。
これを記し終えたら、ベルを鳴らしてもう一度彼を呼びつける。日記を付けるのもこれが最後になるだろう。
例えば私がもう少し柔らかく、書と過去以外のものでできていたならば、使命を投げ捨てることができたのかもしれない。
魂が抜かれた後、体は数日で死ぬと聞いた。裏を返せば数日は生き続けるということでもある。
せめて体だけでもガルフのもとに届けて貰えるよう頼もう。
中身のない抜け殻が相手で申し訳ないのだけれど、彼にはしっかりと地に根付いて子を残してほしい。私が残してゆけるものはこれだけ。
どうか、彼が健やかに伸びゆきますように。
「結局、根付かなかったのね」
日記に残された情報をもとに空から公園跡を探したものの、そこにあると予想された大樹はなく、代わりに岩を積んだだけの墓らしきものがあるのみだった。
褐色の肌に葉が絡んだ髪、逞しい体、革の腰巻……日記に記されていた特徴を持つ男を見つけたときには驚いた。記述にあったよりも老けているように見えるのは、それ相応の時間が過ぎた証だろう。彼は口をあんぐりと開けたまま、その場で固まってしまった。墓に備えるつもりだったらしい野花の束が地に散らばった。
「り、りあ」
男が震えた声で懐かしい名を紡ぐと、女は首を横に振って応えた。
「違うわ。そんな名前じゃあない……私はただの使い走りよ。我が主によって作られた、従者」
女はある偏屈な魔術士のしもべであり、彼が編纂する本の内容を作るために、様々な地をうろつく記者である。読んだ本の内容を一字一句違わず記憶できるという能力を持つゆえに、各地の珍しい書物を探し出し紹介記事を作る役目を負わされていた。現物を持ち帰れなくとも、彼女なら記憶だけを頼りに詳細を記述することができる。彼女自身が歩く書庫でありその司書でもあった。
「これに見覚えがある?」
肩掛け鞄から布の包みを取り出し、男に見せる。上質な布をほどくと、古びた日記帳が姿を見せた。男の遠い記憶に残り続けていたものだ。想い人は大切にしていたペンで、それがなくなってからは鳥の羽根で、できる限り小さな字で日記を綴り続けていた。インクが切れてしまったからと、獣の血や果汁を用いて試行錯誤していた姿が脳裏に蘇る。忘れるわけがねえ、と彼は呟いた。
日記帳を差し出した女は、すぐ傍の墓の主と同じ顔をしていた。違うのはその髪と肌がいっそうつややかで、異国の服の袖から覗く手に樹皮がなく、枝と葉の翼を背負っていないこと。瘴毒に適応した体ではない代わりに、小柄な身を透明に近い光の膜で覆っている。この地に喚び出された魔術士が纏っていたものと同じだった。男が手を伸ばすと、音も触感もなく指先が沈んだ。
「この日記を見つけたのはもっと前のことだったのだけれどね。結界を使いこなせるようになるまでに時間がかかってしまったのよ。こつを掴むまでが難しくって」
古びた日記帳は、主の禁書庫の整頓を手伝った際、危険な魔術書が並ぶ中に何食わぬ顔で混ざりこんでいた。初めて読むはずのものなのに、記憶の奥底から同じ文章が浮き上がってくる。劣化が激しく読めない頁が多いながらも、なぜか頭はその内容を正しく理解していた。自分はどこかでこれを読んだことがある――いや、書いたことがある。そう確信できた。
日記の出所を問うと、主は結界の術を覚えたら教えてやると答えた。与えられる仕事の合間を縫って体得した術を見せると、彼はこの地へ降りるための道筋を教えてくれた。必ず帰ってくるようにと言われはしたが、もとより何があっても主のもとを離れるつもりはない。彼の手によって作られた体は、従者であることを存在の要としている。しもべであることは自らの存在理由そのものだった。日記の主が歴史を守ることを生きる意味としたように。
「おまえは、何なんだ?」
「あなたの傍にいた人、だったもの……かしら」
墓に入るまでのことは、知っているけど覚えていないの。そう続けた。
目の前の男は、今にも泣き出しそうな顔をしながら、相手の一挙一動も見逃すまいと客人を見据えていた。今すぐにでも抱きしめたい衝動を、拳を握ることによってぐっと堪えて。女はその眼光から逃れるように、視線を墓へと移した。
日記の主が繰り返し綴っていた使命に興味が湧かないのは、その願いが叶えられ、こうして埋葬されたからだろう。共に墓に入らなかった想いだけが、新しい体と名を得た今でも魂にこびりついているらしい。
「埋めてしまったのね」
「……ああ。空っぽのもんなんて意味がねえ」
男は子孫を残す機会を自ら絶ってしまった。
信念のために命を捨てた女と、恋心のために命を繋ぐことを捨ててしまった男。妙なところで似ている、と女は思った。二人ともどうしようもないぐらいに不器用だったのだと。
「ねえ」
初めて見た、けれどもどこか懐かしい顔を間近で覗きたくなり、女はすいと歩み出た。
作られてからの数千日、どんな男に寄り添っても埋まらなかった空虚さが、この男と同じ場所にいるだけで満たされてゆく気がする。対の貝殻がぴたりと合うように。
「また、来てもいいかしら。結界は長く持たせられないし仕事もあるから、合間に時々、少しだけでも」
「いいに決まってる! でも、なんで、おまえはリリアじゃねえっていうのに」
いかつい手をそっと取り、強く握る。男は見開いた目を潤ませた。
女は相手の名を呼ぼうとして思い留まった。彼自身の口から聞きたい。教えられたい。そう感じる気持ちに、正直になることにした。
柔らかく微笑んで手を伸ばす。白い指先で男の頬を、ほろりと零れた涙をぬぐった。
「私、あなたに一目惚れしてしまったようなの」