アカシア書房

短編

#-- とばりをおろすもの

 少女は地べたに座り、地に額をすり付けるように深く礼をした。緩く編んだ長い髪が背を滑り、地に咲いた衣の上へと流れる。手をついた石造りの床は冷ややかで少し心地良い。そこは彼女自身の手で磨き上げられ、砂粒一つ無い清らかさを保っていた。
 静かに息を吸って吐いてを数度繰り返してからようやく半身を起こす。ゆったりとした純白の法衣に身を包んだ少女だ。唇と目元に薄く花の紅を引いた顔は、何かと競うことなく積み上げた穏やかな美しさを持っていた。
「こんばんは、あるじさま。今夜のお話をお持ち致しました」
 幼子に語りかけるような優しい声。彼女は几帳面に畳んだ脚の上に乗せていたものを手に取り、ぱたりと開く。それは色褪せながらも確かに形を保ち続ける古い本だった。紙でも皮でもない、草を編んで薄く加工したもので出来ている。綴じる糸は黄金の羊の毛から作られていると話に聞いたことがあるが、これもまた退色しきっているためその真偽はわからない。
 頁をめくると、旧い文字で記された言葉たちが夕陽のもとにさらされた。毎日行われるこの儀式は屋外にある祭壇で行われている。この空間には雨も風も他者の視線も存在しないため、屋根が無くて困ることは何も無かった。
「今日は第一四六六八三巻、炎の軍旗の話でございます。どうぞお寛ぎになってお聞きください」
 本の表紙には巻数と収められている話を象徴する言葉のみが記されている。
 炎の軍旗。朗々と告げはしたが、詳しいことは何一つ知らなかった。この本を読むのは今この瞬間が初めてだ。毎日の儀式以外の場で蔵書を読むことは禁じられている。
 少女は一呼吸置いてから本文を読み上げ始める。目の前には椅子を模った石の像があるのみであり、それに座る者も、周囲から朗読を見守る者もいない。しかし彼女の言葉は独り言では無く、見ることも触れることもできないながらも、石の座には確かに神が降りるとされていた。
「雪の駆ける、朝。炎はゆく。天馬、翼の無い背に乗せて、かの剣のよりしろを」
 物語ではあるが、かたちは詩に近い。細かく切り分けられた言葉を一つ一つ慈しみながら神の座へと捧げた。これらは全て神話の一幕だ。祭壇の近くに位置する書庫を埋め尽くす書物は、神が人々の前に姿を見せていたとされる時代の話ばかり。星の数ほどあるエピソードを一つずつ切り取って本に押し込めたものだと言う。
「鐘を鳴らす、人の軍。剣が纏う。炎。消えぬ炎。揺れる炎。旗をつくる、風」
 次々と頁をめくるうち、陽は徐々に傾き、辺りが薄暗くなりだした。朱を塗りたくられた世界で、読み手は言葉を紡ぎ続ける。陽が落ちてもその速度が衰えることは無かった。彼女の眼は神の祝福を受けており、頼りない月明かりの下でも書物の文面だけはくっきりと見ることができる。祝福であると同時に呪いでもあった。見えない鎖を縛り付けられているように時々感じる。
 そして陽が沈みきるまでの時間を経て、ゆっくりと読み進めた書も最後の頁へと差し掛かった。
「旗は燃える。怒りに触れたは、剣。私は炎を呑む。喉を灼き、声、咆哮。剣の男、軍旗に灼かれる」
 静かに本を閉じ、儀式は終わった。
 神に反旗を翻した人間が罰を受ける、無慈悲で救いの無い話。少女は穏やかな表情を崩さぬまま読み終えた。神が非情で不条理なものであると既に知り、理解して、それを受け入れているゆえに。磨り減った、人形じみた笑顔だった。
「お話は以上です。おやすみなさいませ、あるじさま」
 少女は最後にもう一度深く礼をし、本を抱えて立ち上がった。辺りはすっかり暗くなり、月だけが煌々と辺りを照らしている。手入れの行き届いた庭園は月明かりの下でも輝いていた。
「どうかよい夜を」
 最後の一言は、見上げた月に向けたものだった。
 彼女の朗読はすなわち子守唄である。寝かし付ける相手は神であり世界そのもの。彼女が書を読み上げない限り、世界はどれだけ時間が経とうとも眠らず、夜が訪れないのだ。
 世界は神の庭に住まう巫女が捧ぐ詩によって眠り、神の使いである長尾鳥の鳴き声によって目を覚ます。神話として語り継がれていた舞台が実在するだなんて、幼い頃は考えたことも無かった。ましてや自分がその巫女となるだなんて。
 ある日突然陽が沈まなくなった。日を跨ぐことを忘れた世界では季節が移り変わらず、新しい作物も実らない。多くの者が飢え、神の怒りを静めるべく様々な儀式が行われた。少女は贄として神に捧げられ、雷に打たれてこの庭へとやってきたのだった。それ以来彼女は歳を取っていない。食事を必要とせず汗もかかない身体になったため、きっと既に死んでいるのだろうと本人は思っていた。
 巫女として選ばれた彼女の最初の仕事は、祭壇の清掃と、そこに転がっていた死体の埋葬だった。死してなお見目麗しい女の亡骸から流れ出した血が神の座を汚していたのだ。神の怒りに触れたのか、それとも自ら命を絶ったのかはわからない。ただ一つ理解できたのは、この亡骸が少女の前任だったであろうことだけだった。彼女が任を果たせなくなったために夜が訪れなくなっていたのだ。
 神の庭には出口がなく、少女が元居た世界と隔絶されていた。遠くへ歩いていこうとすると、いつの間にか元来た場所に戻ってしまう。他の住人も居ない。初めこそこの仕打ちに絶望し毎日泣き濡れたが、単調な生活の中で心は徐々に死にゆき、やがて孤独にも変化の無い生活にも慣れてしまった。
(私はやっぱり狂ってしまったのかな)
 月明かりを頼りに書庫へと向かいながらふと考える。人としての自分を諦め、夜を呼ぶための道具となったのはいつのことだっただろうか。桁ごとに石を並べて数えた日数は既に一五〇年を超えていた。正気でいたなら耐えられなかっただろう。彼女は静かな狂気に救われたのだ。
 書庫の扉を開き、乾いた香りを胸いっぱいに吸い込んでから、入り口付近に備えてある机にそっと本を置いた。書庫内は水晶の天窓以外の明かりが無く、書架も背の高いものが多く危険なため、夜間には作業を行わないようにしている。読み終えた本は次の日に片付けると決めていた。書物の管理、庭の手入れ、そして祭壇を含む建物の手入れが、世界を寝かし付ける以外の仕事の全てだった。
 一日の仕事を終えた後は、書庫の陰に隠れるように建っている小屋で朝まで休む。汚れることも破れることもない不思議な布に包まり、尾長鳥の鳴き声がするまで静かに眠ることにしていた。明かりが無いため他にできることも無い。
 しかし十数年ほど前から、巫女はある作業を日課とするようになっていた。朝に採取し、小屋の前に干しておいた細長い草の葉を手にして寝床へと腰を下ろす。そして傍らに置いてあった作りかけの草籠へと葉を編みこみ始めた。日が暮れてすぐの間だけ、硝子も紙も張られていない窓から月明かりが強く射しこむ。それを頼りに少しだけ細工をしてから寝るのだ。
「……よしっ」
 十本ほどの草を編みこみ、小さな籠が形になった。乾燥させれば完成だ。何かに使うわけでもない、ただ飾るためだけの品。大小様々な籠の他には座布団や敷物が用意されている。
 それらの中でもっとも気に入っている座布団はいつも寝床の隣に置いていた。自ら座るわけではないのに、座り心地を考慮して数枚重ねた状態で。
 誰かがここを訪れ、自分の隣に座ってくれることを夢見て。
(あるじさま、これはあなたへの反逆なのでしょうか)
 答えのない問いを自らの中で繰り返す。神の庭へ踏み込む不届き者を望むのは罪に違いない。しかし彼女は未だ罰せられてはいなかった。想うだけならば罰するに値しないのだろう。
 然るべき報いを受け、前任の巫女のように物言わぬ骸になったとしても構わない。この生きながらに死んでいる生活から抜け出せるのなら。そう思いながらも、また新たな贄が用意されて苦しむことになると考えると心が痛み、堂々と逆らう気にはなれなかった。
 だからひっそりと、少しだけ、密かな抵抗を行うことにした。
 布に包まりながら、「いらっしゃいませ」と小さく呟く。神をも恐れぬ反逆者がここを訪れたときに快く迎えられるように、心の準備をしておくのだ。その者が天からの罰を受け焼き尽くされることも含めて。
 目を閉じて夢想に耽る。孤独から開放され、客人のぬくもりをこの手に感じながら死ぬことができたならきっと幸せだろう。途切れ途切れになってゆく意識の中で、少女は今日も自らの最期を思い描いた。