自らの記憶を問いながら筆を走らせる。いつもはもっと容易に思い出せるのだが今日は少々勝手が違った。僕の右目としての役割も兼ねた補助記憶装置が、先日の騒ぎの果てに消失してしまったためだ。今は代わりに新しいものが填まっている。当然映像は新調されてからのものしか記録されておらず、僕は時々手を止めては頭を抱えた。普段から記憶力を高める努力ぐらいしておけばよかった。
一昨日から昨日にかけて歩んだ道をまた歩むことができればすぐに思い出せるだろう。けれど僕が再びあの町に足を踏み入れ、それが住人達に知られたなら、僕はまたしても命を狙われることになるに違いない。それも怨霊が出ただのゾンビが出ただのと大騒ぎされて。
机上に立ててあった鏡を見る。長方形の世界に写り込んだ僕は、先ほど生まれ変わったばかりだと言うのに早速疲れた顔をしていた。
今書いているものがいつも通りのレポートではないせいだ。役目を果たした結果の報告ではなく、役目の続行が不可能になった旨の報告。それもひどく理不尽な理由によっての。あんまりにもあんまりな理由のため気は進まないが、それでも報告書は書き上げなければならないので、引き続き昨日の出来事を振り返ることにする。
僕は二日目の仕事を終え、街のほぼ中央に位置する大きな公園で噴水のへりに腰を下ろし、夕陽に照らされた街をぼんやりと眺めていた。
数日前にこの世界に来て仕事を探していた時とは景色が一変している。あの時はまだ、美しく整備されているはずの石畳が、黒い大きな毛虫で埋め尽くされていたのだ。そのおかげで街路樹はどれも丸裸。近年稀に見る大発生で、役場のものだけではとても人手が足りないと判断し、害虫駆除を行うための人員を急遽募集したらしい。それを専業とする者がいないらしく、素人を集めて虱潰しに駆除を行うようで、僕は迷わずその流れに乗った。
様々な世界ですぐに就ける職を探して体験し、そのレポートを書くことが僕の――アカシア書房の記者、エリルベートの役目だ。書き溜めたものはやがて編纂されて本になる。……が、今回の事件とはあまり関係がないので詳しい説明は割愛する。
重要なのは様々な世界を渡り歩いてそれを行うということ。未開の地に行くこともあるし、既に詳しい情報が得られている地をガイドブックを片手に歩くこともある。情報は組織内で共有されているが、訪れたばかりのこの世界については、大雑把なことがメモされた紙を一枚入手できた程度だった。つまり僕が仕事をこなす傍らこの世界について知ったことをフィードバックすることになる。
しかしこの情報網は全て僕の同僚達――つまりそれぞれの世界や地域にとっての余所者によって作られている。訪れた地の特徴的なイベントなどについては調べられていても、現地の者にとって当たり前でありわざわざ口にするまでもないことは見過ごされがちだ。
話を戻そう。僕は石造りの美しい町並みと、辺りを行き交う人々をぼうっと眺めていた。十数人がかりで徹底的に毛虫を集めた結果、街の中心部の景観は二日で見違えるように良くなり、昨日は外出を控えていたと思しき人々も往来を賑わせていた。
しかし何故か道行く人々の多くが黒い服を着ていた。場所ごとに価値観は違うものだけれど、黒には停滞や死を感じる文化が多いのか、喪服は黒いものとしているところは少なくない。まるで街全体が喪に服しているかのよう。たまたま僕も黒い服を着ていたから浮いてしまうことは無かったものの、「こんな日に虫が湧くなんて不吉」と話をする声が聞こえてきて、何となく居心地が悪くなってきた。そしていい加減安宿に帰ろう、と思い始めた時、遠くできょろきょろと辺りを見回す少女が目に留まった。
黒服ではないので周りからは少し浮いている。はじめは見間違いかと思ったものの、近づいてくるにつれはっきりとしてきた姿は、確かに僕が見知ったものだった。
少し桃色を帯びた長い銀の髪を揺らし駆けてくる、子供と呼ぶには熟れすぎているけれど、大人と呼ぶにはまだ早いような姿をした少女。その眼がとても大きくて、俯くとまつげの長さが良くわかることを僕は知っていた。アカシア書房の本社に帰還した際によく顔を合わせている同僚だからだ。プライベートでも一緒に居ることが少なくない。
彼女は様々な祭典の取材とそれに参加した体験をレポートすることを役目としている。ここで会ったと言うことは、この街もしくはその近くの祭りに参加するのだろう、と思っていた。
「久しぶり! 今日のお仕事もう終わってるんだよね?」
笑顔を向けられたので、こちらも笑顔を返す。
「うん、ついさっき。ラビこそどうしたの、何の祭り?」
「違うよ、今日はお休みなの。それにしてもここ毛虫すごいねー」
「これでもかなり減ったんだよ」
僕らがラビと呼んでいる少女は、断りもなく僕のすぐ隣に腰掛けて(僕がそれを嫌がらないことは彼女も良く知っているからなのだけれど)、自らの肩にかけていた鞄の中身を探り始めた。
「じゃーんじゃじゃーん」
気の抜けるメロディを口ずさみながら取り出したのは小さな紙の箱だった。赤い姿をリボンで更に飾りたてたそれを、躊躇うことなく僕に差し出してくる。
「ね、開けてみて」
促されるがままにリボンを解き蓋を開くと、敷き詰められた緩衝材に茶色い塊が五つ埋まっていた。甘い香りがふわりと鼻をくすぐる。
「チョコレート?」
「うん、作ってみたら思いの外上手くいったんだ。せっかくだから誰かに食べて貰おうと思って」
なら書房内の誰かにあげれば良かったじゃないか、と無神経に言ってしまいそうになって、すんでのところで呑み込んだ。わざわざ自由な時間を消費してまで僕に届けてくれたのだから、きっと彼女の言う『誰か』は実のところ曖昧なものではないのだろう。思わずにやけてしまいそうになり、必死に顔の筋肉に力を込めて堪えた。
「ありがとう、ちょうど何かつまみたいと思ってたところだったんだ」
身体が栄養を欲しがっていたのは事実だ。毛虫の駆除に精を出したおかげで確かに疲労が蓄積している。
手は洗ったっけ、解散前に確かに洗ったな……と思い起こしながら丸いチョコレートに手を伸ばすと、ラビの白い手がそれを阻んだ。そして僕に代わってチョコレートをつまみ上げ、口元へと突きつけてきた。
「はい、どーぞ」
顔には笑みと期待を湛えている。ここが公園であることを考えると少々恥ずかしいシチュエーションだ。しかしここは彼女の心遣いに応えなければと腹を括った。嫌というわけではなく、どちらかと言うと嬉しい。甘えたがりな同僚のために僕はチョコレートを頬張り、ほのかな苦みと調和するまろやかな甘さに舌鼓を打った。
説明に必要な部分を残して、甘ったるいやり取りを省いて記しながら思う。この時彼女の顔だけではなく、周囲の人間の反応も見ておくべきだったのだけれど。
「……美味しい」
「そっか、良かったぁ!」
どうにも照れくさくて、眩しすぎる彼女の笑顔を見ていられなくなり、僕は思わず視線を公園の出入り口のほうへと移してしまった。……そして、ようやく異変に気がついた。
立ち話をしていた中年の女性たちが、ベンチに腰掛けて休息を取っていたと思しき男性が、かけっこをしていた子供たちが、皆ぴたりと動きを止めてこちらを見ていた。
一様に目を見開いて、何かとてつもなく怖ろしいものを見てしまったかのような形相で。確かに僕らが少々公共性に欠いたことをしてしまったかもしれないが、だからと言って人殺しの現場でも目撃してしまったかのような視線を向けられるのは流石におかしい。
ラビもまた異変に気づき、不安げな目で僕と周りの人々を交互に見つめた。そして少しの膠着を経て、服を砂で汚した少年たちが次々と声を張り上げた。
「リアッジュだ!」
「ほ、本当にいたんだ!」
「ひっ! こっち見てる!」
「おい逃げるぞ! 大人に伝えないと!」
少年たちは大慌てで公園の外へと走り去っていった。他の者たちはじりじりと後退し、ある程度の距離を保ってこちらを睨みつけてくる。突然漂いだした異様な空気に肌を灼かれながら、僕はラビの手を強く握り囁いた。
「逃げよう。嫌な感じがする」
「う、うん」
そのまま彼女の手を引いて早足で公園を後にした。少年たちが走り去った方と逆の方向に、とにかくすぐにこの場を離れたくて。
「リアッジュって何だろう……エリー、知ってる?」
「知らない……」
僕らにはどんな言語も苦労なく使いこなせる機能が備えられている。しかし完璧なものではなく、僕らが主に使用している言語で表現することが難しい概念は翻訳できないことがある。少年たちが口にした謎の単語はきっとその類なのだろう。
事情はさっぱり飲み込めないが、とりあえずあの場から離れて騒ぎをやり過ごしてから宿に戻ろう。ラビにはすぐに帰って貰おう。そう思い石畳を踏みしめて歩いているうちに、僕は己の考えの甘さを自覚することになった。
足音が近づいてくる。それも明らかに大勢の。驚いて振り返ると、僕らが来た方向から大人の男が大多数を占める集団が、異様な熱気を放ちながら駆けてきていた。
「いたぞ! リアッジュだ!」
「呪われた者め!」
「奴らの冒涜を許すな!」
「殺せ!」
明らかに度を超えておかしな事態になっている。血の気がすうっと引いていくのを感じた。ラビもまた心なしか青い顔をしていた。
「と、とりあえず逃げるしかない?」
「ああ!」
繋いでいた手を解き、眼帯をむしり取って全速力で駆けだした。僕らが多くの人より優れた身体能力を備えていると言えど、訪れたばかりの地で現地住人と繰り広げる逃走劇はかなり絶望的だ。嫌な寒気が背筋を走った。
がむしゃらに走っているうちに追っ手はどんどん増える。あれが決定打だったと言う確証はないが、ラビにチョコレートを食べさせて貰ったことが原因なんだろうとは予想がついた。納得は行かないけれど。
大きな道を行けば追っ手が増えるし、小路を行けばどこかで行き止まりにぶち当たる可能性が出てくる。逃げ込む先を定められないまま、僕らはがむしゃらにただ走り続けていた。が、
「げっ」
間抜けな声を出してしまった時には既に遅く、身体が宙に浮いていた。昼に駆除しそびれた毛虫を、それも大勢が塊になったものを踏んでしまったのだ。受け身も取れないまま勢い良く前のめりに転び、服で更に毛虫を潰した。不快極まりない。
「大丈夫!?」
「いいから逃げろ!」
物語で先に死ぬ奴がよく言うような台詞を思わず吐いてしまっていた。しかしラビは素直に一人で逃げるような女ではない。焦りながらも迷い無く僕に手を差し出し、断固として譲らなかった。
僕は仕方ないなと心の内で呟いて彼女の手を取った。その時だった。
彼女の背後に、背に人を乗せた小型の翼竜が舞い降りたのは。
今まで僕らを追っていた者たちが慌てて来た道を引き返して行く。まずい、と思ったときには既に遅かった。小型とは言えど大人の男一人半は背丈のある竜が、口を大きく開き、その中に煌々と、小さな太陽を思わせる炎の渦が集束して――
「爆死しました……っと」
確かめるように呟きながら、我ながらどういうことなんだと思わざるをえない一文を書き込んだ。
今こうして僕らがここにいるは、あの後このアカシア書房の技術部で肉体を新調されたため。常に魂を管理システムと同期しているゆえにできる業らしい。詳しい仕組みはさっぱり解っていないのだけれど。正直なところ、作り直しが利くからと言う理由で酷使されすぎている気がする。特に技術部に世話になっている僕が思うのだから間違いない。
一つ大きくため息をつき、ずれた思考を修正して記述を続ける。事の顛末の次に記したのは、どうして僕らがあんな目に遭ったのかと言うことだ。
丁度暇そうにしていた、人員回収をはじめとしたサポート担当の同僚に頼み込み、くれぐれも女性と菓子の食べさせあいをしないようにと念を押しつつ調べて貰ったところ、僕らは本当に運悪く地雷を踏んでいたのだということがわかった。
あの街がある大陸で広く信じられている宗教において、一年に一日だけ、絶対に男女で菓子を与えあってはいけない日があるのだそうだ。なんでもそれは神話に由来するもので、彼らが信奉する神を冒涜し、その御心を著しく傷つける行為であるらしい。
彼らが言っていたリアッジュとは『節制の日に禁を破り不貞をはたらく、恥知らずの、神の炎で焼き尽くされるべき者』との事だそうだ……と、調査を代行してくれた彼は教えてくれた。この借りは後ほど返すとしよう。
判明した事情の説明に続いて、これらの情報を取材のためのデータベースに登録した旨を記してようやくレポートの執筆が終わった。これで後にあの場所を訪れる同僚たちが前轍を踏むことは無くなるだろう。
とにかく明日この紙を提出すれば全てが終わる。事態が収束した実感がようやく沸き上がり、安堵の息が漏れた。
紙と筆記具を片づけ、僕の自室で今唯一光を放っている魔術灯に手を延ばした。見た目は一枚の金属の板だが、部品をスライドさせることで陣が完成して、宙に光の球が浮かぶ。消す時は逆に陣を崩してやればいい。その冷たいスイッチに手を触れたところで、土産としてこれをくれた者のことを思い出した。
半身を捻り、飾り気のないベッドを見る。布団も被らないまま、いつもの格好から靴を脱いだだけのラビが、枕を抱いて静かに寝息を立てていた。この一件に強く責任を感じてしまったらしく、僕の部屋に押し掛けて、許しを受け止めきれず謝り倒した末に泣き疲れて寝てしまったのだ。
よく眠っているのをいいことに、ぐっと顔を近づけて寝顔を観察すると、滑らかな頬に涙の乾いた痕が見えた。僕に言われてはおしまいかもしれないけれど、彼女もかなり不器用な子だと思う。
「……おやすみ。良い夢を」
あんな事があった後では無理があるが、それでも願わずにはいられない。
彼女の頬にそっと口づけを落としてから、灯りを消した。